中野太郎 超武闘派ヤクザの悲しい結末

人物

映画『不檄(ふれぶみ)~男たちの生きた証~』大阪シアターセブンで上映中。単館の映画館みたいです。関東の住まいのため、行ったことがなくすいません。

ヤクザ・任侠映画は好きなんですが、気にはなったものの映画館に足を運ぶ気にはならず、どこかのサブスクで解禁されたら見たいと思います。1997年に起きた「中野会会長襲撃事件」を題材にしてます。この事件は、当時センセーショナルに取り扱われました。

1996年7月、京都府八幡市で5代目山口組系中野会会長が4代目会津小鉄系組員に襲撃された事件。理髪店で散髪していた組長・中野太郎が対立していた会津小鉄のヒットマンに襲われる。

コッポラの名作ゴッドファーザーに理髪店で暗殺されるシーンがある。映画のような出来事だったためよく覚えている。ニュースでは「山口組のほうが喧嘩慣れしている、熟練度が違うわ」と元警察官がコメントしていた。

発射された弾丸は組長に当たらず、逆に組長のボディーガードが返り討ちにする。ヒットマン2人は殺されてしまう。

事件は1996年だが、その4年前から揉め事が起きていた。会津小鉄は京都を拠点にしている暴力団。神戸の中野会が侵略している感じだが、関東と違い、関西の暴力団は縄張り意識が薄いとききます。

1992年から警察官も殺害、抗争が続く。

  • 1992年4月、京都府で、五代目山口組中野会関係の不動産業者が、四代目会津小鉄系組員に刺殺された。翌1993年の10月に会津小鉄組員が京都市の山口組系事務所を銃撃。さらに山口組系組員が滋賀県大津市の会津小鉄系組事務所の駐車場で会津小鉄系組員を射殺した。

    1995年6月、山口組と会津小鉄の間で26時間以内に14件の発砲事件が起った。すぐに、山口組と会津小鉄は、手打ちを行った。そして7月、中野太郎の自宅に銃弾が撃ちこまれた。

    1995年8月24日夜、京都市東山区祇園の繁華街で、山口組藤和会山下組組員と会津小鉄系山浩組組員が口論となった。山下組組員が山浩組の山本浩令組長を狙撃、山本は重傷を負った。その後、山口組関係者宅に銃弾が撃ち込まれた。

    1995年8月25日午前4時10分、山口組藤和会山下組組員2人が、京都市左京区の山浩組事務所近くで、私服で警戒にあたっていた京都府警巡査部長を会津小鉄系組員と勘違いして射殺。

    1996年2月18日、山口組総本部で、山口組若頭補佐・桑田兼吉と共政会・沖本勲会長と会津小鉄若頭・図越利次の五分の兄弟盃が、執り行なわれた。4月には宇治市のパチンコ店で会津小鉄系組員が射殺された。

山口組が4人を殺害しています。間違って警察官も巻き込まれています。それに対し会津小鉄の方は、重傷を1人のみ。攻撃性の違いが顕著に現れています。山口組が関東に侵攻してきたときもそうですが、縄張り・土地に拠点を置く側は、応戦するしか手立てはありません。

反撃(返し)をしないヤクザは、衰退するのが決まりらしく、会津小鉄会はトップのクビを狙いに行きます。それが理髪店で散髪をしていた中野会・中野太郎でした。

これにも疑問があります。会津小鉄が単独で中野太郎を弾く?組織として差がありすぎますし、一連の抗争も一方的な勝負でした。当事者をないがしろにした、手打ちをした宅見勝・若頭が関与?

中野会は、山口組主流の山健組に属していました。全盛期には準構成・関係者も含めると3000人ともいわれる巨大な組織な組織。

この会津小鉄の理髪店での中野会会長襲撃事件が、山口組主流派の内部崩壊の引き金を引くことになります。

中野太郎は当事者である自身の承諾なしに会津小鉄と和解した事に不満を抱き、宅見勝と激しく対立する。1997年7月「宅見若頭射殺事件」に繋がった経緯がありますが、これには色々、推測が考察されています。

よく言われている事柄ですが、山口組元顧問弁護士の山之内幸夫氏は、元渡辺山口組組長の任期は10年で、終わったら退くという事が決まっていた。この事件が起こった時期にその任期が迫っていた。一説には、渡辺組長も肝臓がんによる生肝体移植をしており、正常な判断ができなかったのでは?とも。統治能力が弱体しており、格下の組織から右腕となる中野太郎が狙われる、ということになったとも。

宅見若頭は末期がんで余命いくばくもない。渡辺組長の出身母体でもある山健組組長の桑田組長にする予定であった。しかし、渡辺組長は宅見若頭と桑田組長と仲が悪い。宅見を消して、忠実な中野太郎を側近もしくは若頭に就任を目論んだ。というものですが、末期がんの人をわざわざ?

やはり感情的な部分が支配していたような気がしないでもありません。

末期がんの宅見勝を暗殺、山口組のNO2です。一般人も犠牲が出て、中野会・中野太郎は絶頂期から奈落の底に落とされます。信じていた人に梯子を外された形だと言われます。

山口組から追い出され、独立組織になりますが、宅見組から報復が続き、3000人いた組員はほとんどいなくなます。2005年まで組は解散。失意の中、2021年01月10日、病気のため亡くなります。84歳でした。山口組の主流も名古屋に移り、5代目渡辺組長も鬼籍にはいり、84歳まで生きたのは意地だったのかも知れません。

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