1980年代から、がんの標準治療を否定し「がん放置療法」の提唱者としても知られていました。外科療法、放射線療法、化学療法(抗がん剤)があり、がんの3大治療法と呼ばれています。
確かに米国では、抗がん剤や手術による治療から、遺伝子治療や免疫などの新しい治療にシフトしています。がんによる死亡者数は減少傾向にあり、日本は逆に増加している状況です。
生存率、再発率が高いがんによっては、手術をせずに緩和治療で終わらせる選択も多い。手術で体力を失い、回復できずに再発して亡くなるということはよくあることです。私の母も胆管がんで手術しましたが、10時間以上に及ぶ手術で、大変なものでした。痩せ細り回復することはなかったです。
術後、2年半で再発、3年で他界しましたが、手術したことが正解だったのか?結果が同じなら苦しめてしまったのではないか?家族なら誰もが思うことだと思います。肝臓にかかっていない下部の胆管がん・ステージ2Aでしたから、何となるんじゃないか?という、かすかな望みで挑みました。やらない選択はなかったと思いますが、脳裏には後悔、懺悔として刻まれます。
近藤誠には、がん治療に不満を持つ人たちから指示を受けている。それをターゲットにしている著作をたくさん発行しています。どうすることもできない不安に、つけ込むやり口は新興宗教にある形です。己の存在価値も教祖のように崇められますし、たんまり金儲けもできます。
主張は「がんの手術は寿命を縮めるだけ」「抗がん剤は効かない」「検診は無意味」「がんは本物とがんもどきに分かれる」「がんの臨床試験には不正がある」というもの。がんの標準治療の完全な否定でした。代わりに有効的な治療法を模索するのではなく「放置」理論を説きました。
新しい治療法にも否定的で、2006年に小野薬品工業と本庶佑さんが製品化した免疫系抗がん剤「オブジーボ」にも「世界中で治った患者は一人もいない。オプジーボの効果は製薬会社により捏造されたものだ」などと発言しています。
がん治療に対して否定している。そのうえで、違う治療を提示するのでなく、治療してもしなくても結果は一緒というスタンス。がんを放置しても治るとは書いておらず、治療してもしなくても結果は変わらない。
近藤誠の提唱した無茶苦茶な理論が「がんとがんもどき理論」。早期がんは進行がんにならないという理論。従って、放置した方が良いという説のようです。無茶苦茶な話ですが、救いを求め、信じる人を対象にしているためなんの問題もありません。何を信じるかは自由です。それに逃げ方も心得ているようで、自己責任「決めるのはあなたです。あなたが決めてください」という書き方をしている。
著書はベストセラーになっているため、早期発見が可能であっても、進行してしまうケースが後を絶ちませんでした。
2012年に「抗がん剤の毒性、拡大手術の危険性など、がん治療おける先駆的な意見を、一般人にもわかりやすく発表し、啓蒙を続けてきた功績」として菊池寛賞を受賞している。一部の患者や文化人からは支持され、東京大学元教授でフェミニストの活動で知られる上野千鶴子氏は、近藤医師死去の報を受け、「ガンになったら絶対にセカンドオピニオン外来に行こうと思っていたのに、行くところがなくなった」とTwitterにあげています。
慶應義塾の一貫教育校(中・高)、大学医学部を経て慶應病院放射線科に就職し、米国医師免許も取得している。留学を経て卒業後10年で講師に昇進、名門医大としてはスピード出世であり「いずれは教授」の呼び声も高かった。
医師人生後半は独自理論が医療界で受け入れられず、慶應義塾大学医学部専任講師のまま実質的に医師人生を終え、医師以外の活動を活発させるべく近藤誠がん研究所と称した組織を自己設立し所長に。
エリートコースを歩んでいたのにもかかわらず、過激な原理主義的な活動になったのは、留学と差別的な扱いでは?推測されています。
1980年代、米国留学後「乳がんの乳房温存療法」の普及に熱心に取り組む。当時の乳がん治療は、外科手術によって乳房全体を切除する方法が主流でした。
