『ティファニーで朝食を』の原作者トルーマン・カポーティー。彼が代表作「冷血」を取材し書き上げるまでを中心に描いた伝記映画「カポーティー」では、作品が生まれるまでのドラマチックな顛末が描かれています。カポーティーと殺人犯ペリー・スミスとの間には、本当に愛が生まれていたのでしょうか?
時間をかけた調査を行ない、1966年に発表した『冷血』では、実際に起きた一家殺人事件を題材にすることにより、ノンフィクション・ノベルという新たなジャンルを切り開いた。
「現実の出来事に小説的な技法を用いて」一つの融合的な産物が新しく世に送り出されている。「潔癖なまでに事実そのもので」なお芸術作品でもあるのだった。これが『ニューヨーカー』に連載されると、たちまちのうちに、従来のカポーティ作品を上回って、広汎な読者層を惹きつけることになった。『冷血』の完成を記念して<プラザ・ホテル>で開かれた仮面舞踏会は、大きく宣伝されて、1960年代を象徴する出来事になったとも言える。しばらくの間、カポーティはテレビや雑誌に登場する常連となって、映画『名探偵登場』(1976年)では俳優としての出演さえも行った。
この作品以降、小説は執筆していない。できなくなってしまう。
1959年、カンザス州の小さな町で、一家4人が惨殺されるという事件が起こった。「ニューヨーク・タイムズ」紙でこの事件を知り興味を持ったカポーティは、幼馴染で『アラバマ物語』の女性作家ハーパー・リーと共に現場に向かう。これはカポーティが同性愛者であることが分からないようにするためのカムフラージュという。
事件をノンフィクション小説の題材にしようとした彼は、取材を進める中で、自分と同様に子供時代に家族に見捨てられた死刑囚と友情が芽生え始める。死刑執行により事件が完了し、小説を早く完成させたい自分と、死刑囚を「友」として助けたい自分の間でカポーティの気持ちが大きく揺れ動き、精神的に疲弊していく。この小説の後にカポーティが作品を書けなくなった心理的な経緯を赤裸々に描くストーリーとなっている。
トルーマン・カポーティーを取り扱った作品はも一つあります。こちらは上流社会から追放されるまでのドキュメンタリーです。「未完の絶筆」とされている問題作『叶えられた祈り』を焦点をあててます。
カポーティの栄枯盛衰を描くドキュメンタリー映画『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』が2018年公開されています。
1950年代から1960年代にかけて、アメリカで最も有名な小説家であり、スキャンダラスなカルト・ヒーローだった人物であることは間違いありません。
当時としては珍しくゲイ公表し、薬物に溺れ、ど派手な成金、極度の目立ちたがり屋、酒癖の悪く、平気で友人を裏切る裏表のある嫌な人間。しかし、巧みな話術により人をひきつける優れた能力を持っており、魅力を兼ね備えていた。ニューヨーク社交界の人気アイドルとして一世を風靡していた。
ところが、彼はそんな上流社会のアイドルとしての地位を失ってしまいました。
<社交界からの追放、転落。暴露本『叶えられた祈り』>
『ティファニーで朝食を』の作家であり、当時のソーシャライツたちと交流を深め、スキャンダルと隣り合わせていたトルーマン・カポーティ。彼はスワンと呼ばれる6人のミューズたちからさまざまなインスピレーションを得ていた。“スワン”とはトルーマン・カポーティが名づけた良家の子女たちのことです。ある作品を手掛け、世に送り出したたことをきっかけに、カポーティの人生は転落へと突き落とされることになった。
リー・ラジウィル、スリム・キース、ベイブ・パリー、グロリア・ギネス、C.Z.ゲスト、アニェッリ。彼女たちは皆、突出したソーシャライツであり、権力と影響力を兼ね備えた特権階級の人物を夫に持っていた。
約20年間、カポーティは彼女らと親密な友情を結んでいた。ともに過ごし、お互いにさまざまなゴシップを共有する仲間であり、地中海のクルージングをしたり、プライベートジェットでカリブ海へ行ったりしていた。1975年に未完の暴露本『叶えられた祈り』からの抜粋をエスクァイア誌に掲載し、彼女たちの秘密を暴くまでは。
