ダースト・ファミリーと殺人事件。

映画

2015年3月14日、ドキュメンタリドラマ「THE JINX」(ザ ジンクス)の収録に参加していた。番組は翌日の15日に放送予定で、このダーストの回が最終回であった。番組の収録中にトイレに行ったダーストは、

「俺が何をしたかって? 全員俺が殺したに決まってるだろ」と呟いた。

この時、ダーストのワイヤレスマイクのスイッチは切られておらず、ダーストの発言が番組スタッフに聞かれてしまった。番組スタッフはすぐに警察に通報し、ダーストはその場で逮捕された。(収録から時間が経過しており、番組に批判がある)

この老人は、アメリカでも屈指の資産家ファミリーの御曹司であり、セレブ中のセレブ、以前から社交界などでも有名な存在でした。一族の資産44億ドル(5500億円)。ダーストの資産は120億円と言われます。

ダーストの父親は、シーモア・ダーストといい、ニューヨークの不動産を扱う老舗不動産会社を引き継いだ。この会社はタイムズスクエアビルやWTCビル等、ニューヨークのそうそうたるビルを建築、管理するアメリカの発展を象徴するような会社であった。テロでなくなったWTC跡地に作られた、ワンワールドトレードセンターも手がけている。

1人目の殺害疑惑。妻キャサリーン。

ダーストが7歳の時、母親が自殺する。ダーストはその死を目の当たりしてしまい、幼い子供心に大変なショックを受け、カウンセリングを受けるほどであった。この出来事がダーストに深い影を落としたのは間違いなかった。

そんなダーストは大人になると、周囲の反対を押し切り結婚する。相手はキャスリーン・マコーミックという歯科衛生士の女性であったのだが、ダーストはアメリカ屈指のセレブであり、格差婚であった。
結婚後、自分の力で仕事をしようと、バーモント州で健康食品店をオープンしたが、父親から家の事業を手伝うよう圧力を掛けられ、渋々ニューヨークに戻った。

1982年1月末、妻キャスリーンが失踪し、行方不明となる事件が起こる。
当時、ダーストはキャスリーンと別居し、別のアパートに住んでいたのだが、もちろんこの時からダーストには疑いの目は向けられていた。
結局、決定的証拠が無かった為、ダーストを逮捕することは出来なかったが、セレブ一家に起きた衝撃的なゴシップネタは、当時、アメリカを大いに賑わかせ『史上最も不穏な事件』と呼ばれるほどであった。

この時、ダーストには別に付き合っている女性がいた。 プルーデンス・ファロー。女優のミア・ファローの妹で、ビートルズの名曲『ディア・プルーデンス』は彼女の捧げた曲。インドのヨガ瞑想合宿でビートルズと親交があった。

1994年、このスキャンダルの影響もあり、家業はダーストの弟が引き継ぐ事になった。しかし、この人事を巡りダーストは一族を相手取り裁判を起こし、一部で勝利した。

2人目の殺害疑惑。スーザン・バーマン

2000年12月24日、ダーストの長年の友人で作家のスーザン・バーマンが自宅で死んでいるのを発見される。

実はスーザンはキャスリーン失踪の真相を知っていたと言われており、死ぬ数ヶ月前にダーストから多額の現金を受け取っていた事が判明する。

ダーストの妻キャスリーン殺害疑惑にアリバイを証言していることから、このスーザン殺害事件も、ダーストに容疑がかかり、キャスリーン失踪事件も合わせて再捜査が始まるが、証拠不足の為、ダーストは不起訴に終わっている。

スーザンさんは作家でルポライター/ジャーナリストだった。ダーストとは結婚前の60年代のUCLA大学時代に知り合った親友で、父親を幼いころに亡くしているスーザンさんの結婚式には、ダーストが父親代わりとなってバージンロードを歩いたほど仲がよく、スーザンさんはダーストを兄のように慕った。

そのスーザンさんの父親は実はラスベガスを仕切るギャングのボスであった、バグジーことベンジャミン・シーゲルの相棒。銀行強盗や殺人を犯し、アメリカで最も厳しい警備と言われたNYのシンシン刑務所に入所していた。父親は13歳の時に亡くなり、ひとりっこのスーザンさんは父親がギャングだったことも知らずに育ったが、UCLA大学の同級生から新刊の犯罪実録書のことを教えられ、読んでみたところ自分の父親のことが書かれていた。その後自分でギャングの父親のこと調べた本を執筆し出版し、テレビでインタビューなども受けていた。

