バブル期のディスコブーム

社会考察

今のCLUBには、デート向きの洒落た食事も、虚栄心をくすぐるVIPルームもない。DJの個性的な選曲を楽しみながら天井の低い小さなフロアで体を揺らしている。目のやり場に困るようなファッションの女性客が『お立ち台』に並び、それ目あての男性客が押しかけていた、当時のディスコには居心地の良さはなかった。

80年代~85年ほどまではサーファーを中心にしたディスコブームがあり、女子大生の夜遊びとして大人気だった。ディスコはスポーツ系のブランドの服を着た若者でごった返していました。 敷居が低かったのが新宿、東亜会館には各フロアディスコになっていた。「GB RABBITS」「NAPA J」「New York New York」「XENON」 などありました。年齢制限に甘く、高校生などが溢れていました。

80年代後半から高嶺の花になっていたのが六本木です。年齢制限も厳しく、服装規定(ドレスコード)「六本木スクエアビル」は地下2階から10階までのすべてのフロアがディスコとして営業してました。

その代表格が「マハラジャ」。高級ディスコチェーンとしてNOVA21グループが展開したお店です。バブル期を象徴するお店でこちらの目玉はお立ち台で扇子を振るボディコンのお姉さんたち。第一号店は大阪のミナミで麻生十番にオープンした「マハラジャ東京」は、社会的な現象になるほどのサブカルチャーに。

マハラジャは九州、沖縄、札幌を始めハワイ店をオープンするなど80年代のディスコシーンには欠かせない存在でした。お立ち台の歴史は六本木のギゼが始まりという説もありますが、マハラジャがお立ち台ととして世間に広まった理由といわれています。そしてマハラジャを命名したのはデヴィ夫人と言われています。

マハラジャとならび高級ディスコブームを担ってきたトゥーリアやエリア、ゴールド、ジュリアナ東京などもありました。毎晩行列ができていた街角には、今はスポーツ用品店やパチンコ店などが入っている。地方のディスコも次々にカラオケやレストランに転業しなくなってしまいました。

バブル崩壊後も『お立ち台』『羽根扇子』といった風俗を狂い咲きさせた巨大ディスコも『クラブ』におされ、よりパーソナルな遊びメディアを求める時代の流れに抵抗できない。流行に左右されやすい業界がゆえのさだめで、消え行く運命です。

クラブの起源については、倉庫を改造して営業等、いくつかの説がある。日本では80年代終盤に風営法の隙間をついて誕生する。そのため当初は、規模は小さく、目立たない存在だった。

・外部オーガナイザー(イベント主催者)、フリーDJをブッキング・レコードはDJによる持ち込み
・店舗、曜日毎にジャンルが変わる場合が多い
・入場の際の服装チェックは、基本的に無し
・入場料は500円(ドリンク代のみ)~3000円で、比較的安価・座席は自由で、空いていれば何処にでも座れる
・風営法上の分類は「第五号・喫茶店、バー(甲)」。
定義は「客に酒類を提供する場所」。営業時間の法的規制が無い代わりに、ダンスを主目的としない店舗設計が必要。

クラブとディスコ、どこが違うのか?

ディスコは法的に「踊る場所」として認可を受けているので、“ダンス”に特化した店作りが可能。店舗が所有するレコードが掛かるため、いつ遊びに行ってもある程度同じ曲が掛かる。もちろん店側は、多くのお客さんが楽しめるレコードを揃えようと努めるので、毎日ヒット曲のオンパレード状態になり得る。店がお客さんにサービスを提供するという方向性が確立されているため、お客さん同士の横の繋がりは希薄。

ディスコは全体の設計として、初心者でも安心して遊びに行ける店作りになっていると言っていい。初心者にとって「身なりがキッチリとした客層で、いつ行っても知っている曲が掛かっている」事は、上級者が考える以上に大切な事。対するクラブは、フリーのDJがプレイしているので、選曲に縛りが無い。

ディスコのようにオールジャンルにするも良し、曜日によってよりマニアックな選曲にするも良しで、音楽的な可能性は一気に広がる。地元以外のDJや、海外の人気DJがブッキングされる事もあれば、努力次第でお客さんからDJにのし上がっていく事も可能。DJをブッキングせずにライブ・イベントとして企画するのも。

