「オッペンハイマー」原爆の父と呼ばれた男

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クリストファー・ノーラン監督の次回作は、原爆の父と言われる『オッペンハイマー』の伝記映画で、2023年公開予定となっている。本作はカイ・バード、マーティン・J・シャーウィンによる本『オッペンハイマー「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』を原作としている。

この本は良書ですが、Amazonだと上下巻で10000円くらいします。近所のブックオフで1800円で入手しました。できればリサイクルは利用したくはないけど、あまりにも高すぎます。図書館でも人気があるようで(数が少ないのかも)運が必要です。

長年、クリストファー・ノーラン監督はワーナー・ブラザースから配給してきたが、「テネット」から関係が悪化して、今回はユニバーサルからの配給となります。ちょっと楽しみですが、原爆をテーマにしているため、日本での興行はあまり期待できないかも知れません。

2006年ピュリッツァー賞受賞作品。「原爆の父」と呼ばれた一人の天才物理学者J.ロバート・オッペンハイマーの生涯を丹念に描くことで、人類にとって国家とは、科学とは、平和とは何かを問いかける全米で絶賛された話題作の邦訳。

裕福な家庭に生まれたオッペンハイマーがその才能を開花させていく過程を綴る。彼は学問に打ち込む一方で、心身のバランスを崩し、なかば躁鬱の状態に陥る。ドイツのゲッチンゲン大学に招聘されたころから、症状も改善し、理論物理学者としての前途が大きく開けてくる。

やがて、原爆プロジェクトの委員長に任命され、開発にあたるようになる。研究にあたっては、彼自身の中に忸怩たる思いもあったようだ。1945年7月16日早朝、実験が成功した彼は「われわれ全員がこの瞬間”ちくしょう”になってしまった」と呟き研究所をあとにする。

オッペンハイマーは、ロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として名声を得たが、苦しい晩年を送ることになる。

学生時代の恋人がアメリカ共産党員で集会に参加した経緯があり、原爆に関する情報をソ連に提供する要素があると判断され、常に監視下におかれ、生涯にわたって抑圧される生活をおくることになる。実際にはスパイ行為は確認されなかった。原爆による広島・長崎の惨状を知った後に水爆の開発に反対したことを問題視されていた。

後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。

原爆投下は必要だったのか

毎年この日になると、広島で「反核集会」が行なわれ、原爆が「人類の悲劇」として語られるが、これはごまかしだ。それは人類の問題ではなく、原爆を投下したアメリカのトルーマン大統領の決定であり、 ロシアも指摘するように、民間人に対する無差別爆撃は国際法違反である。

トルーマンは『回想録』で「7月26日にポツダム宣言を出したのは、日本人を完全な破壊から救うためだった。彼らの指導者はこの最後通牒をただちに拒否した」と、日本が宣言を受諾していれば原爆は投下されなかったかのように書いているが、本書も指摘するようにこれは嘘である。

原爆投下はスティムソン陸軍長官によって 7月25日に決定され、大統領に承認された。これはポツダム宣言の発表される前であり、会談でも議論にならなかった。逆に、ポツダム宣言は原爆投下(飛行計画は8月上旬と決まっていた)を正当化するために、急いで出されたのだ。

ポツダム宣言に対して日本政府は明確な回答をしなかったため、原爆は予定通り広島と長崎(当初の予定は小倉)に投下され、その後に日本政府はポツダム宣言を受諾した。この意味で原爆が日本の降伏を早めたことはまちがいないが、その逆は真ではない。

「本土決戦による米兵の犠牲を減らすために必要だった」というのも嘘である。当時すでに、日本の敗戦は決定的になっており、「決号作戦」と呼ばれた陸軍の本土決戦も実行不可能だった。トルーマンはのちに「広島市民6万人より米兵25万人の命のほうが重要だと思った」と、広島市の人口について誤った報告を受けたと弁明している。

トルーマンがスターリンの署名を拒否してポツダム宣言を出し、ソ連参戦の前に原爆を投下したのは、その前に日本を降伏させてアメリカが占領統治の主導権を握るためだった。その意味でトルーマンにとっては原爆投下は必要であり、それは冷戦の始まりだったともいえよう。

しかし戦略的には、原爆は無意味だった。

米軍の戦略爆撃調査団報告書は「原爆投下やソ連の参戦がなくても、遅くとも1945年12月31日には日本は降伏しただろう」と書き、マッカーサーは「スティムソンが原爆を使ったのは、戦争が原爆なしで終わったら、その開発に多額の予算を投じた自分の責任が問われるからだろう」とコメントした。

ケント・ギルバート氏【戦後70年と私】

占領政策の真実間違いに気付いていたマッカーサー

70年前の終戦直後、日米関係は、お互いが完全な対立軸からスタートした。米国は、大日本帝国とは、軍国主義の独裁者が神道という宗教を利用して国民を統率する、非民主的国家であり、世界征服をたくらむ野蛮で好戦的な民族の国だと考えていた。

日本の占領政策、言い換えれば「保護観察処分」は、危険な日本を制度面と精神面の両方から矯正する趣旨で始まった。

東京裁判(極東国際軍事裁判)を通じたABC級戦犯の処罰や、戦争の贖罪意識を植付ける「WGPI(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」、日本国憲法第9条も一貫した趣旨に基づいている。

しかし、朝鮮戦争が起きたころには、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官のマッカーサー元帥は、根本的な間違いに気付いていた。米国が戦うべき敵は日本ではなく最初からソ連であり、日米戦は不必要だったのだ。

強い日本軍が、野蛮で危険なソ連の脅威からアジアの平和を守っていた。米国は間抜けな勘違いのせいで、日本軍を完全に解体してしまった。これが今日まで続く、米軍日本駐留の根本原因である。

最高司令官を解任されて帰国したマッカーサー元帥はワシントンに呼ばれ、1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で証言した。

Their purposetherefore, in going to war was largely dictated by security」

日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだった

日本が始めた大東亜戦争は侵略戦争ではないという意味だ。戦後体制の大前提を根底から覆す、このマッカーサー証言の存在すら知らない人が日米両国とも圧倒的多数である。

占領下の日本には「プレスコード」(GHQによる言論統制。『連合国や連合国軍への批判』など禁止事項を厳格に列記した)があったので、このニュースを取り上げることはできなかった。しかし、終戦70年を目前にした現在も、日本の首相経験者や与野党の要職者が、「安倍晋三首相は70年談話で日本の侵略戦争をわびろ」などと、無知蒙昧(もうまい)ぶりを披露している。

70年間に、日米ともさまざまな機密文書が公開され、過去の多くの常識が、今では非常識になった。開戦前の日米和平交渉の経過や、当時のルーズベルト大統領が議会承認を得ずに「ハル・ノート」という最後通告を日本に突きつけた事実は、米国人にも隠されていた。

ハル・ノートの草案を書いたハリー・ホワイト財務次官補は、後に「ソ連のスパイ」だとバレて自殺した。日米開戦支持の議会演説を行ったハミルトン・フィッシュ下院議員は、すべての真実を知って大激怒。自分の演説を恥じ、「ルーズベルト大統領を許せない」と死ぬまで言い続けた。

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