グラント・ウッド 田園風景や人々を描いた画家

芸術

1891年2月13日 – 1942年2月12日 アメリカ合衆国アイオワ州出身の画家。近代の造形意識による精緻な写実様式に特徴がある。

アイオワ州ジョーンズ郡のアナモサのクエーカーの農場主の家に生まれた。1901年に父親を亡くし、家族はシーダーラピッズに移った。地元の金属会社で働くが、絵に才能と興味を示し、ミネアポリスの工芸学校に学び、1913年からシカゴ美術館附属美術大学の夜間コースで学ぶが卒業できなかった。

第一次世界大戦中は陸軍で、軍用車両の迷彩のデザインの仕事をした。退役後はシーダーラピッズに戻り、中学校の美術教師となった。

1920年の夏、友人の画家コーンとパリを旅し、1923年から1924年の間、パリの美術学校、アカデミー・ジュリアンで学び、イタリアのソレントを旅した。パリで1926年の夏、展覧会を開くが成功しなかった。ヨーロッパでは、印象派などの、さまざまな絵画スタイルに親しんだが、ヤン・ファン・エイクなどの、伝統的なオランダ絵画に強い印象をもった。

1927年に、シーダーラピッズの退役軍人記念館の大きなステンドグラスを依頼され、この仕事のために1928年にミュンヘンを訪れたのが最後のヨーロッパ旅行となった。美術館のアルテ・ピナコテークをしばしば訪れ、ゴシック様式やルネッサンス初期の絵画を学んだ。

1933年に芸術家村「Stone City Art Colony」を設立し、大不況下の芸術家のために貢献し、1934年からはアイオワ大学の美術学校で講師を務めた。

1930年にアメリカの画家グラント・ウッドが描いた油絵。シカゴ美術館に展示されている。平野の建てられた古風な家の前に三叉のピッチフォークを手にして立っている初老の男女の肖像が描かれている。

アメリカ国内では有名な絵画であり、『ロッキー・ホラー・ショー』や『ナイトミュージアム2』等の映画作品などでパロディが挙げられている。

モデルとなった女性は画家の妹ナンで、男性は画家の掛かりつけの歯科医バイロン・マッキービィである。

グラントウッドの「アメリカンゴシック」に影響を与えたカップルが、絵画の隣でポーズ。

アメリカの田園風景や人々を描いた画家

アメリカの美術史において1930年代に「リージョナリズム」という言葉が出てきました。リージョナルとは「地方」、つまり都市から遠く離れた農村部などのことを指します。

1929年に世界恐慌が起こったことで、世界から孤立を次第に強めていたアメリカは国粋主義や排外主義を打ち出し始め、そういった気運は田園生活の中での真の生き方や価値を見出そうとした芸術家たちによる地域主義運動に繋がっていったというわけです。

このムーブメントの代表的な人物とされているのがグラント・ウッド。敬虔なクエーカー教徒の家に生まれ育ったウッドは、アメリカ中西部の牧歌的な田園風景、あるいはその地に暮らす人々を描き、米国人による新しい写実スタイルを生み出した画家として知られている。

彼の絵というのはどこか世の中の動きに取り残されたようなシュールともいえる世界観を描き出していました。

そのウッドの最も有名な絵として知られているのが、『アメリカン・ゴシック』と題された肖像画です。

この絵に描かれた二人ですが、一見すると年の差夫婦か父娘に見えるのですが、実際は夫婦でも親子でもありません。実はウッドの妹ナンと彼の歯科医だったバイロン・マッキービーなる人物をモデルとした描かれたもの、つまりセットアップされた作品だったのです。

ウッドがこういった農民や田園風景を主題にしていたのは、アメリカの伝統的価値観を表現しているとも、時代遅れを揶揄しているとも言われていますが、その真意は明らかになっていません。

ただエドワード・ホッパーのような都会派の画風とはかなり趣が異なり、どちらかといえばフランスの素朴画家として知られるアンリ・ルソーのようでもあるその丁寧に描かれた画風は、都会生活や前衛的なモダニズム運動から距離を置いたがゆえに生まれた独特のスタイルだったということは言えるかもしれません。

「革命の娘たち」 (1932)

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