更に極端に言えば、音楽を主役とせず、映画や絵画をメインにしたイベントを企画する事も出来る。音楽を中心にした文化全体の発信地としての性質も強く、見知らぬお客さん同士で意気投合する事もしばしば。つまり、とにかく自由な場所。ただ、日毎に営業内容がかなり違うため、事前にスケジュールをチェックしないような初心者にとっては“入り難い”イメージがあるのも事実。夜遊びをしない人からは、何かと一緒くたにされがちなディスコとクラブ。かなり違いがある。“お客さんに踊ってもらう”事を最優先事項においたディスコ、“フリーDJとお客さんに、表現活動の場を提供する”事を主軸にしたクラブ。その違いこそが、各々の存在価値といってもいい。

1985年2月以降 – 風営法改正とクラブの誕生ディスコからクラブへの変遷。

その発端を探すと’85年の風営法改正に行き当たる。’85年2月の法改正実施により、ダンスを主目的とした店舗、つまりディスコの営業時間が午前零時までに規制された。それまでのディスコも決して朝まで営業していたわけではなかったと思うのだけれど、「午前零時、はい閉店です。」という状況は、当時の夜遊び人間にとってかなり辛いものだった。

時を同じくして、アメリカからはBeastie Boys、Run DMC等のヒップホップ、そしてシカゴで生まれたハウス・ミュージックが登場。イギリスではSex Pistolsの仕掛人、Malcolm McLarenがヒップホップ的手法を大胆に導入した「Duck Rock」をリリース。ソウルやユーロビートに代表されるそれまでの“ディスコ・ミュージック”の範疇では語れない新種のダンス・ミュージックを鳴らす場所が必要とされていた。

これら法的な背景と音楽的な背景の2つが重なり、クラブが誕生した。風営法上の分類を「第五号・喫茶店、バー(甲)」としておけば、営業時間の規制を受けない。ただし建前上、あくまで「ダンスを主目的にしない」店作りが必要となる。風営法上のディスコが、名称として「クラブ」を唱っていたケースも含まれるため、厳密に原点を特定するのは難しいが、この時期開店したLife、Paranoia、Paradise、Dynamite、Qoo、Antenna、Metro辺りが、関西のクラブ第一世代と言っていいと思う。

1990年代 – クラブ拡大期、そしてディスコ衰退

’80年代終盤~90年代初頭に生まれたクラブは、夜遊び人間、音楽リスナーに大歓迎されると同時に、テレビを始めとするマスメディアでも大きな話題になった。今では考えられない事だけど、深夜番組で「クラブから生中継」なんて企画も何度かあった。初期のクラブに携わる人、集まる人の根底にあったのは“アンチ・ディスコ”の姿勢だったと思う。風営法改正直前のディスコは、産業としての巨大さ故、サービスが画一化されすぎていた。

服装チェックやお決まりのユーロビートに対する不満を、クラブという自由な場が全て解決してくれた。「私はボディコンのお姉サンとは違う。もっとオシャレでカッコイイ所にいる」というディスコに対するある種の敵対心が、この時期の盛り上がりを支えていたと言ってもいい。

’90年代中盤になると、先陣のノウハウを吸収した、より完成度の高いクラブが生まれる。大阪ではDawn、Karma、Grand Cafe、、、京都ではMushroom。海外や東京からDJを招聘すると同時に、日本国内にもそれらに匹敵する人気DJが誕生した。浜崎あゆみ、Misiaを筆頭にJポップ系のアーティストがダンス・リミックス入りのマキシ・シングルを挙ってリリースしていたのもこの時期。クラブの影響が大衆文化にまで及んでいた証拠でもある。

ディスコの方は、新風営法の縛りから午前零時の営業が出来ない状態。また、バブル経済が崩壊した事もあり、’90年頃から人気が衰退。ディスコの代表格だったマハラジャが、昼~夕方にしゃぶしゃぶを販売していたのも有名な話。ダンスのみでは営業が困難になり、’98年に全店舗が閉店した。

