ロザリー・デュテ「馬鹿な金髪女」最初の女性

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「金髪女はIQが低い」などといったステレオタイプを信じる人も大勢いて、そういった偏見がネットの世界でも大量に流れています。偏見が根強く残っている。

2001年制作のアメリカ映画『キューティ・ブロンド』は、ブロンド娘が活躍する痛快サクセスムービー。ブロンド・ジョークが満載の作品です。低予算ながらも全米初登場1位となる。低予算で利益が望めるコメディ作品には多く見られます。

ブロンド男性にはあまりあまりありません。主に金髪の女性に対するステレオタイプです。セックスシンボルとして時代ごとに存在します。調べると最初は、18世紀の仏、キャサリン・ロザリー・ジェラルド・デュテという女性です。

容姿はフランスロココの典型的な美人。ロザリーの名声は〝古代ギリシャのライスやフリュネ、インペリアやマロツィアにも匹敵する〟と言われた当時最も有名なクルティザンヌの1人でした。話し方がためらいがちで「愚かなブロンド」呼ばれた人気者でした。美人でつたない話し方をする人は、今でもテレビなどで活躍していますから、そんな感じかな。

1748年11月23日にヴェルサイユで王宮の召使であるジャン=フランソワ・ジェラールとその妻ルイーズ=ロザリー・コーモンの間に生まれました。パリのサントア修道院を出た15歳のロザリーは叔母のマダム・デュバルの元に預けられることになります。

叔母は姪にヴェリエールのマリーとジュヌヴィエーヴリントーという2人の有名な娼婦を紹介します。美しいロザリーがクルティザンヌとして教育します。クルティザンヌとは、フランス語で高級娼婦を意味する表現。 ロマン主義の文学作品などでよく出てきます。

売春婦ですが、宮廷を専門にする女性というところでしょうか。ピンクが好きで、いつもピンク色のドレスに身を纏っていました。「彼女はパリで最も美しい女性の1人」背が高く、スタイルがよく、顔色が素晴らしく、とても愛嬌があり素晴らしい髪をしている〟

ロザリーの最初のパトロンはディロン伯爵の息子で44歳のナルボンヌ大司教のアーサー・リチャード・ディロンでロザリーは17歳でした。この関係は短期間で終わります。

1766年、19歳の公爵を虜にして、仏王族に名を轟かせます。その後、パリオペラ座のダンサーとなり、デュフォール公爵、ゲンリス侯爵、シャルル10世を魅了しました。美しさと評判は国王ルイ15世にも。

オルレアン公爵ルイフィリップは、15歳の息子、のちのフィリップ1世にロザリーを紹介したと言われています。ロザリーは名声と財産を手入れたことによりフランス最高の画家たちから肖像画をかかれることになります。

シャルル10世となるアルトア伯爵は、26歳のロザリーと関係を持ちます。アルトア伯爵は妻、マリー・テレーズが最初の子を妊娠していたのですが、ロザリーに宝石やお金をプレゼントし、1775年から半年間、関係を持ちます。

この時、王妃マリー・アントワネットに召喚されましたが、怒りを買い、シャンゼリゼ通りから追い出されました。王妃マリー・アントワネットより高価な花で飾らせた馬車に乗って来たからと言われます。8頭の白馬に金色の馬車を引かせ宮廷に出入りしていました。

ロザリーは仏国だけに留まらず、英国にまで轟きます、第3代エグレモント伯爵で裕福な英国の金融家のジョージ・ウィンダムの愛人になりました。

そして、英国滞在中にフランス革命が起こります。英国に留まざるえなくなりますが、亡命者として扱われ、革命後の政府から、モンブラン通りとショセ・ダンタン通りに持っていた邸宅などの財産は、は没収されます。1792年友人で銀行家のジャン・フレデリック・ペルゴーの助けを借りて財産を取り戻すためパリに帰国します。

財産は取り戻すことができず、英国に戻ります。1816年までロンドン生活をしますが、再びパリに戻りました。

晩年は、目の病気で盲目になりますが、ファンたちはロザリーの元を訪れ、平和に生活が続いたと言われます。1830年9月24日、82歳でなくなります。

ロザリーは、たくさん肖像画のモデルになっています。今でいうファッションアイコンのような存在です。有名な作品としてフラゴナール「ブランコ」などがあります。

『ぶらんこ』1768頃 ウォレス・コレクション(ロンドン)蔵、フラゴナールが画家としての絶頂期に描かれた。

もともと修道女から、その美貌で仏の名だたる王侯貴族・ブルジョワを虜にして、はては英国の大金持ちを虜にした人生です。パリのオペラ・バレエダンサーとしてデビュー。

蠱惑(こわく)的な雰囲気を醸し出すため、話す前にしばらく言葉を出さず沈黙するという演出的な習慣がありました。この時代の女性は、しとやかさ、優雅さが求められます。彼女も他と違う自分なりの演出をしたわけですが、パリの社交界では「美しいが頭は悪い」という陰口が広まり定着します。

文化史家のジョアンナ・ピットマンの著書「On Blondes」で最初のDumb Blonde(ダァム ブロンド)として存在した女性と認定しています。この時代、庶民と貴族世界は隔離されていますので、狭い社交界の中での話に過ぎません。大衆に広まるのは20世紀の映画の影響が絶大です。

ジョアンナ・ピットマンの著書「On Blondes」

 

 

 

 

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