オノ・ヨーコとダコタ・ハウス

人物

オノ・ヨーコさんがダコタハウスから引っ越して、田舎の静養所に写ったというニュース。

ここに住んでいたジョン・レノンが1980年12月8日、マーク・チャップマンに射殺された場所 (建物玄関前) としても知られている。暗殺されて43年が経過。犯人のマーク・チャップマンは未だに収監中で、仮釈放の申請は却下され続けている。

オノ・ヨーコさんが生きている間は、仮釈放はないと言われていたが、マーク・チャップマンは67歳。出てくる可能性もあるかも知れません。

オノ・ヨーコさん(90)が、マンハッタンのアッパーウエストサイドにあるダコタハウスから、アップステートの農園に引っ越していたことがわかった。デイリーメールが報じています。

1978年に「静養所」として利用するため、亡き夫ジョン・レノン氏と共同で、100頭の牛と共に17万8,000㌦で農園を購入していた。敷地は、240万平方メートルを超え、邸宅には4つのベッドルームと2つのバスルームがある。町の人口はわずか340人と小さく、付近にはファーマーズマーケットやピザレストランなどもあるという。

2人は1969年に結婚。1973年にダコタハウスに移り住んだ。著名人が住む高級アパートメントとして知られており、ローレン・バコールやレナード・バーンスタイン、ジュディ・ガーランドなどのスターが住まいを構えていた。

マドンナやシェールは入居を断られるなど、理事会が厳しい審査を行うことでも知られる。ジョン・レノンは1980年12月、建物の出口でマーク・チャップマンに銃で撃たれ、死亡した。

ヨーコさんはパンデミック中に、アップステートに転居していたという。関係者によると、世間の注目から逃れ「平穏な生活」を送っている。デイリーメールは今後、ダコタハウスに戻る予定はないとみられているが、売却する計画もないと伝えている。

ある関係者はパンデミックの直前、ニューヨークポスト紙の取材に、ヨーコさんは「24時間体制」のケアを必要としており、ダコタハウスからほとんど外出することはないと語っていた。

2017年には、全米音楽出版社協会(NMPA)のセンテニアル賞の授賞式に、息子ショーンさんと車椅子で出席していたが、この時、具体的な病気を明かさず、「病気を患ってから、多くのことを学んだ。これらを経験できたことに感謝しています」と語っていた。

yoko ono, the dakota building

ダコタ・ハウス (The Dakota、Dakota Apartments) は、ニューヨーク市マンハッタン区アッパー・ウエスト・サイドにある高級集合住宅(コーポラティブハウス)である。1880年着工、1884年竣工。

日本では「ダコタハウス」と呼ばれていますが、米国の呼び方で言うと「ダコタ・アパート」になります。〔アパート〕は日本で言う〔高級マンション〕に。

シンガーミシンの社長だったエドワード・クラークが、ヘンリー・J・ハーデンバーフに設計を依頼して、建てられた。後に2人はマンハッタンの「プラザホテル」の建設でもコンビを組んだ。当時、マンハッタンのアパートメント形式の住宅としては、2番目に着工されました。

ダコタ・ハウスの役員会による入居審査基準は、ニューヨークで最も厳しいとされ、単に資産や収入が多いだけでは入居できない。

今までにビリー・ジョエル、シェール、メラニー・グリフィス、マドンナ、カーリー・サイモン、アレックス・ロドリゲス、ジャド・アパトー、ティア・レオーニなどが入居を拒否されている。また、20年近くすでに入居者であった黒人の投資家がもう一戸を買い足そうとしたところ、役員会に拒否されたため、人種差別的であるとして訴訟を起こした。

ジョンとヨーコは1973年にダコタ・ハウスに転居。7階に2戸と別の階に3戸の計5戸を少なくとも所有しており、自宅のほかに、倉庫、ヨーコのスタジオ、ゲストハウスとして使用(倉庫にしていた1戸は2008年に売却)。

ただし、1973年半ばから二人は別居状態にあり、ジョンは秘書で恋人のメイ・パンと暮らしていたため、1974年末までジョンは住んでいない。1975年にはここでショーンが生まれ、ジョンは音楽活動を一時休止して子育てに励んだ。1980年のジョンの死後もヨーコは住み続けており、毎年中庭で開かれる住民のポトラック・パーティ(食べものを各自が持ち寄るパーティ)では、ジョンの生前からの習慣を引き次いで寿司を差し入れている。

ここに入居するには住民で構成されている役員会の承認を得なくてはならず、お金があるだけでは入れない。値段は一番安くて、1階にある寝室3部屋の物件で675万ドル(7.7億円)。7階にある寝室4部屋の物件で950万ドル(約10億円)。最上階9階はさらに高額だと見られる。

曽祖父は安田財閥の創業者

ジョン・レノンに大きな影響を与えた人物でありながら、「ビートルズを解散させた女」とも呼ばれていました。ポール・マッカトニーと確執があるとされてきましたが、ポール・マッカトニーは否定してます、解散の原因は彼女ではないと。

しかし、ビートルズのリーダーを惑わしてバンドを解散に追い込んだ東洋の女というイメージが残っているのも確かです。

1969年3月20日に結婚。夫は28歳、妻は36歳でした。

彼女のほうが歳上ですし、レノンとの前に2度結婚して、出産もしています。

時代はベトナム戦争の真っただ中であり、彼らはハネムーン中に愛と平和のパフォーマンス『ベッド・イン』を披露。ビートルズの『ジョンとヨーコのバラード』( The Ballad of John and Yoko)は、二人の結婚の裏話を歌った曲。

超資産家令嬢です。母方が安田財閥の血筋です。両親は小野英輔・磯子夫妻。

父は日本興業銀行総裁・小野英二郎の三男であり、東京銀行常務取締役を務めていました。また母・磯子の家系は4大財閥のひとつである安田財閥。

安田財閥の創業者が磯子の祖父で、ヨーコの曾祖父にあたる安田善次郎。母・磯子の父である善三郎は、婿として安田家に入った人です。

善三郎さんは、安田の舵取りを任されますが、失脚してしまいます。金融を得意とする財閥でしたから、製造業に進出して失敗してしまいます。引退していた創業者の善治郎が復帰すること。

トップの座から退いたとはいえ、磯子さんはお嬢様として育ちました。上流階級の令嬢たちの憧れの的だった小野英輔と結ばれ、ヨーコを授かります。

安田銀行は富士銀行を経てみずほフィナンシャルグループへと現在に至ります。安田は金融財閥とも称され、三井、三菱などと違い、学卒者などの人材を養成しなかったため、金融以外の直営事業は成功せず、明治末年からはもっぱら金融中心の発展をしてきました。

安田一族らしく投資家としても手腕は確かなもので、レノンとの子、ショーンが誕生を機にレノンさんが主夫になりました。この時期に不動産取引や投資事業を行い、資産を増やしたといわれています。

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