ジュリアナ東京JULIANA’S TOKYO

(営業期間:1991年5月15日 – 1994年8月31日)東京都港区芝浦1丁目13-10に存在したディスコである。1991年5月15日に総合商社・日商岩井(当時)とイギリスのレジャー企業・ウェンブリーの共同出資により経営されていた大型ディスコ。正式名称は「JULIANA’S TOKYO British discotheque in 芝浦」。総面積は1200m²、最大で3,000人以上を収容できる規模だった。

ワンレン・ボディコンの女性が集まり人気となったが、1994年8月31日に知名度・話題性・集客で伝説を残し閉店した。ダンスホールの両脇に設置された通称「お立ち台」と呼ばれる高さ130cmのステージが有名。後に撤去され、「クリスタルサイドステージ」と名前を変え、高さも面積も縮小して再登場した。またダンスフロアを挟んでDJブースの向かい側の通称雛壇(ステージ)も存在した。当時は珍しかったボディソニックの音響設備やレーザー・スモーク・モニター等を取り入れ、ダンスフロアに巨大なシャンデリアを設置し、大きな空間を最大限に活用した最先端のディスコであった。

所在地だった港区芝浦~海岸地区は、バブル期にはウォーターフロントと呼ばれ、港湾設備や倉庫を改造した「芝浦ゴールド」(東京都港区海岸3丁目1-5)や「オーバー2218」といった有名ディスコが存在し、1980年代後半のディスコ・ムーブメントの発信地として脚光を浴びていた地域である。今日でもジュリアナ東京の映像が「バブル景気を象徴する光景」として紹介されることが多い。

ボディコン姿の女性たちが最寄り駅であるJR田町駅からジュリアナ東京まで徒歩で赴くという光景が見受けられた。「ボディコン」自体も、素材の質感がエナメル質・露出の多いもの、もしくは水着など過激なものも存在した。実際、ジュリアナ開店時のコンセプトは、「普通のOLが上品な夜を過ごせる英国資本のコンサバティブディスコ」という内容である。これは、バブル期の時代の最先端であり、一見客には極めて入りづらかった「芝浦ゴールド」(1989年開店)へのアンチテーゼとして立案された。しかし、お立ち台がマスコミに大々的に取り上げられるにつれ、次第に「ボディコン・イケイケ」路線色に近づいていった。

(1991年冬頃から1992年頃) – ハードコアテクノ

T99の”アナスタシア”が受けた事により、それ以降はテクノがメインとなる。選曲傾向は初期のハードコアテクノが多く、現在ではオールドスクールへ分類されるもの。中でも、ジュリアナで好まれていたのは、無機質なリズムへオーケストラ・ヒットを乗せ、ゴスペル歌手のサンプリング(特に絶叫に近いもの)を被せた典型的なレイブサウンドが多かった。当時、洋楽邦楽問わず乱造されたような、間奏部分にとりあえずラップを挿入した曲も比較的多い。当時、日本ではこの系統のジャンルにあたる名称が無かったため、エイベックスではフリーペーパー「ビートフリーク」などで「発狂テクノ」または「デステクノ」などと呼称していた事もある。

(1993年以降) – ハイパーテクノ

絶頂期に好んで流されていた曲調を、更にユーロビート風に傾斜させたもの。甲高くて早口の女性ヴォーカルのものが多い。強いて言えばハッピーハードコアに分類されるが、ジュリアナで好まれていたものは、中でも日本向けを強く意識した曲が多く、更に言えばハイパーテクノというジャンル名称そのものが日本でしか使われていない。 オープニング・パラパラ箱でいうスロータイムにあたる時間帯はハウスが掛かっていた。

1993年以降の選曲はエイベックスからジュリアナのCD(コンピレーション・アルバム)が発売されていた。マスメディアの報道により広く知られるようになった時期には、まだテクノというジャンルそのものが日本に浸透していなかったために、良い意味でも悪い意味でもテクノを有名にしたと言える。

