リリアス・アディ 悪魔と性交渉をして魔女に

人物
魔女と呼ばれた女性の復元図 COURTESY UNIVERSITY OF DUNDEE

スコットランドの小さな村トリーバーン出身のリリアス・アディーは、魔女と性交渉を持った女性と記録され、頭蓋骨が残っていたことで名が残っている。

ファイフ州トリーバーン出身のリリアス・アディは、自分は魔女で、悪魔と性交渉を行ったと自白して投獄されたとされており、1704年に牢屋の中で亡くなった。自殺したと思われる。

通常は、魔女裁判では、火あぶりの刑にされ遺骨は残らないが、彼女は火あぶりの前に牢獄で、自殺したと思われ、遺骨が保存されていた。

その後、地元人々は、魔女と信じていたため蘇って災いをもたらすことを恐れ、遺体を海岸沿いにある封印した重石の下に埋葬する。その後、19世紀になると、魔女を信じない科学者が研究の目的で、遺体を掘り起こし、頭蓋骨はセント・アンドリュース大学の博物館に送られる。

セント・アンドリュー大学博物館で保管され、写真が撮られている。だが、20世紀に入ると頭蓋骨は紛失し、写真だけがスコットランド国立図書館に保管されていた。

告発した者の記録には、リリアスの様子が描写されている。それによると彼女は60代と思われ、体が弱く、視力も衰えていたと推測される。殆どの魔女とされた女性は高齢者だったといいます。

彼女は拷問のような尋問で、魔女集会に集まった女性たちは貴婦人のように布で顔を隠していたので、名前はわからないと答えたという。強要されて言った名前は、すでに知られていた名前ばかりで、ほかの女性たち波及しないように、妥当な理由を考え続けたと。

魔女のレッテルは貼られた者たちは、残酷で痛ましい方法で尋問され、次々と処刑されていった。群衆を統率するために恐怖を植え付けるおぞましい迫害とされる。

ヨーロッパで魔女狩りが盛んに行われましたが、理由について、たくさん考察・研究されているものの、はっきりと断言できるものはありません。

女性だけではなく、男性も「魔男」として25%ぐらいを存在したと言われます。残り75%は女性です。悪魔(サタン)と性交することに魔力を得ると考えられていました。そのため男性が「魔男」とされたのは同性愛が関係していると説を唱える研究もあります。

wikiより。

  • 女性迫害説

    魔女狩りの犠牲者のうち7割から9割ほどが女性であり、主たる要因としては女性への迫害が挙げられる。犠牲者は一人暮らしの老婆が多く、貧困層の女性が狙われやすかったという。

    ただし、男女や年齢の割合については地域や時代によるブレもある。この問題に焦点が当てられたのは20世紀に入ってからと遅いが、メアリ・デイリーはこれを、魔女狩り研究のほとんどが「女性を処刑する側の視点」から行われてきたためだと指摘している。

    金銭目当て説

    ドイツの歴史家ヴィルヘルム・ゾルダンは19世紀末に、権力者や教会関係者の金銭欲が魔女狩りの契機になっていたということを示唆し、それに続く歴史家もこの見方を信じていた時期があった。

    しかし、概して被告の多くは貧しい人々であり、告発者も通常は利益を得ることができなかった。多額の魔女裁判費用を賄うために被告の財産を没収する地域もあれば、財産没収を行わない領邦もあった。17世紀に活動したケルン選帝侯領の魔女派遣委員フランツ・ブイルマンは「中立的な学識法曹」を自称する助言者として魔女裁判を取り仕切り、時には拷問中に亡くなった裕福な女性の財産をせしめることもあったが、これは特殊な事例である。

    異教説

    エジプト研究家・民俗学者のマーガレット・マリーは、異端審問官らに悪魔の代理とみられた魔女たちは実はキリスト教よりも古い神ディアヌスを崇拝していたのだという説を1920年代から提唱した。

    その説によれば、ディアヌス崇拝こそが中世ヨーロッパに底流していた有力な宗教であり、表層のキリスト教信仰に対する強敵であった。そして宗教改革期にキリスト教支配が民衆に浸透した結果、キリスト教の敵である魔女にたいする迫害が可能になったというのである。

    マリーの説のように古来の豊穣崇拝が異教的伝統として生き残っていたという見解は、のちにはカルロ・ギンズブルグなどの研究でも示唆されている。しかし当時の人々のなかに明確な異教信仰があったという証拠はなく、ギンズブルグらの利用した史料の情報提供者である農民たちも第一義的にはキリスト教徒であった。

    女性医療師弾圧説

    19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレの想像した魔女像には、古くからの民衆の医者という側面がある。カトリック教会は医学を学んだことのない女性治療師を魔女として有罪宣告したのだとミシュレは述べた。

    アメリカのフェミニスト研究者バーバラ・エーレンライクとディアドリー・イングリッシュ  は、「魔女とされた人々は女性医療師たちであり、魔女の集会とは、女性医療師たちによる情報交換の場であった」と考え、「魔女狩りとは世俗権力や教会の指導者たる男性たちによる女性医療師への大規模な弾圧であった」と主張した。

