大塚家具は、一度だけ利用したことがあります。実家が建て替えで、家具を新たに揃えるために、横浜のショールームに訪れたことがります。入口で名前や住所を記入してアンケートを記入します。そして家具の専門コンシェルジュとお茶を飲みながら、世間話から最近の家具のトレンドなんかを雑談しながら本題に入りました。
たっぷり時間をかけて、こちらの希望や好みを察しながらの接客スタイルに感銘を受けました。もちろん、強引な営業ではなく「どうぞ比較してください。じっくり検討してみてください」ていう感じです。
購入した家具の搬入とかも他とは別格の対応でした。購入してからも定期的に電話がありました。今でも実家で大切に使用していますが、下見から相談、購入、設置までのプロセスが思い出になるのは、あまりないことです。
正直、そのままやっていても縮小は間違いなかったでしょう。ニトリ、イケアなどの家具には値段的に競争になりません。危機感を感じて打って出たのでしょうが、すべて裏目になってしまった。個人商店からの脱却は間違いない道だったと思います。
骨肉の争いをマスコミで連日取り上げられ、堕ちたイメージからの回復はできませんでしたね。優秀なんでしょうけど、平時で活躍を見てみたかったような気分です。
独裁が続いたようで、社員はたまらなかったでしょう。
「大塚家具の仕入れ担当者が『わかってますよね』と、ほとんどの取引先にプレッシャーをかけているようです。実際に匠大塚との取引をやめたメーカーもある。ただ、独禁法に抵触している可能性があり、あるメーカーは弁護士への相談も検討しているようです」(匠大塚関係者)
一方、社内は“ブラック化”が進行中だ。大塚家具から匠大塚へ転職した社員は70人以上。現在も毎日2、3人がこっそり匠大塚の面接を受けているという。こうした人材流出を防ぐため、社内では直属の上司が窓口となった“通報制度”を実施。社員が「辞めたい」や「匠――」などの言葉を口にすると、同僚に“告げ口”されてしまうという。
大塚久美子(おおつかくみこ 1968年2月26日生 )
ひろゆき[=西村博之]氏がYouTubeで発信した「大塚家具社長が無能な理由とは」が話題を呼んでいる。彼はこれまでにも同社について何度も言及してきたが、大塚久美子社長が辞任して半年も経たずに大塚家具は黒字化したと言うのだ。本当なのか?
超絶無能
「自分が無能であるにもかかわらず、それが分からなくて、創業者の父親を追い出して、ビックリするくらいの早さで会社を傾かせて借金まみれ、赤字にして、ヤマダ電機に売るっていうのをやったんですね。で、ヤマダ電機がアルファベットのOで始まる家具屋さんを買い取って、最近「日経ビジネス」かなんかで、インタビュー記事を見たんですけど、ヤマダ電機の大塚家具、黒字化してるんですよ。」
大塚家具は、21年4月期の第3四半期決算を発表している。それによると、20年5月~21年1月までの売上高は199億8400万円で、前年同期間比で5億7400万円(3%)増と7年ぶりの増収を記録している。さらに昨年の緊急事態宣言の解除後より客足や受注が回復し、既存店の売上高は9月を除いて前年同月比2桁増だという。
久美子前社長が辞めた途端、経営が良くなったとひろゆき氏が考えるのも分かります。が、トータル赤字です。単体では黒字に持っていったようですが、年間では28億円の赤字でした。
久美子社長の頃は、まず黒字の業績予想を発表して、その後に赤字に下方修正し、最終的にさらに大赤字に陥るのがお決まりのパターン。77億円もの赤字を出していた昨年に比べたら、かなりの改善です。
彼女が社長だった時は、ひたすらシュリンク(縮小)していました。業績が落ち、社員も辞め、店を畳み、売り場面積も減らしました。赤字企業のコスト削減は当然ですが、それが売上減少に追いつかなかった状態でした。
それがヤマダ傘下となったことで、ヤマダ電機の店内で家具を売るようになり、コスト削減をしつつ売り場面積を増やせたという。
山田会長は大塚家具を傘下にした際、久美子社長の経営を1年は見守ると言っていました。その1年で特に変化がなかったため、彼女は会社を去ることになったわけです。大塚家具を扱うヤマダ電機の店舗は91店舗にまで拡大した。大塚家具の直営店は13店しかありませんから、いかにヤマダ電機が販売に力を入れたかが分かります。
ヤマダホールディングスは21年3月期の通期業績予想の修正を発表した。売上高は1兆7190億円から1兆7500億円に、経常利益は810億円から988億円に大幅アップしている。コロナ禍の巣ごもり需要が想定以上だった。大塚家具の赤字28億円など大したことではない。
高級家具で有名だった『大塚家具』のお家騒動
創業者の大塚勝久氏と、娘の大塚久美子氏の経営権争いが勃発し、混乱の末企業価値を毀損させてしまった騒動です。娘の大塚久美子氏の経営方針転換による赤字と、お家騒動によって大塚久美子氏は大塚家具を追われる身となったのです。
高級路線だった大塚家具が、経営権争いの末娘の大塚久美子氏によってカジュアル路線に転換。当時お家騒動として連日メディアで大きく取り上げられていた。
大塚久美子氏が経営権を握りましたが、赤字続きにより責任をとるかたちで社長を辞任。そして2022年5月1日にはヤマダデンキに吸収合併され、ブランド名は残るものの、大塚家具が消滅することになりました。
世間を賑わせたお家騒動の当事者の一人である大塚久美子氏は、社長の座を追われる。大塚家具創業家の「資産管理会社ききょう企画」が東京地裁から特別清算開始の命令を受け、結局すべて失ってしまった。
