小林陽太郎 富士フィルムを没落回避させた先見性

人物

コダックのようにはならず、みごとに市場の大きな変化にイノベーションで乗り切った。富士フイルムは2000年に売上の6割、利益の7割を占めていたカラーフィルムの売上を4~5年で失ってしまった。フィルムがデジタルに置き換わるのは、80年代から予見できていた。技術の棚卸を行い、ヘルスケアやデジタルイメージングなど注力事業を決定。既存事業のリストラ、注力事業への多額の投資を実施した。

企業名「富士」がついている企業は、かつて存在した芙蓉財閥、その流れのグループと思っていましたが、違いました。企業系列としては芙蓉グループではなく三井物産・ダイセルなどの三井グループに属し、グループの親睦会である月曜会及び綱町三井倶楽部に加盟し、又、双日・メタルワン・トクヤマ・関西ペイントらとともに旧岩井財閥の企業集団である最勝会グループを形成している。

小林陽太郎さんが富士フィルムの社長を勤めていたのが、1978年1月 – 1992年1月、その後会長職に退き、2015年に亡くなっています。王者であったコダックに肩を並べ、フィルム業界の世界トップ4に。日米経済摩擦の代表的な存在となる。1962年に提携合弁した米ゼロックス、いつの間にか逆転し凌ぐ存在になっている。その後のデジタル化には、間接的ではあるが、戦略の決定に影響を及ぼした。

ドラッカーのマネジメントへの深い造詣を持たれ、「企業は誰のために、何のためにあるか」を真摯に問い続けられた希有な経営者でした。

経済市場主義へのアンチテーゼ

生まれはロンドン。父親は富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)の第3代社長。慶應義塾大学経済学部卒業後、名門米ペンシルバニア大学ウォートン校に留学し、MBAを取得。初めは父親の会社に入るが、合弁で設立されたばかりの富士ゼロックスへ1963年、30歳で移籍する。米国本社経営陣に「来ないか」と熱心に誘われ、「男冥利に尽きる」と応じたのだった。

以降、会長職を辞するまでの43年間は大きく3期に分けられる。最初は日本の高度成長と軌を一にする会社の急進期だ。富士ゼロックスは事務合理化の波に乗り、市場を席巻する。

この時期「モーレツからビューティフルへ」のキャッチフレーズのもと、経済至上主義へのアンチテーゼとして、真の豊かさを訴えるキャンペーンを打ち、新進企業としてのメッセージを発した。その推進役を務めたのが当時37歳の青年取締役、小林さんだった。

1973年のオイルショック後、一転、業績は急落。存亡の危機に直面すると、副社長だった小林さんは米国流の科学的なTQC(全社的品質管理)を導入。業務の標準化を徹底した。1978年には45歳で社長に就任する。

ところが、業績が上向くにつれ、「TQCは軍隊みたいで嫌だ」との声が社内から聞かれ始める。80年代半ばからはTQCの形骸化が目立ち、日本企業の強さが讃えられた時代に富士ゼロックスは逆に沈滞する。

思い悩んだ小林さんは90年代に入ると、社員の個性を活かす経営へと舵を切り、「よい会社構想」を打ち出す。事業が「強い」だけでなく、社会に「やさしい」こと、社員にとって仕事や人生が「おもしろい」ことを重視する。その姿勢を前面に出し、ボランティア活動も評価対象とするなど、先進的な人事制度を次々採用した。

そして、1999年に経済同友会代表幹事に就くと、経済性だけでなく、社会性や人間性の軸も加えて評価することで「市場の進化」を促す「21世紀宣言」を提起。“社会派経済人“としての思想と地歩を確立していった。

経済人にとっての「教養」の重要性も早くから認識。前述のアスペンの活動や、経営者が集まって合宿し、古典を学び合う「キャンプ・ニドム」なども主催した。こうしてみると、小林さんの手腕の最大の特徴は、10年、20年先を読む先見性にあったことがわかる。それは人間の本質に対する深い洞察によるものだろう。

「データや数字以上に、社会を構成する一員である自分に対して正直であることが何より大切です。少なくとも9割方納得できると判断できたら決断することです」

小林さんは「性善説の経営者」だった。人間の本質は「善」であり、だから、強い当事者意識を持ち、自分で納得できれば、最善の判断ができる。

米ゼロックス買収失敗。棲み分けができていた市場に参入。経営統合発表から販売提携解消へ

富士写真フイルム株式会社(現・富士フイルムホールディングス)と、米ゼロックス社のイギリス現地法人であるランク・ゼロックス(現・ゼロックス・リミテッド)社との合弁会社として1962年(昭和37年)に誕生した。

2018年1月31日、富士フイルムホールディングスは、ゼロックスを買収して子会社化することを発表。

まずゼロックスが富士フイルムから富士ゼロックスの株を買い戻すことで富士フイルムホールディングスの持ち分を減資する。これにより富士ゼロックスの株はゼロックス出資分のみとなり、ゼロックスの完全子会社となる。

その上で、富士フイルムホールディングスが富士ゼロックス株の売却で得た資金でゼロックスが発行する新株を買い取って連結子会社化し、(新)富士ゼロックスとする方針。コピー機に代表されるOA機器の需要が、インターネットの普及によるペーパーレス化により減少している局面であった。

当初はゼロックス経営陣も経営統合に合意していたが、新株の価格に関して株主からの強い反発を受けて同年6月に統合合意を一方的に破棄したため、富士フイルムがゼロックスを相手取って損害賠償請求訴訟を起こす事態となった。

結局、2019年11月に富士フイルムがゼロックスから富士ゼロックスの株式を買い取り完全子会社化することで合弁を解消する合意が結ばれ、損害賠償請求訴訟も取り下げられることになった。

一方、ゼロックスはその発表に相前後してヒューレット・パッカード (HP) への買収提案を行った。買収原資には富士ゼロックス株の売却益を充てるが、hpの時価総額はゼロックスの3倍にも上り、これだけでは不足するため金融機関から資金融通の了解を取り付けたという。 この提案に対して、HPは「自社の価値を著しく過小評価している」として拒否し、逆買収の可能性を示唆する発表を行った。

2021年3月末でゼロックスのブランド使用に関する契約(5年毎更新)の期限満了を迎えるため、契約を更新せず提携を解消することをゼロックスに通知。4月より、ゼロックスを外した「富士フイルムビジネスイノベーション」に社名変更することとなった。

これにより、アジアなどでのゼロックスブランドを使った製品販売を終了し、独自ブランドへ切り替えると共に、従来は提携によるすみ分けでゼロックスが販売してきた欧米市場にも参入する。ただし技術ライセンス契約終了後も、米ゼロックス社との相互の商品供給契約の関係は維持される。

富士フイルムホールディングスは、米ゼロックス社に対して、ブランドを使用するためのライセンス料として年100億円程度を支払っていた。

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