2000年に妻キャシーさん失踪が”事件”として扱われることになり、NY検察が再調査を開始する再調査を主導したのはやり手の新鋭女性検察官のジャニーン・ピローで、失踪する前にいたダーストのコテージの家宅捜索や、湖を捜索したが、証拠となりえる物件は何も発見されなかった。

失踪直前にキャシーさんは離婚をしようと弁護士を立てていて、3日前に条件を提出していたが、ダーストは条件を受け入れず離婚の申し出を拒否していた。
失踪後、NYのダースト・オーガニゼーションにニュージャージー沖とコインランドリーからコレクトコールがあった。ことが明らかになっている。

これが二人の言い争いの原因になったと見られている。ダースト・オーガニゼーションにコレクトコールをかける可能性があるのは、父親のシーモア・ダースト社長とロバート・ダーストのみ。海上で死体を遺棄し、コインランドリーで証拠隠滅のための洗濯をしていたのではないかと示唆されている。ダーストは「ザ・ジンクス」のインタビューで海上からのコレクトコールが自分だと認めず、海上に行ったことも否定しているが、コレクトコールをよくかけていたことは認めて「俺は電話代を払いたくない。シーモア(父)に払わせればすむことだ」と証言している。

ダーストに容疑がかかっていることで、マスコミから取材依頼や質問が殺到するが、作家としてマスコミの対応にはなれているスーザンが「広報」を買って出た。スーザンさんは仲のよい友人に「彼(ロバート・ダースト)には私が必要なの」と常に言っていたという。

しかし決定的な証拠がつかめないまま、NY検察局はダーストの親友であり、ダーストのことを”なんでも”一番よく知っている人物…スーザンさんに事情聴取する準備をしていた。

ビバリーヒルズのベネディクト・キャニオンの自宅で頭部に一発の銃弾を受けた”処刑スタイル”で射殺されたスーザンさんの遺体が発見されたのは、この直後の12月24日のことだった。近隣の住民がスーザンさんのかわいがっているペットの犬が外をうろついているのを見て不思議に思い通報していた。

警察の調べでは、殺害時のスーザン(55)は離婚をしてひとり暮らしで、自宅は借家だった。玄関などは荒らされておらず、殺害犯は強引に侵入したのではなく、友人や顔見知りの犯行と推察された。

スーザンさんはギャングの父親の遺産で裕福な暮らしをしていたが、2人の子どもがいる男性と87年に再婚する。子どもは我が子のように育てて幸せに暮らしていたが、実現化されなかったミュージカル演劇に投資してこれが失敗して破産し自宅も押収され、92年に離婚する。脚本などを書いても採用されず仕事にも困り、殺害時には家賃を一ヶ月払えない状態だったという。警察の調べではスーザンのコンピュータのハードディスクには知人からもらった数百ドルから数千ドルの小切手の金額一覧があったが、ボビー(ロバートの愛称)からは5万ドル(600万円)を受け取っていた。

ダーストにはもちろんスーザンさん殺害の容疑がかかったが、当時スーザンさんは「ギャングに関するテレビ番組を準備している」と話していたことから、何かの発覚を恐れたギャングによる犯行なのではないかとの説もあった。またスーザンさん殺害方法がギャングの犯行の典型的な”処刑スタイル”であったことも、ギャング犯行説を推すことになったが、友人はスーザン自身もまたギャングのように忠誠心の高い性格なので、他人を裏切ったりすることがないため、ギャングの仕業のはずがないと述べている。この件ではダーストの他、スーザンさんのビジネス・マネージャーの男性も事情聴取された。

結局、この時点でダーストは重要参考人として取り調べを受けているものの、スーザンさん殺害の件で起訴や逮捕には至っていない。警察ではスーザンが殺害されたのは前日の23日午前中とみている。さらに犯人は殺人報告ともいえる手書きのメモをビバリーヒルズ警察に送っていた。それなのに犯人逮捕には至らなかった。ニューヨーク州に続き、カリフォルニア州でもダーストを容疑者にすることはできなかった。

3人目の殺害疑惑

2001年10月9日、ダーストの家の隣人モーリス・ブラックのバラバラ死体が発見される。
モーリスを殺害したのはダーストで、この殺人事件でついにダーストは逮捕される。逮捕を察知、逃亡する。テキサスのボーリングハウス(安宿)に潜伏。女装し、聾唖(ろうあ)のふりをしていた。