このため、クラブカルチャーを土台として発行していた音楽雑誌やミニコミ誌、またはそれを取り巻くリスナーには、ジュリアナの有名化に当初は困惑の色が濃かったが、次第にそれにも慣れてジュリアナで流れているような曲はテクノと別物として扱うようになっていった。現在でも、ジュリアナで流れていた曲調(絶頂期以降)は、敢えて一つのジャンルとしてカテゴライズされる場合があり、「ジュリテク」「ジュリアナ系」「レイヴサウンド」「ジュリアナサウンド」と呼ばれ、中には「ジュリアナみたい」などと曖昧に呼ばれる場合もある。

「ジュリアナサウンド=商業的なダンス音楽」のような図式が形成されているが、ジュリアナの初期にはアンダーグラウンドな曲もある程度選曲されていた。しかし、客受けなどの理由により後に淘汰され、現在のような図式が形成したといえる。ちなみに上記の事象からハイテクサウンドの印象が強いジュリアナ東京であるものの、意外にもユーロビートは一切かかっていなかった。

また、non-vocal曲または、English numberしかplayされず、邦楽では唯一TRFのGoing2Danceが掛かるのみであった。ハイパーテクノ・ジュリアナテクノという呼び名はジュリアナが創造した新しい音楽ジャンルとも言えるだろう。主なDJに、ジョン・ロビンソン、3Dら。また、三波春夫がライブを開催するなど、型破りな演出でも話題を呼んだ。また1994年には2アンリミテッドを招き、東京ドームでavex raveを開催した(avex raveは1993年が最初であり、半券を持ってくれば当日はジュリアナが入場無料になった)。

マスコミへの発表はディスコシーンに置ける役割は充分果たした上での栄誉ある撤退。ジュリアナサウンド・音楽シーン・ファッション・ブームの創造を広く世間に認知させたジュリアナの威光が地に落ちる前の勇気ある撤退であった。しかし、実際の閉店理由は客足の減少による経営不振。

マスメディアの偏見報道のみならず一大ブームにおけるエイベックスの『JULIANA’S TOKYO』シリーズのCD売り上げ増加に伴い、付録についている無料入場券でのディスコ初心者の入場者が多数を占めた。これにより、今までとは違った客層が増えたことによって、純粋なダンスフリークやリスナー、上客であったモデルや常連などは足が遠のいた上、一見の初心者がリピートしないことにより、次第に収益が悪化していった。

ディスコは興味本位ではなく「ダンスが好きだ」「曲が好きだ」「知り合いと騒ぎたい」「雰囲気が好きだ」「目立ちたい」等、遊び慣れた自分なりにポリシーを持った人間の集まる場所であったのに対し、単に「肌を露出した女性が多い」かのような報道により、下心を抱いた男性や、勘違いした地方出身の女性などが集まって雰囲気が壊れ、荒廃していった。

また、1994年に入ってから、女性の露出度の高さに対し、たびたび警察の指導・捜査が入ったことから、臨時休店・臨時休業が見られるようになったことも閉店に影響した。ジュリアナの過渡期においても様々な利権が絡み合い、最終的に東雲リクリエーション(大家)とマリブグランプリ(従業員所属先)が経営に携わる。現在閉店後のジュリアナ東京跡地には、総合スポーツセレクトショップ「ASR芝浦」がディスコ時代の建物を一部小変更し現在も営業している。

「ジュリ扇(せん)」 VIPルームの顧客にのみ配られた紫色のロゴ入り扇子を、女性客が持ったままお立ち台で踊ったのを真似たのが始まりとされるが、その後羽根つき扇子が導入されパワーアップして行った。「ロゴ入り扇子」や「羽根つき扇子(羽根扇やジュリ扇)とボディコンでハードコア・テクノやパラパラに乗って同じ踊りを踊る」というスタイルは地方の新興ディスコにも波及し、「盆踊りが現代に復活した」とも言われた。

「ゲッターズ」 マハラジャやジュリアナ東京などに出現する、都内のアソビ系サークルの大学生や若手ビジネスマンを中心とするナンパ集団「ゲッターズ」が一部で有名になった。実際は、ジュリアナから田町の駅まで徒歩で帰る女性を道路沿いに駐車した車から「送ってあげるよ」「どこまで帰るの?」等と声を掛けナンパする者達のことをゲッターズと呼んでいた。