骨肉の争いは、マスコミで連日報道される。
埼玉県春日部市の桐箪笥職人の家に生まれた勝久氏が大塚家具を創業したのは1969年。会員制で高級家具を販売する手法で、一代で同社を成長させてきた。創業40年を迎える2009年3月、勝久氏は会長に退き、後任の新社長に立てたのが長女の久美子氏だった。
「ここで骨肉の争いの火種が生まれました。久美子新社長と勝久会長は経営のあり方を巡って対立。2014年7月、久美子社長は解任され、勝久会長が社長を兼務することになりました」
社長解任直後から社長復帰と父親の排除を画策していた久美子氏は、2015年3月の株主総会で大株主として経営陣退任の提案を検討していることが明らかになります。
久美子氏は社長を解任される前に、「ききょう企画(大塚家管理会社)」から取締役の長男・勝之氏、監査役の母・千代子氏を解任し、勝久派を排除していました。
彼女は大塚家具株のおよそ10%を持つ大株主である「ききょう企画」を使い、勝久氏を支持していた社外取締役に内容証明を送って批判を展開。彼を辞めさせることに成功しました。その後、取締役会の多数派工作が実を結び、勝久氏らを排除した取締役候補者案を会社提案として株主総会に提出することにも成功しました。
親子喧嘩は株主総会から法廷へ
2015年2月、翌月に迫った株主総会を前に、勝久会長と久美子社長はそれぞれが会見を開いて、お互いの退陣を求めて委任状の争奪戦(プロキシーファイト)をスタートさせました。この時にも、ききょう企画の持つ大塚株が大きな存在感を見せました。
株主総会では、久美子社長の提案が議決権の61%を得て可決された。勝久氏は退任に追い込まれ、多くのメディアが“娘が圧勝”と報じた。
ここでまた、ききょう企画がクローズアップされます。実は2008年に勝久氏は、ききょう企画に大塚株130万株を譲渡していた。その際、勝久氏を引受人とする15億円分の社債が発行されていました。5年後の13年4月、償還期限となっても払い戻されなかったため、勝久氏は請求訴訟を起こしていました。その裁判が始まった。
舞台は株主総会から東京地方裁判所へと移った。法廷では母が娘をなじり、娘は父を批判するという骨肉の争いが繰り広げられました。久美子社長サイドは『償還期限の延長は合意されていた』などと主張しましたが、合意書もなかったため、勝久氏の主張が全面的に認められました。
2016年4月、東京地裁はききょう企画に15億円の支払いを命じたのです。久美子サイドはさすがに控訴しても見込みがないと思ったのか、大塚株を担保に銀行から借り入れ、利息を含む17億円を勝久氏に支払いました。この17億円の残りが、負債1億円と言われている。これによって「ききょう企画(大塚家管理会社)」特別精算となった。
ようやく法廷で決着がついたとき、すでに大塚家具のブランドイメージは地に落ちていた。久美子社長率いる同社は、16年12月の決算から赤字に転落した。2016年に45億円の赤字、2017年12月には72億円、18年12月は32億円……。19年末にヤマダ電機の子会社となり、2022年5月に吸収された。
父・勝久氏は、子どもたち5人のためつくった大塚家の資産管理会社「ききょう企画」。まぁ、相続税対策の面が強いと思いますが、それが仇になってしまった。長男以外は、すべて長女・久美子氏についてしまっている。
親心で子どもに少しでも残したい。早々に持ち株を分散した際に、叛乱を起こされたらすべてを失ってしまう。大塚家具の商売の仕方が時代に合わなくなりつつあったのは間違いないんだろうけど、久美子氏のクラッシャーとしての経営手腕は本当にお見事としか言いようがないくらい、跡形もなくぶち壊して別の意味で凄い。
久美子氏はは5人兄弟の長女で、幼少時は春日部駅西口の大塚家具1号店店舗兼倉庫の一角で過ごした。1991年3月に一橋大学経済学部を卒業。経済学部を選んだ理由は、高校時代に読んだ雑誌のジョン・メイナード・ケインズ特集であった。大学では塩野谷祐一学長の指導の下、ジョン・メイナード・ケインズの『確率論』をテーマにした卒業論文を作成した。
大学卒業後は大学院に進学し研究者になることも考えたが、当時女性の就職が厳しかったこともあり、バブル景気のうちに就職しておこうと考え、就職活動を優先した。当時としては珍しく女性総合職の採用に積極的だった富士銀行(現:みずほ銀行)から内定を得た。
1991年4月に富士銀行に入行。新入行員研修を経て、某支店(支店名は出典に記載なし)に配属されて融資業務を担当した。2年後の1993年に本部に転勤して国際広報業務を担当した。
入行から3年後の1994年に富士銀行を退職し、大規模小売店舗立地法改正を受けて業容拡大を目指しており、人手が足りなかった家業の大塚家具に入社。1996年から取締役。企業規模を拡大していく中で、経営企画部長、経理部長、営業管理部長、広報部長、商品本部長等を歴任し、個人商店的組織からの脱却を目指して各部門の仕組み作りを行い、それを後任に引き継いでいった。
2004年同社取締役を退任し、1年間の休養を経て、2005年東京都千代田区に広報・IRコンサルティング会社、株式会社クオリア・コンサルティングを設立し、代表取締役に就任。この間コンサルティング会社フロンティア・マネジメント株式会社の執行役員や、大塚家の資産管理会社である株式会社ききょう企画代表取締役、社団法人如水会理事なども務めた。
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