コカ・コーラとペプシ 100年以上競争を続けているライバルですが、ここ最近ではペプシが大きく引き離し、その差は6.5兆円まで広がっています。
単体商品としては、コカ・コーラのほうが人気で、すべての炭酸飲料の販売量シェアは44.9%、2位のペプシは25.9%ですから、大きな差があります(2020年米国市場)。世界の市場でも順位は変わりなく、日本においてはペプシの存在感は薄い。
ペプシは炭酸飲料以外とスナック菓子などで売上が増しており、企業全体としてはコカ・コーラを引き離している現状です。
コカ・コーラにはかつて、カリスマ的経営者が存在し、攻撃的に企業の舵取りをしていました。
ロベルト・ゴイズエタ
1981年から1997年までCEOとして驚異的な成長をもたらします。ロベルト・ゴイズエタがトップに就任する前は、低迷期といわれ成長は穏やかに推移していました。
ライバルのペプシは、ジョン・スカリーが「コーラ戦争」と呼ばれるマーケティングを仕掛けてきた時です。CMにマイケル・ジャクソンを採用したり、ペプシチャレンジと言われた、ブランド名を隠して複数のコーラを飲ませて、ペプシのコーラがおいしいと伝えるコマーシャルなどの手法です。
1983年、ジョン・スカリーはアップルのスティーブ・ジョブズに口説かれ「このまま一生砂糖水を売り続けたいのか、それとも私と一緒に世界を変えたいのか?」有名な言葉とともに引き抜かれます。のちにアップルは大変なことになりますが。
その後、ペプシはロジャー・エンリコがCEOに就任します。ロベルト・ゴイズエタとは、ビジネス上のライバル関係として知られています。
ロベルト・ゴイズエタは、キューバで生まれ、裕福な家庭で育ちます。米国のイエール大学を卒業し、家業を継ぐつもりで帰国をしますが、コカ・コーラに入社します。家業は不動産投資家で、父親は建築家でもありました。その後、すぐに、キューバにある5つの工場の最高技術責任者になります。
カストロのキューバ革命がおき、権力を掌握すると共産主義主義国家となります。マイアミで家族と休暇中、亡命を決意、そのまま米国のコカ・コーラで働くことに。
カリブ海地域を任され、 1964年、ジョージア州アトランタにあるコカ・コーラ社の本社に異動しました。 この時、35歳、技術研究開発担当副社長に就任。この役職に就く最年少記録。1975 年、法務渉外部門の責任者に昇進しました。
コロンビア・ピクチャーズを買収
1982年、異業種の映画会社を買収します。多角化経営に舵を切ったといわれましたが、潜在的なすり込みマーケティングという目的は果たします、が、この買収は評価が分かれます。
買収額は6億9200万㌦、その後、1989年にはソニーに48億㌦で売却。7年間の所有で、バブル期の日本企業に売却することができたといえます。「ゴーストバスターズ」「スタンドバイミー」などの名作も。
コカ・コーラ資本の時代に、トライスラー・ピクチャーズを設立。これは製作費を浮かせるためにテレビ局のCBSとワーナー系のHBOと一緒につくったもの。しかし、作品は失敗しHBOは撤退しいる。現在もソニー傘下の子会社として残っている。
世界でよく知られるブランドになったことことは間違いありません。
ダイエットコーラ
1982年、ダイエットコーラを発表します。人工甘味料を使用し、低カロリーな飲料として、健康志向の女性を中心に爆発的に売れます。現在でも米国では3位の消費シェアを誇る炭酸飲料です。ドナルド・トランプ前大統領も1日に12缶も飲んでいると。
ニューコーク(カンザス計画)
1970年代からはじまった「ペプシチャレンジ」に危機感を覚えたロベルト・ゴイズエタは、味の改革を決断をします。
ペプシチャレンジは、目隠ししてペプシとコカ・コーラを飲み比べてもらい美味しいと思うほうを指をさすCM。テキサス州を皮切りに、全米をまわった。
CMでは多くの人がペプシを選択、コカ・コーラ社内でも実験をしたところ、社員もペプシを選んだことから、改革を決断したといわれます。
「昔の味を返せ!」抗議が殺到
1985年4月23日、COKEの書体も一新し、アメリカとカナダにて「ニュー・コーク」という名で大々的なキャンペーンと共に登場した。
販売直後は、前年同期比で8%の向上をみせたが、しだいに批判が多くなります。
コカ・コーラが最初に発売された南部を中心とした消費者から「昔の味を返せ」と抗議が殺到する事となった。ニューヨークに本社があり、都市部の顧客から指示されるペプシを意識したことは否めない。
南部の保守層から批判があがり、南北戦争まで持ち出し「伝統の破壊」と反発。さらにはキューバ出身のロベルト・ゴイズエタに「共産主義の陰謀」とまでいわれる始末。キューバの独裁者カストロは、コカ・コーラの愛飲者、一連の騒動を「資本主義の敗退」とコメントしている。
ペプシも挑発します。ロジャー・エンリコCEOは、ニューコークの発表に合わせ、全社員の休日を宣言、NYタイムズに「コーラ戦争」の勝利という全面広告を出します。
ニューコークの切り替えに伴い、ペプシが14%増(前月比)の高い伸び率を見せますが、売り上げ全体では上回ることはできなかった。
クラシックコーラの復活、ニューコークと併売体制
南部の州から激しい抗議活動があり売上げは落ち込みます。他州では好調です、が、夏にかけて清涼炭酸飲料は全体の売上げが向上するのに、横ばい傾向を示します。
わずか3ヶ月後の1985年7月11日、元の味のコカ・コーラが「コカ・コーラ・クラシック」として再発売される結果となった。
結局、1985年末時点でコカ・コーラ・クラシックはニュー・コーク、ペプシの双方を上回り、発売から6ヶ月でコカ・コーラ・クラシックの売上げはペプシの2倍以上のペースで増加し続けた。
一方、ニュー・コークはコーラ市場のシェア全体では3%まで低下してしまった。 このような結果から、ニュー・コークの登場は旧コカ・コーラの強引な販売促進策だったのでは?という憶測さえ生まれたが、コカ・コーラ社はそれを否定している。
ダイエットコーラで成功、ニューコークで失敗、コロンビア映画は?結果よし。
失敗を恐れず、挑戦的で躊躇しないことは、保守的な企業風土を変化をもたらします。伝統的に無借金経営を貫いていましたが、資金調達をして、大規模な国際戦略を打ち出す。
フィリピンのボトラー企業の株式を取得、フィリピンの市場は世界で12番目といわれ、東南アジアに拠点なりうる地域でした。
1980年代、ペプシのほうが強く、シェアを切り崩しにかかり、逆転します。その後、ペプシの暴動に至るキャンペーンの失敗もありましたが、コカ・コーラの優位性を維持している。
ヨーロッパでは、ベルリンの壁が崩壊すると同時に東欧に進出。当時はアメリカの資本主義の象徴として、政治的に扱われましたが、その後、ヨーロッパ全体のシェアで、ペプシを上回り逆転します。長期戦略で功を奏した例として扱われています。
肺癌による合併症で1997年10月18日に亡くなります、65歳でした。ヘビースモーカーだったということです。
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