東京大空襲 カーチス・ルメイとアーノルド大将

人物

この人の名前を最初に聞いたのが、中学の社会科の授業です。

義務教育ででてくる名前ではないのですが、川崎の公立学校には、共産党系、日教組の先生が多かったため、脱線して歴史トリビアという形で、戦時中のことを話す機会が多かった気がします。この先生も共産党の活動に熱心な先生でした。

今では問題なるかも知れませんが、1980年代後半くらいまでは、問題もありませんでした。選挙になると、先生が共産党候補者と赤旗を持って、挨拶に自宅訪問してましたし、授業内容も中道寄りを意識していましたが、やはり左寄りの姿勢は崩せない。

東京大空襲や原爆投下の指揮官に「勲章」を授与したことに、かなりヒートアップして話していたことを記憶としてあります。佐藤栄作・政権の話の脱線で、政権誕生して、最初にこの人が行ったことは「ルメイに勲章」という感じでした。

カーチス・ルメイの勲章授与は、批判があったことは事実です。

1964年12月7日に日本に返還されたばかりの入間基地で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力があったためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。叙勲は浦がルメイを航空自衛隊創立10周年式典に招待したことを発端とした防衛庁の調査・審査に基づく国際慣例による佐藤内閣の決定であることが明かされている。

推薦は小泉純也防衛庁長官と椎名悦三郎外務大臣の連名で行われ、防衛庁から佐藤栄作首相・賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。勲一等旭日章という種類の選定は大将という階級から慣例に基づいたものである。

東京大空襲を指揮したのは、38歳だったカーチス・ルメイです。

1945年3月10日の深夜、米軍のB-29による爆撃で、一夜にして11万5000人の命が失われた。実際はもっと多いと思われ、わからない。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となっている。

この計画は、ルメイの上官にあたるヘンリー・アーノルド大将が独断で行ったと言われる。科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない。

人道面を機にする勢力から、見つかないように水面下で準備していた「焼夷弾による空爆」計画が実行されることになる。352機のB-29が投入され、1600㌧の焼夷弾が落とされる。機関銃などの防衛装備は取り除かれ、より多くの焼夷弾を積載した。すでに制空権は米国が握っており、日本の反撃能力はなかった。

ルメイは非人道的人物として歴史的に名を連ねているが、実際、上官であるアーノルドからのプレッシャーがあったと言われる。

「アーノルドには、話をせずに実行するつもりだった。もしアーノルドの許可をもらったのに失敗したら、アーノルドの責任になるだろう。黙って実行すれば失敗しても『愚かな部下が勝手に暴挙に出たから彼を首にした』と言って、他の誰かに私の任務を引き継がせ、B-29の作戦は続けられる。アーノルドに迷惑をかけることだけは避けたかった。それは誰のものでもなく、私の決断であり、私の責任である。この作戦にかかっていたのは、アーノルドの首ではなく、私の首だったのだ。だから、自分で実行することに決めた」(肉声テープ)

焼夷弾(ナパーム)を使用した空爆は東京が初めてでない。1945年2月、米軍は焼夷弾などを使用した無差別爆撃であるドレスデン爆撃を実施した。2万5000人とも15万人とも言われる一般市民を虐殺した。

ヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド最終階級は陸軍元帥および空軍元帥。

この爆撃の非人道性が問題になった際、アーノルドは「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と語っている。 3月、東京空襲のためにサイパン島でB29に焼夷弾を積む式典でアーノルドは

「私からのメッセージとして聞いてくれ。東京を空襲する意義をみんなに伝えたい。第20爆撃集団は中国からすでに東京へ出撃したが、日本との距離が遠すぎてたとえB29とはいえごく一部しか到達できずに苦労している。今君たちは日本に最も近い基地にいる。もっとたくさんの爆弾を運び北海道から九州まで日本の軍事産業拠点をすべて攻撃できる。君たちが日本を攻撃する時に日本人に伝えてほしいメッセージがある。そのメッセージを爆弾の腹に書いてほしい。日本の兵士たちめ。私たちはパールハーバーを忘れはしない。B29はそれを何度もお前たちに思い知らせるだろう。何度も何度も覚悟しろ」

