アタリショック ゲーム市場の崩壊

社会考察

アメリカのテレビゲーム業界には「アタリショック」という事件がありました。1982年にピークを迎えた市場規模が、2年後に1/30にまで縮小してしまった事件です。

1977年にAtari 2600(VCS)を発売。『スペースインベーダー』などの人気アーケードゲームのコンシューマ移植をキラータイトルとし、1980年頃にはアメリカにおいて爆発的な人気を博します。さらに、1979年にアタリからアクティビジョンが独立してゲーム史上初のサードパーティーとなって以後、続々と誕生するサードパーティーのソフトを積極的に受け入れるビジネスモデルを確立。

アタリ社のAtari 2600(VCS)は1981年に、600万台を突破します。テレビゲーム市場の80%を独占します。1982年末には1000万台に達していました。アメリカ全体の販売台数は1500万台です。

ライバルの1つであるコレコの「ColecoVision」でさえ、1982年末でようやく50万台ですから、圧倒的独占です。

シェア的にも、1982年末時点でアタリが67%と圧倒的。1982年ベストセラーソフトは1位から4位までAtariが独占してます。それ以下は今度はインテレビジョンのマテル社が独占していますが、販売本数で6倍以上つけられていますから、拮抗しているとは言い難いでしょう。

ある程度まで伸びたColecoですが、ColecoVisionに装着できるAtali 2600互換アダプターを皮切りに、アタリ用ソフトの発売も行い、アタリ2600互換機としての比重も大きくしていきます。おかげでアタリソフトの価格暴落の影響も大きく受けてしまい、「アタリが駄目なら、コレコを買えばいいじゃない」とはなりませんでした。

アメリカでは年末商戦を「ホリデーシーズン」と呼び、期間も10~12月と非常に長い特徴があります。玩具界にとっては、この時期に収益の8割近くが集中するというかき入れ時でもあります。

そんな1982年のホリデーシーズン。前年から圧倒的な成長率を誇ったAtari2600のソフト価格が、突如暴落を始めます。新品ソフトがいきなり5割以上の価格で店頭にならんでしまう。

そして海賊版の氾濫です。ブラジルを中心とした南米や、ドイツを中心とした欧州で、本家を凌ぐ猛威を振るうことになります。海賊版のなかには、非常にできの良いものがありました。

最悪なことにアタリ社は理由の分析ができず、ホリデーシーズンの値引き合戦と勘違いして追随。値下げ宣言を行って、暴落に拍車をかけてしまいました。当初ユーザーはこの状況を歓迎していました。暴落で最新のソフトが安く手に入るからです。おかげで1982年のビデオゲーム市場は過去最高の20億ドルを突破しました。

当然こんな状況が長続きするはずありません。一番のかき入れ時であるはずのホリデーシーズンに、ソフトメーカーは続々と赤字に転落しました。

アタリの親会社ワーナーは1982年第4四半期の損失として1890万ドルを計上。前期まで黒字が続いていたのに、四半期だけで日本円換算で20億円という巨大な赤字を計上、さらに1983年第1四半期には、4560万ドルにまで損失が膨らみました。ワーナーの株価は暴落。市場価格の1/3にまで下がってしまいます。

1983年、ユーザーへの影響が広がり始めます。そもそも面白い類似ソフトなんて、ほんの一握りです。劣化ソフトや類似ソフトで水増しされていても、ユーザーの期待を裏切ることには変わらないわけです。新しいソフトを作ろうにも、ソフトメーカーは既に利益を確保できずに、倒産していきます。さらには試作ソフトまで出回り、無法状態となりました。

アメリカでは「アタリショック」と言わずに「ビデオゲームクラッシュ1983」と呼びます。日本より進んでいたアメリカ市場では、アタリ社を中心とするテレビゲーム市場と、コモドール社やテキサスインスツルメント社を中心とする「ホームコンピュータ」市場というのが有りました。この2つがそれぞれ共存する形で成り立っていた。

「ホームコンピュータ」とは業務用パソコンに対しての「娯楽用パソコン」という位置づけで、専用モニタでなくテレビにつないで使用します。またゲーム以外のことも出来る割に価格が安く、アメリカではテレビゲーム市場と共に大きなシェアになりました。日本ではMSXと言うジャンル機になります。

しかし1982年12月、アタリの値下宣言に巻き込まれる形で、当時のホームコンピュータメーカーであるコモドール社やT.I.社も、赤字を省みない激烈な値下げ合戦に参加。T.I.社は巨大な赤字を抱え、経営危機に直面します。1983年には撤退してしまいます。

アタリの第2四半期決算、損益3億1050万ドル。第3四半期、損益1億8000万ドル。1983年ホリデーシーズンも立て直すことはできず、Atari2600自体が50ドルで投売りされることになり、結局1983年だけで5億3860万ドルの損益を出すことになりました。1984年10月18日、アタリ、テレビゲーム市場から事実上の撤退をします。

1976年に家庭用ゲーム機が発売され、売上高は1982年に30億ドルまで短期間に上昇します。そして1985年までに1億ドルへと転落したのです。原因は複合的ですが、アタリが互換機を許し、廉価版のAtari VCSの失敗、違法ソフトの反乱、などいくつかの要因がありますが、一番は、クオリティの低いソフトの量産と言われています。

アタリショックによって倒産したゲームメーカーの開発者がホビーパソコン用ゲーム市場に参入Sます。北米で任天堂ブームとなる1988年ごろまで、北米ホビーパソコン用ゲーム市場は隆盛を迎える事になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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