ベルリンで1,100万のユダヤ人絶滅政策について話し合う、高官15名による会議
1942年1月20日の正午、ベルリンのヴァン湖(ヴァンゼー)畔にある別荘に、親衛隊、ナチ党、いくつかの省庁の代表者が集められ、およそ90分にわたる会議が開かれた。主催したのは国家保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒ。その議題は「ユダヤ人問題の最終解決」だった。
マッティ・ゲショネック監督のドイツ映画『ヒトラーのための虐殺会議』では、このヴァンゼー会議が再現される。この会議の議事録は、1947年にドイツ外務省で発見され、それが現存する会議の唯一の記録になっている。本作は、その議事録に基づいて制作された。
ヴァンゼー会議
第二次世界大戦中の1942年1月20日にドイツの高官らが会同して、ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議した会議である。会議はベルリンの高級住宅地、ヴァン湖(ヴァンゼー)畔にある親衛隊の所有する邸宅で開催されたことからこの名で呼ばれる。
ドイツ政府は、広大な占領地域に分散し居住する多数のヨーロッパ系ユダヤ人(以下ユダヤ人)を絶滅させるために必要な、官僚組織の協調体制を確立できずにいた。官僚組織は異なる省庁に属し、それらはしばしば互いに競合していたからである。よってドイツ政府は「ホロコースト計画完遂の阻害要因は、各省庁がユダヤ人の抹殺を必ずしも優先事項として取り扱わなかったことにある」と考えた。
そこで、ユダヤ人の絶滅を優先事項とすることを再確認し、関係省庁の上層幹部に必要な権限を取り戻し、複雑に絡み合う官僚組織の多くが最終的解決を共同して実行できるようにするため、ヴァンゼー会議が開催された。
単館上映ですので、配信を待つのもいいかも知れません。映画館で見る必要性はなかった。たまたま時間があったので見ましたけど。
淡々と「ハーフとクウォーターどうする?」。会議の中では異議を唱える人もいるが、ユダヤ人擁護の視点ではない、殺害する側のドイツ兵のメンタルを配慮している。人間ではない感覚ですから、殺すことをは決定していて、それをどう効率良く行うか。
殺戮のシーンはがないけど、恐ろしい。
会議は議事録はあるものの結論をまとめたものなので、参加者の詳細な発言を記録していない。発言と議論の流れは想像でしかない。
会議に参加した高官の中で、ハイドリヒとアイヒマン、内務省次官ヴィルヘルム・シュトゥッカートと首相官房局長フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガーの4人が重要人物。
権力・権益の官僚的な会議だが、その目的はホロコーストである。
ハイドリヒは親衛隊の権限を要求する。アイヒマンが注目を浴びるのは、ガス室の計画を明らかにする場面。対立軸は、内務省次官シュトゥッカートは、「混血児」や「異人種間結婚」に関して、現行法をねじ曲げてユダヤ人の定義を拡大しようとする提案を拒絶する。もちろん人道的な配慮ではない。内務省の権限を侵害する提案を受け入れることはできない。首相官房局長クリツィンガーも親衛隊の権限強化に、抵抗を示す。
ハイドリヒ(親衛隊)とアイヒマン(ゲシュタポ秘密警察)
シュトゥッカート(内務省次官)とクリツィンガー(首相官房局長)
の対立構図だが、ハイドリヒが個別に脅しをかけて屈服させていく。
ハイドリヒとアイスマン
ハイドリヒは、ヒムラーに継ぐ実力者だったが、ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者。チェコで暗殺される。アイヒマンは、戦後アルゼンチンで捕まり、イスラエルで裁判にかけられて絞首刑になっている。この2人は、多くの映画の題材にされている。
フリードリッヒ ヴィルヘルム クリツィンガー首相官房局長
ハンス・ラマースの下で国家首相府の副長官を務めていました。ヴァンゼー会議でラマーズの代表を務めた。会議でホロコーストの計画に公然と反対したといわれる。
会見後、辞任を申し入れたが、辞任は認められなかった。 戦後も、ニュルンベルク戦争犯罪裁判で、彼はナチス政権の犯罪を恥じていることを公然と認めた数少ない高官の一人でした. クリッツィンガーは 1946 年に無罪となった。翌年に死亡した 。モサドの関与はわからない。
ヴィルヘルム・シュトゥッカート内務省次官
もともと突撃隊(SA)だった。この会議ではハイドリヒに対立しているが、親衛隊の親玉のヒムラーよりになる。戦後ニュルンベルク継続裁判の一つ大臣裁判にかけられた。
懲役3年10カ月の判決を受けたが、すでにそれ以上の期間拘留されていたので判決後に釈放された。1953年10月にハノーファーの近くで「交通事故」にあって死亡した。モサドによる暗殺だったといわれる。
突撃隊(SA)はプロレタリア出身者が占め、ナチスの軍事組織として第二革命を実行し、国防軍に取って代わろうとしていた。
親衛隊(SS)はまったく異なり、はじめからナチスの諸組織の中で、一種の貴族階級、人種的にも特別に選び抜かれた部隊と考えられていた。 その基準は、1800年までにさかのぼる血統証明が必要だった。
突撃隊はエルンスト・レームが仕切っていたが、ヒトラーと路線対立。「長いナイフの夜」事件でレームも突撃隊も粛正をされることに。
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