和田一夫「おしんが作って息子が潰した」ヤオハン

人物

かつて存在した巨大小売スーパー。

海外に強かったが、国内では静岡周辺に限られ全国的知名度があるスーパーではなかった。倒産するまで知らなかったし、行ったこともありませんでした。国内の競争を避けて海外進出に熱心な企業で、特に中国に思い入れが強く中国市場を制覇を狙っていた。思いとは裏腹に倒産時、香港誌は「おしんが作って息子が潰した」と突き放した。

1980年代までに世界規模のスーパーマーケット及びショッピングセンターチェーンに発展するも、1997年に経営破綻してしまった。バブル崩壊が1991年。最初は金融機関や不動産が衝撃を受けたが、小売業界の破綻連鎖となった最初の大型倒産で、これが始まりです。

1929年に静岡県熱海の八百屋として創業し、世界15ヶ国で400店舗以上を運営する巨大小売・流通チェーンに発展した。最盛期の売上は、グループ全体で年間5,000億円程度であった

貧しい家庭から裸一貫で上りつめたストーリーは、マスコミにドラマチックに取り上げられた。創業者の和田カツがNHK連続テレビ小説「おしん」のモデルであるとする説もあるが、このテレビドラマの筋立ては必ずしもヤオハンの創業過程をなぞったものではない。

創業者夫婦の長男でありヤオハン社長として急速な業務拡大を行った和田一夫は新宗教「生長の家」の熱心な信者であり、同社ではこの宗教の教義を社是として取り入れ、活動の原理としていた。

社是「生命の実相哲学の正しい把握とたゆまざる実践を通して、全世界人類に貢献するための経営理念を確立する」

これは1965年、熱海の1店舗のみで営業していた当時に定められたものであるが、世界規模の小売業に発展した後にまで引き継がれた。新店舗開店の際には、新宗教「生長の家」の祈りが和田と社員で欠かさずに行われていたという。

1960年から新入社員教育に生長の家の理念が取り入れられ、河口湖の錬成場での合宿も行われていた。世界中で新店舗が開店する際には、社員と共に行う生長の家の祈りが欠かされなかったという。1981年には「生長の家栄える会」会長に就任している。教団本部の理事長まで務めたが、「生長の家本流運動」の原型となる所謂「飛田給派」によって1982年に辞任に追い込まれた。

ヤオハンジャパン倒産の原因は,和田一夫ヤオハンジャパン会長が自ら分析しているように,「転換社債大量発行による安易な資金調達を利用した過剰投資と非効率な経営」(日本経済新聞 1997.10.14 日付)に尽きます。

ヤオハンの歴史

八百半の語源は「八百屋の半次郎」.明治時代の小田原の青果商八百半が始まりです。この店は,貧しい農家の次男であった田島半次郎氏が始めた店で,やがて,小田原一の青果商となり,湯本,箱根,湯河原,熱海,伊東と手広く卸を扱うようになりました.

1927年,奉公人の和田良平氏が,半次郎氏の命で,熱海で行商を行うようになりました。小田原で野菜を仕入れ,旅館の土蔵の軒下に野菜を置いて小売をする傍ら,そこから天秤棒を担いで得意先の旅館への野菜卸に行く,という大変な重労働だったようです.

1928年,良平氏は,半次郎氏の娘のカツ氏と結婚しました.この和田カツ氏が,おしんのモデルと言われる人です.カツ氏は,両親の勧めで良平氏としぶしぶ結婚しましたが,最初はこの縁談に全く気が向かず,結婚から逃れるため家出したりもしました.高給取のサラリーマンとの結婚を望んでいたようです.

良平氏とカツ氏との間には,長男の一夫氏を始めとする5人の男子が生れました.いわゆる和田五兄弟です.後に,上の4人はヤオハングループの中核を担うようになり,5男泰明氏は,山西家の養子となり,山陽のスーパー・イズミの社長を継ぎました.

1930年,良平氏は半次郎氏から実質的なのれん分けを受け,新店舗を借りて八百半熱海支店を開店しました.これが,和田一族のヤオハングループの発祥と言われています.

