エドワード・ホッパー 20世紀の具象絵画の巨匠

芸術

ホッパーは1882年ニューヨーク州の小さな町ナイアックで洋品店の長男として生まれました。幼い頃より絵の得意だった少年は、1900年18歳から7年間ニューヨーク美術学校に学び、写実派の画家ロバート・ヘンリーの影響を受けました。

卒業後、広告用イラストを描きながら生計を立てる傍ら、1906年から10年にかけ、3度ヨーロッパを訪れます。当時のパリは絵画史上特筆すべき時期で、パリでモネやセザンヌら印象派に強い感銘を受けますが、帰国後、手厳しい洗礼を受けることになります。

ヨーロッパ絵画の影響を色濃く受けたホッパーの作品は酷評されてしまうのです。1920年代に入ると、アメリカは第一次世界大戦の特需に沸き、空前の経済発展を遂げます。アメリカの画家たちも、その栄光と繁栄を祝福するかのように、こぞって天へと伸びる摩天楼を描きます。

しかし、ホッパーだけは違いました。彼が見つめたのは町の片隅や路地裏、寄る辺なき人々でした。変わりゆく町に取り残されていく風景を描き続けたのです。ホッパーが考える創作の本領はリアリズムにあり、抽象的な絵画には反発さえ感じたのでした。ホッパーの創作活動の始まりは、こうした時代趨勢との乖離でした。

ホッパーはなかなか成功に恵まれず、1920年に開いた初の個展では絵が一枚も売れないという有様でしたが、40歳のときに水彩画製作に転じ、1924年に水彩画の個展を開いたところ、すべて売り切れという大成功を収めます。それ以来ホッパーは約10年間、水彩画家として活躍します。ホッパーの水彩画作品の大部分は40歳代の10年間に描かれおり、その殆んどは風景画です。

彼の好んで描いた対象は、ニューイングランドの古い建築物、灯台と海、そしてアリゾナやニューメキシコの寒村の風景でした。1923年の作品「マンサード・ルーフ」は彼の水彩画の中でも最も有名なもののひとつです。使用する絵の具の種類を少数に抑え、明暗対比を強調して、古い建物の雰囲気が生かされるようコントロールしています。この作品はウィンズロー・ホーマー以来のアメリカ水彩画の伝統を踏まえた作風と評されています。

1925年に描かれた「線路わきの家」。描かれたのは線路脇にひっそりと佇む、人の気配すらない古い洋館。光と調和している柔らかい筆致は、力強い、緊張感をはらんだタッチへと変貌を遂げています。ホッパーが独自の眼差しで描きあげたアメリカの情景。

一見すると何気ない風景のように見えるのですが、実はこの作品、あのサスペンス映画の巨匠ヒッチコックの傑作『サイコ』に強烈なインスピレーションを与えたと言われています。また1927年作品「コーストガード・ステーション」で表現したのは、広い自然の中にぽつんとたたずむ建物のイメージで彼の最も好んだモチーフです。彼の絵の殆んどには人間が描かれていませんが、建物をクローズアップすることで、その中に住んでいる人間の息遣いを伝えようとしています。

1942年制作『ナイトホークス』はホッパーの代表作の一つであり、この作品には彼の作風が顕著に表現されています。この絵はアメリカ(おそらくニューヨーク)の、深夜の飲食店の様子を店の外から描いています。深夜の倦怠感と静寂がありありと伝わってくるのですが、その熱の込められていないタッチは、まるで40年代のアメリカ社会を写した記録写真のようです。この作品表現に込められたようにホッパーは生涯にわたって、絵の中に明と暗、不安と安心を描き出す事にこだわり続けて行きました。


『自画像』。エドワード・ホッパーは20世紀アメリカを代表する画家。「印象派」に憧れ、ニューヨークの美術学校を卒業したホッパーは、パリに留学するが挫折。失意のうちにニューヨークに戻り、一時期画家をやめて広告のイラストレーターをしていた。

