エリザベス・フォーブス(1859年12月29日 – 1912年3月16日)はカナダ生まれの画家である。主にイギリスで活動した。夫となったスタンホープ・フォーブスとともにイングランドのコーンウォールの漁村、ニューリンで活動した「ニューリン派」の代表的画家である。
カナダ、オンタリオ州のキングストンに役人の娘に生まれた。両親から絵の才能に期待されて、カナダで教育を受けた後、母親とロンドンに移り、サウス・ケンジントン学校 (後のロイヤル・カレッジ・オブ・アート)で学んだ。
カナダに戻った後、1877年からニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークでウィリアム・メリット・チェイスに学び、チェースの勧めで、1880年代の初めにドイツに留学した。
1882年には多くの画家の集まった、ブルターニュのポン=タヴァンで過ごし、その地で描いた絵画はロンドンで評価を受けた。
ロンドンやオランダのハールレムで働いた後、1885年の秋に母親とニューリンに移った。1889年に「ニューリン派」の画家、スタンホープ・フォーブスと結婚した。1893年には息子が生まれた。
1891年にパリの万国博覧会の展覧会に入選し、1893年のシカゴ万国博覧会では金賞を受賞した。1893年から1899年の間にロンドンで開かれた60回以上の展覧会に出展。
1899年に夫とともにニューリンに美術学校を作り、若い芸術家を育てた。1909年頃からガンを発症し、闘病に入るが、1912年に没した。
ニューリン派(Newlyn School)は1880年代から20世紀の始めの時期に、イングランドのコーンウォールのペンザンスに近い、漁村ニューリンに集まった画家たちを指す言葉である。
19世紀半ばに起きたフランスのバルビゾン村に集まり自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いたバルビゾン派の影響を受けて成立した。
1882年にウォルター・ラングレー(1852-1922)がニューリンに移ったのが始まりで、友人のエドウィン・ハリスが続き、1883年にはラルフ・トッド、フレデリク・ホール、フランク・ブラムリー、トーマス・クーパー・ゴッチが加わり、1884年にスタンホープ・フォーブスがニューリンに住み始めた。
すぐにフォーブスがリーダー格となったためフォーブスが後にニューリン派の創立者と見なされた。
1884年にはアルバート・シュヴァリエ・テイラー、ヘンリー・スコット・テューク、ミラードらも加わり、1884年9月の地元の新聞は27人の画家がニューリンに住んでいると報じた。
1885年にはクラフトやエリザベス・アームストロング、1886年にはノーマン・ガースティンといった影響力を示した画家が加わった。
1887年にゴッチたちがニューリン・アート・ギャラリを設立し、画家たちの作品を展示するようになり、このギャラリーには、その後も多くの絵を所有するようになった。ゴッチは工芸教室を設立し、地元の若者にいろいろな工芸技術を教えた。
ニューリンには美しい景色や、安い生活費や、モデルを雇うのが容易であるなどの利点があった。画家たちは漁師の日常生活などを題材に描いた。
1880年代から1900年までの間、有名な場所となり、約120人の画家が、コーンウォールを訪れた。何人かの画家がニューリンを去った後、フォーブス夫妻は1899年に美術学校を設立し、新たに若い芸術家たちをニューリンに迎えた。
この学校で学んだ学生にはアーネスト・プロクターやドッド・プロクターらがいる。新しい世代の画家にはバーチ夫妻も居た。バーチ夫妻は近くのラモーナに住み、ガーディナー、ナイト夫妻たちとラモーナ・グループを作った。
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