治療法に異議を唱えるわけですから、摩擦が生まれるのは必然です。病院は封建的組織。病院カーストがあるとすれば、外科医、内科医は1軍、放射線科は3軍です。少し留学して、知見を高めたとしても、相手にされないでしょうし、ヒエラルキーの下のもの反論は、反感を招いたと思われます。
ようは、自分だってエリートなのに認められない、わかってもらえない、理解してもらえない、共感を呼ぶことができない。過激な原理主義に走る典型です。この原動力は厄介で、他者の考えを否定し続けます。個人的には、高学歴で人生経験も豊かな高齢者が右翼化するのに似ていると思っています。
1990年には『乳ガン治療・あなたの選択』(三省堂)、標準医療に沿った一般人向け著書を出版している。この後、マスコミに持て囃され、世間から知名度を得るきっかけとなったのが、逸見政孝氏のがん治療論争。1993年、アナウンサーの逸見正孝氏の胃がん手術をめぐリ論争が起こります。
逸見政孝さんは、1993年2月4日に胃がんの手術を受けている。逸見さんの弟も32歳の若さで、胃がんで亡くなっているため積極的に検診を受けていた。早期発見と思われたが、実際には腹膜まで転移し進行しており、完全には取り除くことができず、家族には再発があることを宣告していた。1回目の手術をしたのは、定期検診を受けていた前田外科病院(現:赤坂見附前田病院)。
1993年8月12日に「突起物を除去する」という名目で2度目の手術を受けたが、癌はすでに腹腔全体に広がるまでに進行しており、もはや手のつけようがない状態だった。然しながら執刀医は、逸見本人には癌の再発を一切告知しなかった。
逸見さんは前田病院に信頼をおいていたが、家族の強い要望で東京女子医大で再手術が行われる。本人には手のつけられない状態を知らなかったため、民間療法中止や言動に不信感を抱く。
東京女子医大で、9月16日に13時間にも及ぶ大手術を受けた。消化器外科の「ゴッドハンド」と呼ばれた教授が執刀し、数キロに及ぶ臓器を摘出する。
手術から3ヶ月後の12月25日に亡くなります。
この手術を「意味のない手術」と激しく批判し、積極的にマスコミの取材を受けた。シンプルで歯切れの良いメッセージは多くのファンを獲得し、医学的な根拠を問題視する人は少なかった。慶応大学医大に籍があり、その肩書も作用する。
1996年に最初に『患者よ、がんと闘うな』を出版しベストセラーとなる。文藝春秋から出版された『がん放置療法のすすめ 患者150の証言』や『医師に殺されない47の心得』もベストセラーとなった。
2014年まで大学に。窓際医師として、講師のまま定年を迎えます。多くの著書はベストセラーになっていましたが、慶応という肩書が大事だったのか?なのかわかり兼ねますが、意地?でしょうか。
その後は都内で「近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来」を開業し、相談料「30分3万2000円(税込)」の自由診療を行っていた。
しかし、オピニオン外来を受診した有名人からは、近藤理論への否定も相次いぐ、2015年に胆管がんで近藤外来を受診し、その後に死去した女優の川島なお美氏も著作で「がんと診断された皆さん、決して『放置』などしないでください。まだやるべきことは残っています」と明確に否定している。
2022年8月13日、出勤途中で体調不良を訴え、虚血性心疾患のため搬送先の東京都渋谷区の病院で死去。73歳没。
詐欺師とは言いませんが、極端な思考の人だったのでしょう。
どうしても医師は難しい医療には曖昧な表現をします。責任回避もありますが、どうなるかわかないことに対して断言できないため、やもえません。不安を抱えている状態では、歯切れよく断定的な強い口調で、物事を単純化されてしまうと信じてしまう人もでてくるのは、不幸でありますが、仕方がありません。
母は胆管がんで亡くなりましたが、私は末梢性T細胞リンパ腫を患い、抗がん剤の効果を実感しています。「血液のがん」と違いはありますが、医療が進化すれば、もっといいものがでてくると信じています。
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