1948 年,八百半熱海支店は,株式会社八百半商店に改組,会社組織となりました.良平氏が社長に就任しました.1949 年,八百半商店はそれまで借りていた店舗を買い取ります.このとき,八百半商店は,旅館への野菜卸を中心に,熱海で一,二の大きな八百屋となっていました.

1950 年,熱海の大火(焼失家屋 1,015 戸)で店は全焼します.この日の朝,カツ氏は火災保険に入るためのお金を一夫氏に置いて出掛けていたのですが,一夫氏は忙しさにかまけて手続をしていませんでした.また,店の管理を任された一夫氏は,火災を甘く見て火が店に燃え移る直前まで荷物を運び出さず,損害を大きくしました.後の倒産劇に結びつくような,危機管理の甘さを感じさせます.大火後は,バラックの店舗を急造して,一家の総力をあげて働き,2年後の1952 年 ,店舗の新築に漕ぎ着けました.

1956年,カツ氏は,旅館相手の野菜卸という業態に疑問を感じるようになりました.板前へのリベートが横行したり,未回収の売掛金が多大になったりで,売上の割に資金繰りが苦しかったのです.カツ氏は,良平氏を説得し,現金正札販売で有名なベニマル(ヨークベニマル)を,福島県郡山まで見学に行きました.

当時,ベニマルは,八百半商店の 1/10 程の店舗で,1日25万円もの売上がありました.このとき,八百半商店は,せいぜい 1日10万円の売上でした.しかも,八百半商店の売上の大半は掛売なのに対して,ベニマルの売上は総て現金です.

この年の内に,良平氏は,社名を株式会社八百半食品デパートと変更するとともに,旅館相手の野菜卸と決別し,主に一般消費者相手に食料品の現金正札販売を始めました.現在のスーパーマーケットの原形ですが,当時,このような商売を行う店は,全国でも十数軒しかありませんでした.

思い切った選択と言えますが,この選択は間違っていませんでした.現金正札販売は,御用聞き,配達,掛け売りなどの手間を省く分,品物を安く販売でき,当時,熱海で大評判になりました.新聞には,「八百半で買い物してその安くなった分を熱海市民が1年分出したら,小学校が建つ」とまで書かれました.

1962年,株式会社八百半デパートに再び社名変更.同時に,良平氏が会長に退き,一夫氏が33の若さで社長に就任しました.この頃,八百半デパートの店舗は熱海 1 店だけでしたが,一夫氏は,1965年頃から,八百半デパートのチェーンストア化を強力に推し進めて行きました.

同じ形態の店を次々に作って本部で一括コントロールすれば,効率よく売上・利益を伸ばせるという考えでした.チェーン化は,まず伊豆半島を制覇して,後に富士山をグルリと囲む,という構想だったようです.このチェーン化は着々と進められ,売上は順調に伸びていきました.

しかし,八百半デパートがチェーン化を始めた頃,ダイエー,イトーヨーカドー,西友などの大手スーパーは,すでに全国チェーン展開に乗り出しており,中小スーパーを合併吸収しながら,全国制覇を目指していました.第二次流通革命と言われる弱肉強食の時代でした.

1969 年,関西の雄ダイエーは,西友のお膝元である東京赤羽に乗り込み,西友と利益無視の安売合戦を繰り広げました.これは赤羽戦争と呼ばれました.この頃,一夫氏は大変な危機感を持ったようです.というのは,当時,ダイエーは年間売上 1,000 億円,ヤオハンは同 30 億円で,もしダイエー等の大手スーパーがヤオハンのお膝元の静岡に乗り込んできたら,ヤオハンは一呑みにされる可能性があったからです.

ヤオハンが大手の仲間入りをしようとすると,東京・大阪へ打って出る必要がありますが,それも返り討ちに遭う可能性が高く危険です.

このような状況の下,一夫氏は海外進出を構想しました.競争の激しい国内でチェーン化を無理やり推し進め疲弊するよりも,まだ競争の少ない国に進出した方がメリットが大きい,と考えたのです.

一夫氏の頭の中には,ソニーの国内外での成功があったようです.ソニーは,かつて,松下,東芝,日立といった資本力のある大企業の中で苦戦を強いられていました.そのとき,海外進出し成功し,その力を国内に還元して,ソニーは国際優良企業となったのです.

