神奈川県横浜市の鶴見区から川崎市川崎区のあたりは、4万人規模で沖縄からの移民を受け入れた地域です。
川崎区でいうと中島町に、多くの人が居住されているエリアとして知られていました。このあたりを散歩をしていると一戸建ての門あたりに、シーサーが飾られている家がけっこうあります。偶然かもしれませんが、佐川急便などの配達物流センターには、沖縄系の人たちがたくさん働いていたような記憶があります。
残念ながら、鶴見のように沖縄カルチャーが残る場所はありません。沖縄料理店がいくつかの営業していて、神奈川県沖縄協会の集会所がある程度です。川崎区の沖縄系の移住者は1万人程度と言われています。
川崎競馬場はもともと富士紡績工場がありました。全国有数の紡績工場で、沖縄から出稼ぎに来た女性工員が1日12時間とも言われる激務に耐え抜いたとされています。1920年ごろには、1000人もの沖縄出身の女性が働いていました。
日本の近代工業化を牽引した紡績業は、その労働者として多くの女性労働者を女工として遠隔地から雇い入れていました。富士瓦斯紡績川崎工場は1915年(大正4年)に操業を開始以後、昭和初期まで多い時で6000人前後が働いていたという。そのうち沖縄からの女性労働者が1000人です。
当時、沖縄では大正期に砂糖価格の暴落が生活に打撃を与え、有毒のソテツを食べるという「ソテツ地獄」とよばれる深刻な食料不足状態に陥っていた時代背景もある。その多くは現在の小学生、中学生の年齢の少女が、当時の全国の他の紡績工場と同じく、劣悪な環境下で働かされ社会問題化し、多くの労働争議の中で、1930年の「煙突男事件」は日本よりも海外で大きく報道された。
「煙突男」は、1930年に神奈川県川崎区域の紡績工場の労働争議の際に、争議の支援活動として工場の煙突に登り、そのまま6日間にわたって居座る事件を起こした人物(田辺潔 1903 – 1933)につけられたあだ名。
沖縄はたびたび飢饉に襲われた地域です。地理的な不利に加え、当時沖縄にあった技術では、農作物を安定して生産することはむずかしかった。そのため、飢えのあまり毒性のソテツさえ食べて飢えをしのごうとする「ソテツ地獄」が何度も起きた。飢饉は戦後も続き、1966年にも多くの台風のため同じ事態に陥った。
関東大震災
沖縄県出身者は大正初期から紡績工場などへの出稼ぎのため川崎にわたり、親類縁者を呼び寄せた。1923年の関東大震災で多くの県人が被災した。特に富士瓦斯紡績川崎工場では沖縄からの出稼ぎ労働者から72人の死傷者を出したという。被災県人を支援しようと震災翌年結成されたのが川崎沖縄県人会だった。初代会長は那覇市出身の玉那覇有盛氏。会員は千人ほどで、多くは富士瓦斯紡績の女工たちだったという。沖縄戦の後は、混乱の中で沖縄に戻れない県人や復員兵らの受け皿となり、琉球芸能を催して慰めとした。
「川崎の沖縄県人70年の歩み」で、照屋元義氏(川崎沖縄県人会理事-当時-)は「県人の皆さんが集まり、踊りを練習して、お互い沖縄を忍びながら過ごした」と記している。記録では「富士瓦斯紡績」では154名が関東大震災で亡くなり、そのうち沖縄出身者が48名とある。
-米須カメさん手記より- 引用「川崎の沖縄県人70年の歩み」
沖縄出身者と内地の人間の交流はあまりなかった。沖縄料理屋などもよくあったが、そこに内地の人はあまり行かず、もっぱら沖縄人専門のお店のようになっていた。といいます。
確かに私の住む川崎大師周辺も子供の頃は、出身地域別の飲み屋があり、その店には見えない縄張りが存在したような気がします。方言が飛び交ってましたね。東北出身の店が多かったかな。愛知や広島出身の人たちが集う店もありました。私の家系は栃木なので、北関東の人たち集う場所はなかったかな。祖父は与太郎さんで飲み歩いていましたが、連れて行ってもらった記憶です。
差別はあったでしょうね。川崎区はそういった人々の集まりです、その中での階級社会は掟は暴力的で、陰湿だったと思います。在日コリアンの差別とは違うものでしょうけど。
結婚するにも障害があり、内地の男性と沖縄の女性が結婚する分にはまだよかったが、沖縄の男性と内地の女性が結婚する場合は、なかなかスムーズに行かなかった。
- 沖縄人に対する差別は目に見えて存在し、「沖縄人お断り」の貼り紙を出す店まであったといいます。1960年代まで、沖縄出身者は就職も進学も、家を借りるにも、差別や言葉の問題などでむずかしかったといいます。
川崎で沖縄を感じれる場所は、アゼリアという地下街にアンテナショップがあります。また毎年ゴールデンウィークには映画館・チネチッタ周辺が沖縄フェア「はいさいフェスタ」というイベントが行われています。
川崎区には、空手道場がたくさんあります。指導者は琉球空手の流れを組んでいることが多いといいます。私も小学校の頃、課外授業として習った覚えがあります。護身術的なものでしたが、同級生も通っていた子どもは多いです。
祖父母の墓があるため、定期的にいきますが賑わっていた商店街は寂れてしまいました。どこの商店街も同じですが、もはや商店街の体をなしていません。 小さなスーパーには「キャンベルスープ」がたくさん販売されていたのが印象的です。アメリカ統治時代に沖縄のソウルフードになったようです。戦後、きた人たちが、購入するようですね。
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