    しかし、この理論ではなぜ農民自身が魔女狩りを推し進めたのか、魔女狩りの被告となった少なからぬ数の男性たちがいた事実をどう説明するのかなど、理論としての精確さに欠けている。そのため、これらの説は現代の研究者たちには受け入れられていない。

    災禍反応説

    20世紀に、魔女狩りが戦争や天災に対する庶民の怒りのスケープゴートであり、ペストや戦争などの災禍が起こっていた時期と地域が、魔女狩りの活発さと関連していると主張する説が現れた。しかし実際には三十年戦争のピーク時には魔女狩りが沈静化しているなど、災禍と魔女狩りにはっきりとしたつながりは見られない。

    宗派的角逐説

    イギリスの歴史家ヒュー・トレヴァー=ローパーらは、「魔女狩りはカトリックとプロテスタントの宗派間抗争の道具であった」と主張した。カトリック優位の地域ではプロテスタント市民が、逆にプロテスタント優位の地域ではカトリック市民が、それぞれ魔女として迫害されたということである。

    しかし、この説も対立する宗派の人間がほとんどいなかったイングランドのエセックス州、スイスのジュネーヴ、イタリアのヴェネツィア、スペインとフランスにまたがるバスク地方などにおいて激しい魔女狩りが行われ、逆にカトリックとプロテスタントが激しく争ったアイルランドやオランダなどで魔女狩りがほとんどなかったことを説明できない。

    社会制御手段説

    ラーナーとJ・H・エリオット、ロベール・ミュシャンブレッドは、魔女狩りは権力者が弱者に対する支配を拡大強化のために使ったとする、社会制御手段説を主張した。この理論は、もっともだと思われる点がある一方で、権力者が白魔術に対して寛容であったのはなぜか、あるいはなぜ教会や世俗権力が中央集権化した中世盛期に魔女と魔術を放置しており、近世初期になって突如魔女狩りが始まったのかを説明できない、権力者を一概に悪に決め付けているなどの批判がある。

    固く信じられていた魔女の存在

    デルカンブルは、ロレーヌの魔女裁判における裁判官と被疑者の心理について研究した。この研究によれば、裁判官は高潔な人々であり、被疑者が心の平安を得ることを真剣に望んでいた。また被疑者たちのなかにも、自らは魔女であり心から自分が有罪だと信じている者もいた。このように魔女の存在が固く信じられていたことは、裁判の進行に重要な役割を果たした。こうした特徴は、ドイツ、イタリア、スペインの魔女裁判でも示された。

    立法者や裁判官を含む多くの人々が魔女の存在を固く信じていたから近世ヨーロッパの法廷で魔女が有罪とされたと、ジェフリ・スカールとジョン・カロウは結論づけている。

たくさん説があるが、どれも判然としない。

内容は、異端に関する諸説を巧みに組み合わせ、注釈を付けた百科全書的な書物。特徴としては、通常の異端審問とは異なり、黒魔術などの邪術にアクセントを置いたことと、異端や邪悪の根源として女性に的を絞っている。黒魔術と白魔術は概念的なもので善と悪。

1484年12月5日、教皇インノケンティウス8世は魔女狩りを行うことへのお墨付きを与えてほしいと願ったクラーマーに対して回勅「限りなき願いをもって」によって答えた。クラーマーはこの回勅(通称「魔女教書」)を『魔女に与える鉄槌』の序文として転用している。

これによってクラーマーの著作が教皇のお墨付きを得ているかのような印象を与えることに成功したが、本来この回勅は審問官としてのクラーマーとシュプレンガーの役割を認めるだけのものであった。しかし、教皇の回勅が魔女の存在とその弾劾の必要性を認めたことが、血塗られた魔女狩りの時代を開くきっかけとなった。

ヨーロッパ中世末の15世紀には、悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者という新種の「魔女」の概念が生まれるとともに、最初の大規模な魔女裁判が興った。そして初期近代の16世紀後半から17世紀にかけて魔女熱狂とも大迫害時代とも呼ばれる魔女裁判の最盛期が到来した。

魔女狩りは、キリスト教内の争い(カトリックがプロテスタントの弾圧)と思われていた。

12世紀の異端審問が始まるとカタリ派、ヴァルド派など弾圧と虐殺が行われる。1428年に弾圧から逃れたスイス・ヴァレー州の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。

近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力ではなく民衆の側にあり、15世紀から18世紀までにヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑された、という説が有力である。魔女狩りの様態は時代や地域によって幅があり、様々な社会的、文化的な背景が関係していると考えられている。

腐敗したカトリックから、禁欲で清貧なプロテスタントが生まれ、それを権力と体制側のカトリックが広がるのを恐れ、異端審問という形で弾圧・虐殺を行った。その理由付けとして魔女というのが必要だったというところでしょうか。キリスト教内の出来事から、地域的な事情が絡んでエスカレートしていったのかも知れません。

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