八百半デパートは,流通業界のソニーを目指したのです.そして,一夫氏は,特に発展途上の国々に目を付け,1971 年,ブラジルへ日本流通業初の海外進出を果たしたのを皮切りに積極的に海外展開しました.シンガポール,コスタリカ,アメリカ・・・

ただ,海外進出はリスクが付きまといます.特に,日本流通業初の海外進出となったブラジル進出では,金融機関が軒並み反対しました.八百半デパートの国内基盤も軟弱な段階だったので,当然です.八百半デパートは,結局,銀行融資を受けることが出来ず,海外経済協力基金に頼りました.

このとき以降,一夫氏が国内外で積極的に推し進めるハイリスクな拡大戦略はしばしば銀行の反発を買いました.これが後々,倒産の原因の一つともなります・・・

ブラジルヤオハンの経営は,当初は順調で,それに自信を深めた一夫氏は,国内の八百半デパートでも積極的にチェーン展開の拡大を推し進めました.ところが間もなく,八百半デパート創業以来最大の危機が訪れました.きっかけは,良夫氏が亡くなった 1973 年の第四次中東戦争後に起こった第一次オイルショックでした.

まず,国内でインフレ・不況と連続して発生しました.八百半デパートは,チェーン店網の拡大のために借入金を増やしていたところなので,あっという間に資金繰りに窮するようになります.

その後,1975 年には,ブラジルで,日本を上回るインフレ・不況が発生し,今度はブラジルヤオハンが危機に陥りました.インフレ率 60% は,ドル建ての借金をどんどん膨らませました.そして,金融引締策の金利 80% は,支払金利を急増させました.

また,サンパウロ市の突然の日曜営業禁止令が,ブラジルヤオハンの売上を急減させました.ヤオハンブラジルは,日本の八百半デパートへの支援要請を考えました.しかし,八百半デパート本体が既に危機に瀕していた上,外国からの送金は 40% 凍結され,輸入品は 400~600% の高関税率が課せられ,支援を仰ぐことは出来ませんでした.

踏んだり蹴ったりの状態で,結局,ブラジルヤオハンは敢え無く倒産しました.進出からわずか 6 年後の 1977 年のことでした.国内・ブラジルで不振に見舞われた八百半デパートは,金融機関の信用を失いました.銀行借入もままならなくなり,一時は手形不渡寸前まで追い込まれたようです.

しかし,八百半デパートは,何とか持ち直し,ブラジルヤオハンの清算を終え,1982 年に名証二部,1986 年に東証一部への上場を果たしました.証取上場の前後を通じて,八百半デパートは,一時期の危機を忘れたように,尚も拡大戦略を続けました.自社のチェーン店網を拡張するとともに,国内外に子会社・グループ会社を作り,積極的に拡大戦略を取りました.香港,マレーシア,タイ,中国,マカオ,イギリス・・・

1989年,一夫氏は,八百半デパートの会長に就任し,社長を弟の晃昌氏(次男)に譲りました.また,中国大陸の事業をヤオハンジャパン本体から分離し,その持株会社としてヤオハン・インターナショナル・ホールディングスを設立しました.翌年 1990 年には,ヤオハングループ本部を香港へ移転し,中国大陸中心の経営戦略を明確に打ち出しました.

八百半デパート本体は,1991年に株式会社ヤオハンジャパンと再び社名変更し,その前後の 1990~94 年に,転換社債・ワラント債の大量発行で 624 億円を金融市場から掻き集めました.ヤオハンジャパンの自己資本は 400 億円程度でしたから,如何に大きな金額であったかが分かります.ヤオハンジャパンは,この 624 億円を,国内外百貨店事業・自社店舗網などへの投融資として固定資産化して行きました.

1995年には,アジア一の巨大百貨店である NEXTAGE 上海を開店し,1996年,ヤオハングループ本部を上海へ移転しました.多くの人々は,ヤオハングループの中国大陸へのド派手な事業拡張に度肝を抜かれました.これに先立ち,一夫氏自身は,香港の14億円の豪邸スカイ・ハイを買い取り,得意の絶頂へ上り詰めようとしていました.この間の 1993年,カツ氏が亡くなりました.本人も述べているが、母がなくなったことで、歯止めをかける人がいなくなってしまう。

  • 「私は猪突猛進の姿勢でヤオハンのコングロマリット化を目指していた。後ろを振り向くのは退化に等しい、と。特に、93年に母のカツが亡くなると、歯止めをかける人もいない。チャンスと見ると、強烈なゴーサインを出した.