と演説している。アーノルドは1945年6月16日の日記に

「アメリカでは日本人の蛮行が全く知られていない」「ジャップを生かしておく気など全くない。男だろうが女だろうがたとえ子供であろうともだ。ガスを使ってでも火を使ってでも日本人という民族が完全に駆除されるのであれば何を使ってもいいのだ」

と書いている。6月17日の日記には

「マッカーサーはさらなる日本攻撃にB29を使う我々の計画への理解が足りていなかった。ジャップの30か所の都市部と産業地域を破壊したうえで侵攻地域となる場所には一か月ごとに20万トンの爆弾を投下し侵攻する日には8万トンを投下することをちゃんと説明したらマッカーサーも気に入ったようだ」とある。

7月23日には「スターリンとチャーチルに『現在のペースでB29が飛び続ければ東京には何も残っていないことでしょう。そこで会議することになりますね』と言った」とある。

アーノルドの立場は微妙だった。格下扱いを払拭するため、仕事で飛び回り、働きすぎとストレスに起因される心臓発作を2回起こしている。陸軍から空軍の独立組織という野心が強くあった。

アーノルドはウィリアム・リーヒ海軍大将(のち元帥)が議長を務める統合参謀本部のメンバーに加わっていた。組織的には陸軍の一部に過ぎなった航空軍司令官。陸軍参謀総長のマーシャル将軍、海軍作戦部長アーネスト・キング提督とは格下に見られ、同等な扱いを受けてはいかった。

実績を上げるしかなかったルメイとアーノルド。失敗すれば東京大空襲は組織の存続にかかわる。巨額の開発費をかけたB-29が、戦争で決定的な仕事をしたと証明しなければならなかった。国民は、戦争を早く終わらせてほしいと願い、降伏しない日本に対する強力な攻撃を求めていた。

過去に例がない325機を超える大規模な攻撃。14機が損失。日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認とされている。

B-29は8000㍍の高度で侵入可能だが、東京空襲には低空飛行の戦術を必要だった。低空で侵入する作戦は、撃墜されるリスクが高くなる。

8000㍍だと高射砲が届かず、防衛能力は無力だが、初期の北九州の防空戦では、かなり数を迎撃している。B-29撃墜王・樫出勇・大尉も活躍した。二式複座戦闘機(愛称・屠龍)を駆り、1944年6月16日のB-29による初来襲(八幡空襲)の空戦から終戦までに樫出は北九州に来襲したB-29を26機撃墜したとされる。

樫出勇(1915年2月 – 2004年6月)B29撃墜王

米軍の記録によれば、延べ出撃数33000機。事故を含め喪失したものが485機。損失率は1.5%だった。損傷機は2707機といわれそのうち2/3が対空砲火、1/3が航空機によるもの。

ルメイは士気を高めるために出撃を計画もあったが、取りやめている。この時点でルメイは原爆投下計画を知っている。東京大空襲が失敗した場合、原爆は東京に落とされた可能性もあったし、毒ガスの計画もあった。

投下した焼夷弾は32万7000発。爆撃の中心地として狙われた台東区、墨田区、江東区は火の海の飲み込まれる。焼夷弾は、酸素を飲み込んで光熱の上昇気流発生させる。酸欠で窒息して倒れてしまう。

米国民は早期、終結を求めていた。すでに長期間にわたっており、そのうえ日本での地上戦となれば、被害は計り知れない。民間人を標的にした無差別爆撃、原爆投下を許容する言い訳になっている。そこの野心のあるアーノルドみたいな男が、存在し自己都合の振る舞いに、つきあわされることになってしまった。

ルメイは、東京の被害をみて、「もうこれ以上の殺戮行為も次のミッションもしたくなかった」と言っているが、その後も焼夷弾による無差別爆撃を継続する。名古屋、大阪、神戸と1万人以上の民間人の犠牲を出している。

 

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