エスクァイア誌に掲載された、カポーティによる『ラ・コート・バスク1965』がもたらした余波は大きいものだった。6人のスワンのうち、彼に最も近かったパリーとキースは特に苦しみも大きかった。文章のなかでふたりを“軽い、頭が空っぽの女たち”と称し、私生活もあらわにされ、残酷にもそのおかげで不滅の存在となった。
近い存在になりすぎたことがカポーティの配慮を鈍らせたのだろう。スワンたちとの関係がまだ始まったばかりの1959年に『ハーパーズ バザー』に投稿した記事では、彼女たちに対する態度は畏敬の念にあふれていた。カポーティはこう書いている。
「非常に美しい存在に出会うと、恐れに似た感情が現れる。それは氷柱で刺されたのと同じ、ぞくっとするような恐怖感と感動の共存であり、白鳥が目の前に現れると、一瞬心臓を突き刺されたのではないかと錯覚するほどだ」と。
しかし優雅なスワンたちが持つ権力と影響力のことを迂闊にも忘れ、たったひとつのストーリーで全員を裏切った。これこそがフィクションの本質だ。20世紀の偉大な作家は、致命的な毒を持った自身のペンによって終焉を迎えた。
見どころのひとつは、「黒と白のパーティ」です。カポーティがホストとなり、ニューヨークのプラザホテルで1966年11月28日に開催された一大仮装舞踏会で、20世紀アメリカ社会史を彩る最大のイベントとして位置づけられています。映画に登場する「スワン」と呼ばれた美女たちは、当時の社交界に君臨したファッションアイコンです。権力と影響力のある夫をもち、比類ない美貌とファッションセンス、ウィットをちりばめた知的な会話で社交界を優雅に泳ぐ彼女たちは、カポーティはじめ当時の人々を魅了し、20世紀後半のアメリカ文化の象徴として今も輝きを失っていません。
映画にも登場する当時の社交界の著名人や、カポーティと深い親交のあったスワンの1人。
リー・ラジヴィル
ジャクリーン・ケネディの妹。キャロライン・リー・ラジウィル・ロス(1933年3月3日 – 2019年2月15日)、ソーシャライト。”fashion icon”(ファッションリーダーのこと)としても知名度がある。出版王の息子マイケル・キャンフィールド、ポーランドの大貴族ラジヴィウ家の末裔であるスタニスラフ・ラジヴィル、そして映画監督ハーバート・ロスとの三回の結婚生活や、アンディ・ウォーホル、トルーマン・カポーティの取り巻きとしても知られた。
やり手実業家とゴールインした人、自らコネを築き上げた人、芸能人を親に持つ人。現在の米国では、一口にソーシャライトと呼ばれていても、実態はさまざま。でも、もともとの意味は、由緒正しきお家柄に生まれた社交界の名士やその家族のこと。特に、貴族階級のあるヨーロッパでは、名門出身を指す傾向が強い。
アメリカ東海岸のサウサンプトン生まれ。ジャクリーン・ケネディ・オナシスの3歳下の実妹で二人姉妹。裕福な家の出で株の仲買人であり遊び人としても知られたジョン・ブーヴィエ3世と不動産業を営む資産家の娘ジャネットの次女として生まれた。
父方の先祖は南仏の家具職人で、1815年にアメリカに移民した。副業の薪販売のために購入した地所から石炭がとれることがわかり、これで築いた財を元手に不動産投資にも成功して富豪となった一族である。父親の女遊びと飲酒癖を理由に1936年に両親は別居、1940年に離婚し、姉とともに母親に引き取られる。母親は1942年にスタンダード石油の重役一族で株仲買人のヒュー・ダドリー・オーチンクロスJrと再婚した。
ミス・ポーターズ・スクールからサラ・ローレンス大学に進んだが、2年時にイタリアに渡り絵を学び、1950年にハーパーズ バザー誌の名物編集者ダイアナ・ヴリーランドの助手となる。姉ジャクリーンと共にパリに遊学し、1951年に二人で帰国した。
1953年秋、マイケル・キャンフィールドと結婚し、同年の9月に結婚した姉より先に結婚。マイケルは老舗出版社ハーパース(現・ハーパーコリンズ)の重役キャス・キャンフィールドの養子で、チェース・ナショナル・バンク(チェース・マンハッタン銀行の前身)頭取で1953年に駐英アメリカ大使となったウィンスロップ・アルドリッチの私設秘書としてロンドンで暮らした(離婚後ハーバースのロンドン支社代表となる)。