    私には妙な説得力があるようで、プロジェクトの素晴らしさをとうとうと説明すると関係者がその気になってしまう。実際、私はバランスの取れた経営者ではなかった。その不足を補って、進言してくれる側近もつくれなかった.」

  • 国内外百貨店事業は,そのリスクのため,銀行がこぞって反対したと言われています.そのため,銀行融資を受けることが出来なかったのです.しかし,ヤオハンジャパンは,銀行と決別し,直接金融で資金調達し,何かに取り憑かれたように,猛烈な拡大に走りました.

転換社債発行により集めた資金は,借金に他なりません.グループ躍進のために背負ったこの 624 億円の大借金が,間もなく,ヤオハンジャパンを追い詰めることになりました.転換社債・ワラント債の一部 30 数億円分は株式に転換されましたが,結局,それ以外の転換社債・ワラント債は,1996~2001 年の間に償還しなければいけなくなったのです.借りてから僅か 4~9 年.ほぼ毎年 80~200 億円ずつの返済(償還)を迫られたのです.

借金で集めたお金が国内外百貨店事業・自社店舗網などへ投融資されたからには,それらから得られるフリーキャッシュフロー(= 純利益 + 減価償却費 - 設備投資額)を源泉に借金返済に当てるのが筋です.

しかし,投融資先のグループ各社は,総じて赤字続きで,投融資資金を回収できるような状況ではなかったのです.1997.03 期決算で,ヤオハンジャパンは,グループ各社に対する貸倒引当金・株式評価損などで 370 億円もの特別損失を計上したのでした.また,頼みの綱の新旧自社店舗とても,設備投資に見合う程の収益力はとても持ち合わせていませんでした.

1996.12,最初のワラント債残額 117 億円の償還期限が来ましたが,ヤオハンジャパンは,早くもこの段階で資金難が発覚しました.これに先立つ同年8月前後から,仕入先に買掛金の支払繰延を要請し始めていたのです.

ヤオハンジャパンの資金繰悪化・経営難の噂は,アッと言う間に広がり,社債の格付引き下げ,株価急落と世間の不安感はいっそう深まります.12 月のワラント債は大和銀行の銀行保証が付いていたため,何とか銀行借入で償還資金を確保しました.

取り敢えず急場を凌ぎましたが,この頃から,買掛金決済日のたびに30億円を超える支払繰延が続いたと言われています.ヤオハンジャパンは,尚も続くピンチを乗り切るため,次々と手を打ちました.

東京証券取引所で記者会見を開き,リストラ方針打ち出し.資産売却による有利子負債大幅圧縮,食品スーパー事業への特化などを柱とする再建計画案を発表.金融機関に1999年までの元本返済猶予を要請.

しかし,そうこうしているうちに,第2回転換社債残額96億円の償還期限が迫りました.このとき,ヤオハンジャパンは,焦りが募り,ダイエーグループへ優良店舗 16店を売却してしまいました.

これらはヤオハンジャパンの全売上の40%を稼ぎ出していましたが,売却代金 331 億円を償還資金に当てて資金繰を楽にしようとしたのです.しかし,これらの店舗には銀行の抵当権が付いていたため,331 億円の大半は銀行借入の返済に回りました.

償還資金は社債管理会社の東海銀行からの借入で賄ったものの,店舗売却はヤオハンジャパンに何のメリットをもたらさなかったのです.それどころか,店舗減による売上急減・収益悪化,店仕舞いによる在庫処分損など,店舗売却により資金繰はいっそう悪化しました.

ヤオハンジャパンは,買掛金 45 億円程度の支払繰延要請を行っていることを公表.わずか数億円の手形決済で不渡の噂が流れ,「和議申請か?」と騒がれましたが,全面否定の緊急記者会見を開くと同時に,何とか決済に漕ぎ着けました.