1925年に描かれたホッパーの初期作品『線路わきの家』。「19世紀に流行した古いタイプの家」と「20世紀の文明を象徴する鉄道」を並べて描き、「時代の境目」を表現している。苦節25年、『線路わきの家』は43歳のホッパーの出世作となった。

『ドラッグ・ストア』。ニューヨークで働くうちに、この大都市には「印象派とは違う光と影が存在する」ことをホッパーは知る。いつしか彼は夜の散歩を始め、都会で見たもの、あるいは高架鉄道の窓から偶然目撃したものを絵にするようになる。

『ニューヨークの部屋』。苛立たしげにピアノに向かう女性。それを無視して新聞を読むのは女性の夫らしい。この二人の間にはどんな「ドラマ」があるのか? 高架鉄道に乗っているホッパーも知らない。

『夜のオフィス』。残業する男女は同僚か? 上司と部下か? それとも恋人なのか? 男の視線は手に持った書類に、女の視線は床に落ちた書類に向けられる。

『ホテルの部屋』。所在なさそうに腰かける女性、投げ出された靴、旅行カバン。どんな「人生」が描かれているかは、絵を鑑賞する人間が想像するしかない。

『ニューヨーク・ムービー』。映画をこよなく愛したホッパーの絵は、後に多くの映画制作者に影響を与えることになった。

『オートマット』。「自動販売機による軽食の販売・摂食施設」を描いた作品で、モデルはホッパーの妻ジョーが務めた。

批評家たちは「女の眼は下に向けられ、思いは内面に向かう」、「コーヒー・カップを、それが彼女がたよりにし得る、世界で最後の物であるかのように見つめている」と指摘している。余談だが、この絵は「ストレスと鬱病に関する記事」を載せた雑誌の表紙になった。

ホッパーの代表作『ナイトホークス』。当時のニューヨークでは「温かさを感じさせる電燈」に代わり、「非人間的な蛍光灯の白い光」が普及し始めていた。『ナイトホークス』でも、深夜のレストランから漏れる蛍光灯の光が、外の闇と交錯して三角形を作り出している。「印象派」が求めた光の軌跡を、ホッパーは大都市ニューヨークを舞台に表現した。

『ナイトホークス』の拡大図。人物の配置が絶妙で、「男女がレストランの店員と会話する場所から、一人離れて座る男の姿」に孤独感が漂う。ホッパー自身、寡黙な人物であり、他人に干渉されないライフスタイルを頑なに守ったという。

『ホテルのロビー』。この作品でも蛍光灯の光の下、マネキンのような人間たちが描かれている。しかし「印象派」に憧れたホッパーは、「陽光だけの世界」にも目を向けていた。

『日曜日の早朝』。これは、静寂な一日の開幕か? あるいは、世界の終幕なのか? ホッパーの絵は、空虚なようで無駄なものが存在しない。それは不穏な空気や緊張感を生み出し、同時に全てを満たす予感を感じさせる。

『波のうねり』『海』で表現された「海の青」と「帆の白」との調和。ハドソン川を見ながら成長した少年ホッパーの夢は「自分で船を作ること」だった。

『海辺の部屋』。誰もいない部屋でも、扉を開ければ広大な海が広がる。孤独を愛したホッパーらしい一枚ではないだろうか?

『二人のコメディアン』ジョセフィンとの生活は1967年彼女が亡くなるまで続きますが、亡くなる2年前、ホッパーは最後の作品「二人のコメディアン」を描いています。ホッパーは、この絵を最後に絶筆しており、この絵に登場している道化師は、エドワード・ホッパー自身だといわれています。作品は仕事を終えた道化師のペアが舞台の上から挨拶しています。ホッパーが描く絵のほとんどは、人物がそっぽを向いているのですが、この絵は堂々と正面を見て挨拶しています。そして男の右手は恥ずかしそうに微笑む女性を一歩前へと誘い、左手は観客に呼びかけているかのようです。そして手を添えられた横の女性は妻のジョセフィンと思われます。最後のこの作品において、夫婦で挨拶をしているように見えます。

 

