インテル創業 ゴードン・ムーア 「ムーアの法則」

人物

米半導体大手インテルの共同創業者で、半導体の技術革新に関する指針となった「ムーアの法則」を提唱したことで知られるゴードン・ムーア氏が、米ハワイ州の自宅で死去した。94歳だった。

死因は明らかにしてないが、老衰と思われる。インテルといえば、ロバート・ノイスとアンドリュー・グローブの3人が重要人物だが、ノイスは1990年、グローブは2016年に鬼籍にはいっている。

1968年に同僚だったロバート・ノイス氏とインテルを設立。1979年から1987年まで最高経営責任者(CEO)を務めた。1997年に名誉会長に就き、2006年に退任した。

「半導体の集積度は2年ごとに倍増する」という業界の経験則「ムーアの法則」を提唱。これが半導体の小型化や製造コストの低減につながり、コンピューターやスマートフォンの普及に貢献した。

今日の半導体事業の指針を作った偉大な人物ではある。CEOとして指揮を取っていた時代は、日本の半導体企業の攻勢を受けて、一段高い地位のインテルを逃し、君臨した功績は大きい。それと同時に半導体開発に関わる人たちに「ムーアの法則」という一種の呪いをかけた人でもある。

ムーアの法則?

ゴードン・ムーア氏が1965年米「Electronics」誌で発表した半導体技術の進歩についての経験則で「半導体回路の集積密度は1年半~2年で2倍となる」という法則のこと。

「半導体の性能が18か月で2倍になるという」経験則で「18か月で2倍」という目安は、競合との競争に勝つために達成すべき目標値へと変化し、半導体産業のガイドラインともなりました。

「集積率が上がること」は「性能が上がること」。 半導体の性能は、CPUの性能は18ヶ月ごとに2倍になります。 1秒間に100個の処理をしていたCPUが、18ヶ月後には同じ面積のCPUで200個の処理ができるようになります。

ムーアの法則の公式は、集積回路上のトランジスタ数は「2年ごとに倍になる」というものである。 となる。 したがって、2年後には2倍、5年後には5.66倍、7年後には11.3倍、10年後には32倍、15年後には181.0倍、20年後には1024倍ということになる。

半導体チップの集積度は毎年上がっていきました。 最近になってトランジスタサイズが原子の大きさに近づいてきたために、スケーリング理論が成り立たなくなり、微細化はもう限界に近づいてきた、といわれるように。 「ムーアの法則は限界」と言われています。

『インテル 世界で最も重要な会社の産業史』(マイケル・マローン著、土方奈美訳、文藝春秋)の著者は、全米で初めてシリコンバレー担当を置いた新聞『サンノゼ・マーキュリーニュース』において、初の同社担当となった記者。取材実績は1970年代から今日におよぶというのだから、その労力たるや想像に余りある。

ゴードン・ムーアは、良識があり、浮世絵離れした決定には反対だった、どちらかとうと保守的な人物といわれます。そしてカリスマ性を持ち、怠惰で頼りないロバート・ノイス。そして反抗的なアンドリュー・グローブ。ノイスとグローブは対立に明け暮れます。

大企業のスタートは最初は同じ夢と希望を持ち戦い続けますが、しだいにやりたいことの方向性に違いが顕著になり、喧嘩わかれするロックバンドに似ています。

インテルは最初から3人の中が険悪な状態でスタートします。3人とも個性の持ち主で、理想的とはいえませんが、不思議と成功してしまいます。不仲で始まり、互いに認め合い敬愛を深めていった稀な企業です。嫉妬、妬み、恨みの一般的な負の感情が希薄だったとも。

若き日のムーア

ムーア氏は1929年に米西部サンフランシスコで生まれ、カリフォルニア大学バークレー校などで学んだ。トランジスタを開発したウィリアム・ショックレー氏の半導体研究所でノイス氏に出会い、1957年にフェアチャイルドセミコンダクターを設立。その後のインテルの発足につながった。

ショックレー半導体研究所を飛びたすというベンチャーだが、「8人の反逆者」と呼ばれることになる。裏切り者扱いを受けた。

ジュリアス・ブランク、ヴィクター・グリニッチ、ジャン・ヘルニ、ユージーン・クライナー、ゴードン・ムーア、シェルドン・ロバーツ、ジェイ・ラスト、ロバート・ノイスの8人。

ウィリアム・ショックレーは彼らの退社を「裏切り」と呼んだが、8人はシャーマン・フェアチャイルドと合意に至り、フェアチャイルドセミコンダクターを設立した。この企業は急速に半導体産業のリーダーとして成長し、シリコンバレーに於けるインキュベーターとしてインテルやAMDなど多くの企業の創業に貢献した。

8人の反逆者 集積回路を発明したシリコンバレーの始祖

フェアチャイルド・カメラ・アンド・インスツルメンツの創業者であるシャーマン・フェアチャイルドに出資を受ける。

フェアチャイルドセミコンダクターの親会社の社長のジョン・カーターは半導体事業で得られた利益を再投資せずに他の事業の買収に費やした。また、シャーマン・フェアチャイルドも従業員へのストックオプションの贈与には消極的だったので徐々に創業メンバーを含む従業員たちの不満が高まった。

1967年に赤字に転落する。テキサス・インスツルメンツがTTL集積回路で躍進し、フェアチャイルドのDTL集積回路は時代遅れとなっていた。その後、8人の反逆者たちは独立したり転職によりフェアチャイルドから退社する。

ノイスは社内の派閥争いで対立をしていた。赤字の責任を取って辞任したCEOカーターの後任は当然ノイスだと見られていたが、取締役会は彼を選ばなかった。これが決定的になり、1968年、開発部門責任者ムーアと一緒に、退職してインテルを創業する。

2015年に、フェアチャイルド・セミコンダクターは、オン・セミコンダクターが24億㌦で買収で消滅する。1986年には富士通が買収に動いたが、議会の承認を受けることができず撤退している。

1980年代の日本勢の攻勢を交わしましたが、2000年代以降は、苦戦を強いられている。マイクロソフトのウィンドウズとインテルの組合せは市場を支配しましたが、2023年に半導体業界1位の座を韓国サムソンに明け渡しました。アップルに採用されたインテルマックもARMなどに置き換わっています。

 

 

 

 

 

 

 

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