ドクトル・チエコ 性教育のパイオニア

人物

深刻な病気を患い、長期間入院すると色々思い出すことがあります。死期が迫っている前兆なんでしょうか?難治性T細胞リンパ腫ですから致し方ない。

私の通っていた小学校は、川崎大師小学校といいます。150年の歴史がある小学校です。

近年では行なわれてませんが、昔は学校で予防注射を毎年やっていました。そのたびに学校医が訪れ、クラスごとに保健室で腕をまくって注射を受けてました。

大師小学校の学校医は、このドクトルチエコ先生。この時点でかなりのおばあちゃんで、若い研修医みたいな人もついていましたが、直接、注射をしてましたね。

流れ作業だったけど、一人ずつ声をかけて丁寧に行っていました。特に女子生徒には人気がありました。性教育でテレビで活躍された先生ですから、会話はお上手です。今のテレビに出ている女医タレントの先駆け的存在ですね。ちょっとキワモノ的扱いだったと思いますが。

女の子だけ体育館に集まって、性教育を行っていましたが、私は男なんでいまいち関心がない、といううか、わからなかったのかな。

一度だけ、会話をしたことあります。私が体育の授業中、跳び箱から転落して骨折をしたことがありました。保健室の先生に付き添われて、近くの病院で治療を受けていたとき、ドクトルチエコさんがいらっしゃいました。

その病院は、学校から近くあり、古い洋館のただ住まいの病院でした。

おじいちゃん先生と家族で経営されていて、私の家族もよく知っていました。妹がお孫さんと同級生だったので、骨折して運ばれたときは、妹にまで連絡が行って、大騒ぎで恥ずかしいかったかな。

この病院は、以前はドクトルチエコさんの親がやられていて、引き継いだようですね。引き継いだ経緯はわかりません。公演があったらしく顔を出されていたようです。

「○○のクラスの子ね、覚えてるわよ」。たくさん生徒がいましたから、ほんとに覚えているかどうか疑問ですが、そんな会話を記憶しています。うるおぼえですが、骨折した腕より、頭を入念に触られたような記憶です。

病院跡地。駐車場部分が、緑のアプローチで、瀟洒な洋館風の病院だった記憶がようなあるけど、美化されているかもね。

後で母から聞いた話ですが、私の父も広告代理店のイベント・舞台などを手掛けていた「電通映画社(後にテック)」に勤めていたので、挨拶はしたことがあったようです。ドクトルチエコさんの旦那さんは、日大芸術学部卒で演劇をされており、私の父も日芸卒だったので、顔見知りだったようです。年齢が全く違いますので、後輩として名刺を渡したくらいの関係だったようです。

ドクトルチエコさんは、大師小学校に来るとき、東門前の駅から歩いてきてました。

ハットを深くかぶり、くすんだ紫色のコートが印象的で記憶に焼きついています。

子どもころは、幸せだったなと思い出す光景です。

ドクトルチエコさんのプロフィール

ドクトル・チエコ(1924年8月23日 – 2010年1月6日)日本の産婦人科医、性医学評論家である。謝国権、奈良林祥とならぶ日本の性医学評論のパイオニアとして知られる。本名は木下和子、夫は劇作家のキノトール(本名:木下徹)。

帝国女子医学薬学専門学校(現在・東邦大学医学部)を卒業。1956年、夫のキノトール原作の映画『牛乳屋フランキー』(監督中平康、主演フランキー堺)に、夫とともに出演している。ドクトルを名乗るが医学博士ではない。

 

 

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