マイケルの実母はアメリカ社交界の花形で後に重度の麻薬中毒で投身自殺したキキ・プレストン、生物学的な父親はケント公ジョージとされ、キャンフィールドは英国女王エリザベス2世の従兄弟ということとなる。その後、マイケルとは1959年に離婚したが、ローマ・カトリック教会から「”annulment” (婚姻無効)」が宣告されたのは1962年11月のことだった。
1959年3月19日、20歳上のポーランド貴族で英国不動産界で財を成したスタニスラス・ラジウィルと”略式結婚”した。スタニスラスは二度目の妻グレース・マリア・コリン(Grace Maria Kolin)と1958年に離婚したが、リー自身もキャンフィールドと依然夫婦であった1957年からスタニスラス・ラジウィルと交際していた。なお、リーとスタニスラス双方とも敬虔なカトリック信者だったが、キャンフィールドとは1962年と、その後すぐに婚姻無効が宣告されたのは、義兄ジョン・F・ケネディのおかげだったとのこと。また、不倫関係にあったアリストテレス・オナシスと結婚するつもりでいたが、程なくして姉ジャクリーンに奪われる形となった。その後、スタニスラスとも1974年に離婚が成立した。スタニスラスとの間に2児をもうけた。
スタニスラフと婚姻中の1962年3月、アメリカのファーストレディーとなった姉ジャクリーン・ケネディとイギリス、インド・パキスタン訪問に同行する。1960年代には、カポーティはじめルドルフ・ヌレーエフ、マーゴ・フォンテイン、セシル・ビートンら社交界のセレブたちと親交し、彼らの勧めもあって女優としてのキャリアを求め、王立演劇学校などの教師から演技を習い、カポーティの紹介で1967年にシカゴで舞台版「フィラデルフィア物語」に出演するが、低い評価しか得られなかった。
その後、カポーティ脚本のテレビドラマ版『ローラ殺人事件』にも出演したが成功したとは言えず、それ以降は芸能活動から遠ざかった。カポーティとの蜜月も終わりとなり、舌禍によりカポーティがゴア・ヴィダルから名誉棄損で訴えられた際にも証言を拒否している。ゴアはジャクリーヌ・キャロライン姉妹の継父オーチンクロスと前妻との子で、その縁でケネディ政権の芸術顧問を務めていた。
スタニスラス・ラジウィルと暮らしたロンドンウェストミンスターにあるバッキンガム宮殿から4番地ほど南側の邸宅(タウンハウス)とターヴィルの「manor Turville Grange, Oxfordshire」の邸宅(マナーハウス)は、建築家・ロレンツォ・モンジャルディーノの装飾によるものであった。メディアに取り上げられてから、大衆の憧憬の的となったが、彼女自身も1976年にインテリアデザインの会社を興し、短い期間であったがインテリア・デコレーターとして働いていた時にモンジャルディーノに多くの影響を受けていた。彼女の顧客は富裕層ばかりだが、彼女は一度、”一年に三日と家に居たことことがない人達のために”家を装飾したと述べた。
1988年9月23日、彼女の三度目の夫ハーバート・ロス(ロスにとっては二度目の妻となるが)とは、2001年に離婚ののちロスはすぐに亡くなった。また、ロスとの結婚後、ジョルジオ・アルマーニと意気投合。彼女の社交界の人脈で1986年から1994年まで「GIORGIO ARMANI」のPRに動いた。ロスと離婚後、子供たちの父親である二番目の夫の姓ラジヴィルを再び名乗る。
2009年、雑誌「Elle Décor エル デコ 」2009年秋号において、居住するパリ16区とニューヨーク5番街の2つのアパルトマンが特集された。2013年3月、ガーディアン紙で「五十代以上のベストドレッサー50人」の一人に選ばれた。2013年6月、ソフィア・コッポラの映画「The Bling Ring ブリングリング」やロスとの私生活のことについて、コッポラからインタビューされた。
2019年2月、ニューヨークの自宅で85歳で死亡した。
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