水彩画家として高い評価を受けています。アメリカは世界中で最も水彩画の盛んな国ですが、その伝統の中でホッパーの果たした役割は非常に大きかったといえます。今日では都会の中の孤独を描いた多くの油絵で知られていますが、生前はむしろ水彩画家として有名でした。

40歳のときに水彩画製作に転じ、1924年に水彩画の個展を開いたところ、すべて売り切れという大成功を収めました。それ以来ホッパーは約10年間、水彩画家として活躍します。

ホッパーは42歳のとき、二つ年下の女性ジョー・ノヴィソンと結婚します。ホッパーの絵に出てくる殆んど全ての女性像のモデルとなった人です。ホッパーは時に激しくぶつかり合ったこの女性を深く愛し、二人で車に乗ってはアメリカ中をスケッチ旅行したものでした。ホッパーの水彩画作品の大部分は40歳代の10年間に描かれました。その殆んどは風景画です。彼の好んで描いた対象は、ニューイングランドの古い建築物、灯台と海、そしてアリゾナやニューメキシコの寒村の風景でした。

これは1923年の作品「マンサード・ルーフ」彼の水彩画の中でも最も有名なもののひとつです。絵の具の種類を少数に抑え、明暗対比を強調して、古い建物の雰囲気が生かされるようコントロールしています。ウィンズロー・ホーマー以来のアメリカ水彩画の伝統を踏まえた作風といえます。


1927年の作品「コーストガード・ステーション」広い自然の中にぽつんとたたずむ建物のイメージは彼の最も好んだモチーフです。彼の絵の殆んどには人間が描かれていませんが、建物をクローズアップすることで、その中に住んでいる人間の息遣いを伝えようとしたのかもしれません。

1927年の作品「ポートランド・ヘッド」灯台や海上のヨットも彼の好んだモチーフで、油彩画作品にも多く取り上げています。

1928年の作品「プロスペクト・ストリート」ニューイングランドの小都市グロスターの町を描いた作品です。

ホッパーは水彩画家として成功し、経済的に楽になったのを契機に、イラストレーターの仕事から解放され、創作に没頭できるようになりましたが、50歳を超えてからは油絵を描くようになります。しかし、彼のリアリスティックな作風は時代遅れのように扱われ、生前は油彩画家として評価されることはありませんでした。

リアリズムの手法の中にも、人間の孤独や精神性を感じさせる彼の絵が、積極的に受け入れられるのは死後のことでした。上の作品は晩年の一時期息抜きのつもりで描いた作品と思われます。

旅行とクルーズ船の事業で大成功を収めた米実業家バーニー・エブスワース(Barney Ebsworth)氏の集めた見事な20世紀絵画コレクションが14日夜、米ニューヨークで競売に掛けられ、総額3億2300万ドル(約370億円)で落札された。米競売大手クリスティーズ(Christie’s)が発表した。

オークションの目玉は、米現代画家の巨匠エドワード・ホッパー(Edward Hopper)の油彩画「Chop Suey(チャプスイ)」(1929年)で、9200万ドル(約104億円)の高値が付いた。これは、ホッパー作品としては2013年に競売に出品された「East Wind Over Weehawken(ウィーホーケンに吹く東風)」の落札額4040万ドル(約46億円)を2倍以上も上回る。エブスワース氏は1973年に「チャプスイ」を18万ドル(約2040万円)で購入していた。

このほか、オランダ出身の抽象画家ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)の「Woman as Landscape(風景としての女)」(1955年)には6890万ドル(約78億円)の値が付き、クーニング作品の競売落札価格を更新した。
競売に掛けられたのはエブスワース氏のコレクション全て。ニューヨークで年に2回開催される大規模な美術品オークションの一環で行われ、今回は他にも24件のオークションで落札記録が塗り替えられたが、エブスワース氏のコレクションの落札額を上回るものはなかった。エブスワース氏は今年4月、83歳で死去した。富裕層向けの旅行事業で資産を築く前は陸軍に所属し、フランス駐在中には何度もルーブル美術館(Louvre Museum)に足を運んでは美術に対する愛好心を育んだという。(c)AFP2018年11月15日

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