このときは,共同仕入会社の日本流通産業(株)から資金を調達したと言われています.日本流通産業(株)は,ブラジル危機のときもヤオハンジャパンを救ったと言われています.言わば最後の頼みの綱にすがった形になりました.本来ならラストリゾートとなるはずの銀行支援は,一切ありませんでした.ヤオハンジャパンと取引銀行との間は,完全に冷え切っていたのです.

この頃になると,運転資金不足から仕入がスムーズに行えなかったり,仕入先が警戒して商品納入を取り止めたりで,商品陳列棚に欠品が目立つようになりました.従業員の間には,「ボーナスを貰ったら会社が倒産しても仕方がない」といった空気が漂い始めました

ヤオハンジャパンは,従業員への総額約7億円のボーナス支払を延期.ボーナス支払は再三延期され,ついに痺れを切らした労働組合は,1997年9月20日を最終期限として提示し,それまでに会社側から具体的な支払の説明が無い場合にはストライキを決行するとして,最後通牒を突き付けました.

結局,最終期限を待たず,ヤオハンジャパンは,静岡地方裁判所へ会社更正法適用を申し立て,事実上倒産しました.最後まで銀行の支援は無かったのでした.

良平氏・カツ氏の夫妻が,身一つから八百半を築き上げ,コツコツとその基盤を強化していきました.それを引き継いだ一夫氏は,事業規模の拡大に着手し,ヤオハンジャパンを一気に開花させました.ところが,一夫氏の拡大戦略は,常に,足元が不安定な状態で決行される傾向にありました.両親が一線を退き亡くなり,完全なワンマン経営者となった一夫氏は,転換社債・ワラント債の大量発行をテコに,身の丈に合わない拡大に暴走しました.結局,ヤオハンジャパンは,償還資金難を切っ掛けとして,資金繰に行き詰まり自滅したのでした.ヤオハンジャパン倒産の近因は,転換社債の大量償還による資金繰り行き詰まりでした.

和田一夫

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(わだ かずお1929年3月2日 –  2019年8月19日)静岡県熱海の八百屋「八百半」を、30年間で世界的な流通・小売業「国際流通グループ・ヤオハン」にまで発展させたものの、最終的には経営破綻させた。

神奈川県小田原市生まれ。日本大学経済学部卒業後の1951年、両親の営む八百屋・八百半商店に入社。1953年、妻きみ子と結婚。

1968年八百半デパートに改称し社長就任。1971年、日本の流通業の海外進出第1号としてブラジル進出。香港にグループ総本部を設立、1990年家族とともに同地に移住した。1996年、総本部の上海移転とともに上海に移住。1997年上海市栄誉市民賞を受賞するも経営危機に伴い日本に帰国した。

新宗教「生長の家」を信仰する。旧ヤオハンの社是も同宗教の教義に基づいており、世界中で新店舗が開店する際には、社員と共に行う生長の家の祈りが欠かされなかったという。1981年には「生長の家栄える会」会長に就任している。イズミの山西泰明代表取締役社長は実の兄弟に当たる(山西側が養子)。

ヤオハン・グループについて、同族経営の弊害が指摘されることがある。 香港・中国のビジネスを通して中国共産党との強いコネクションを持っていたと言われ、1996年には北京において李鵬首相(当時)と会談している。ヤオハン・グループの崩壊に関連しては、中国でのビジネスが経営破綻の原因だったという説と、問題は日本国内の事業であり中国を始めとする日本国外の事業は順調だったという説がある。

転換社債など直接金融を積極的に活用して拡大路線をひた走ったが、店舗の標準化といった運営の効率化はなおざりにされ、次第に収益が細っていく。

1996年に経営危機が表面化。弟の晃昌が粉飾決算に手を染め逮捕される事件も起きた。最後はイオングループの支援を受け、2002年にマックスバリュ東海へと看板を替える。海外店も売却され和田の「帝国」は解体された。

香港に居住していた際の住居は、香港市街が見渡せるPollock Path 山頂のSkyhigh地区にあった。広さ2万平方フィートの豪邸は、1991年に85億香港ドルで購入され、1996年に375億香港ドルで売却された。

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