ダーストは金に物を言わせ、腕利きの弁護士を高額で雇い、裁判で弁護士は徹底的にダーストを弁護。その弁護士の弁護により、陪審員はダーストの正当防衛を認め、ダーストは殺人では無罪となった。死体遺棄の罪は認められるが、9ヶ月で釈放される。

映画化、それが不満で監督に、自ら連絡を取る。ドキュメンタリーに。
ライアン・ゴズリング主演

2010年にこの一連の死を題材とした『幸せの行方』というサスペンス映画が制作されています。 映画では独自の推理を元にロバート・ダーストが殺したことが描かれており、ライアン・ゴズリングが静かに狂った男を演じています。 殺害されてしまう妻はキルステン・ダンストが演じました。

自分にも言い分がある、と ジャレッキ監督に連絡してきてことで、ドキュメンタリドラマ「THE JINX」(ザ ジンクス)作られます。番組の放送直前に逮捕されますが、この音声とが証拠になる可能性は、低いものと見られます。

2人目の被害者、スーザン・バーマンの遺族が見つけた手紙と、警察に殺害をほのめかす手紙が送られており、その筆跡が一致したことによる逮捕。

ダースト家

ダーストの家族の話は、ロバートの祖父ジョセフ・ダースト(Joseph Durst)から始まります。1892年にオーストリア・ハンガリーに住むユダヤ人家族に生まれました。1902年に彼のポケットにわずか3ドルで米国に移住した。

アメリカに到着すると、ジョセフは仕立て屋として仕事をしました。Durst&Robinに改名されたドレスメーカーのパートナーとなります。ビジネスは成功し利益をあげ、不動産投資をはじます。

1915年に、ジョセフは最初の建物を購入しました。建物はワンウェスト34thにあります。 1926年、5番街と43番地にあるユダヤ教会を購入し、それを破壊し、その場所に大きな商業ビルを建てました。もうドレスメーカーではありません。 1927年、正式に不動産会社 Durst Organizationを設立します。

1929年から1970年にかけて、Durst Organizationはマンハッタンの多くの有名な建物を購入しました。 50年代後半から60年代初めにかけて、同社は不動産管理から開発と建設に移行し始めました。

ジョセフは1974年に死去し、その時点で息子のシーモア(ロバートの父親)が引き継いだ。ニューヨークの不動産の価値は1970年代に崩壊しましたが、Durst Organizationにはほとんど支出がなく、多くの現金がありました。そこで彼らは小規模な買い物を続けて、底値価格で物件を買いました。市場が回復したとき、Durstsはニューヨークの不動産で最も強力な家族の一人として浮上しました。

シーモアには4人の子供がいます。長男ロバート・ダーストと弟ダグラス・ダーストです。母親は、1950年に32歳でニューヨークの家の屋根から飛び降りて自殺をします。ジンクス(番組)では、ロバートは母親の死を目撃したと主張している。弟ダグラスはこれは不可能だと言っています。

長男として、ロバートは家業を引き継ぐものと思われました。兄弟は1970年から90年代初めまでに20年以上にわたりこの事業に携わっていました。しかしスキャンダルの影響もあり、1994年にシーモア(父)は、後継者としてダグラスを任命しました。

ロバートは怒っていて、すぐに家族経営から離脱します。シーモア(父)が1995年に死亡した後、ロバートは家族経営のシェアを求めて訴訟を起こしました。この訴訟は20年以上にわたり行われました。2006年には、ロバートと家族が和解に達しました。50~60億円程度が譲渡されたと思わます。

一方、1994年から現在に至るまで、Durst Organizationは成長を続け、驚異的なペースで繁栄し続けました。 1999年、同社は48階建ての4タイムズスクエアビルを開発しました。 2005年、601 West 57th Streetに38階建てのHelena Buildingを開発しました。 2008年には、One Bryant公園に58階建てのBofAビルを開発しました。 2010年、Durst OrganizationはOne World Trade Centerの共同開発者になるために1億ドルを投資する権利を与えられました。

今日、ダグラスが率いるダースト家族は価値がある 44億ドル(5400億円)

ロバートはここ数十年間、自分自身の不動産投資に成功してます。彼はブルックリンのキャロル庭園とウィリアムズバーグの区域でプロパティを購入。伝えられるところによると、 1,200万ドルの利益あると思われます。2011年、Harlemに175万ドルのタウンハウスを購入し、ここ数年の間ほとんど住んでいました。


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