「コギャル」 一般的に使われるようになるのは1990年代半ばだが、この頃から既にコギャルという言葉はディスコでは使われていた。コギャルの説明にある、「ディスコが起源」は正しいが、意味合いは格好ギャルではなく、子ギャルである。童顔のギャルのことをコギャルと呼ぶのであり、高校生か否かは問わない。20歳以上のOLでも童顔ならばコギャルと呼んでいた。

ディスコは流行って損益分岐点を超えれば、後は空気を売っているようなもの。一人が立っているスペースで5000円とれ非常に儲かる。ジュリアナ東京がオープンしたのは1991年5月。バブルの余韻があった頃。当時日商岩井の電子産業部に勤めていた折口雅博氏(グッドウィル元会長・当時29歳)が総合プロデュースして作られた。きっかけは、その前年に倉庫会社のオーナーからあった『空倉庫の有効利用を考えてくれないか』という引き合いだった。場所は東京・芝浦。87年頃から倉庫を改造したレストランやライブハウスなどが、人気スポットとして注目されていた。

港区役所に出向き、最寄り駅の乗降客数、交通網のデータ収集、都内でのディスコを視察したり、社内で情報を集めたら、たまたま総合プロジェクト部が欧米で有名ディスコを展開していたジュリアナス社の代理権をとったところ、いいタイミングで。

企画書を作り、倉庫会社のオーナーに提案が、直営にするのはリスクが大きすぎる、ディスコを経営するテナントをいれてくれれば場所は貸そう、という判断。日商岩井も『オーナーが直営にしないならやめろ』と反対した。折口氏が責任をとる形で、まとめあげ施設の施行会社として参加するように説得した。大手商社と英国有名ディスコとの提携という話題性にこだわった。一方で、会社には言わずに自分で資金を用意し、テナント探しに走った。

『テナントは私が用意します、万一失敗しても一銭も損もさせません』と言って3社の内託を得た。個人の集められるお金などしれている。それでも5000万くらい。これは倉庫会社の保証金で、月額の店舗リース料の二ヶ月分。当時としては破格の安さ。懇意にしていた知人からの借金や、自宅マンションを売却する覚悟の借り入れで、つぎ込めるものはすべてつぎ込んだ。オープン資金は、ビール会社、アパレル会社などからスポンサーフィーとして約一億集めた。内装を施し、音楽も決め、いざ蓋をあけると、若いOLやサラリーマンらが連日詰めかけました。超満員のフロアで若者たちが踊る様子は一種の社会現象のように伝えられた。

この成功は運や偶然の産物ではなく、ディスコの本質は『毎日、超盛り上がっているお祭りの場である』こと。それを演出するための周到な準備とマーケティング戦略を展開し、毎日満員になるように仕組んだ。一流紙・誌と言われるところに、巧みに売り込み『英国』や『ジュリアナ』、日商岩井という名前を使った宣伝で、外資系でおしゃれ、そして高級というイメージを演出。こうしたムードを十分に盛り上げたところでインビテーションカード(招待状)を配った。

ターゲットは、まず、都内の大企業のなかで、遊び仲間など様々なネットワークを持っている人達。一流企業の20代後半の人が中心。商社で養った人脈を通して選び郵送した。次に生命保険の女性たち。大手生保の外交員に営業のときに利用してもらった。ダイレクトメールも出した。この作戦は大成功で、ただでさえイメージと話題性が高まっているところに、無料の招待がくる、多くの人達が足を運んだ。初めの来場者数の90%が招待客だった月曜日にも、オープン10ヵ月目には全員が有料で来るようになった。

トゥーリア落下事件

事故発生の場所は東京都港区六本木7-13-7にあったディスコ「トゥーリア」である。このディスコの2階天井には、天井の巻取ドラムから直径6ミリのワイヤー8本で吊られた可動式大型照明装置があったが、1988年1月5日21時40分頃、巻取ドラムのワイヤーが過剰な荷重を受け瞬時に全数切損し、吹き抜けとなっている地下1階のダンスフロアまで8.2メートル落下するに至った。

女性13名・男性4名の計17名が照明装置の下敷きになり、目黒区の看護自衛官(21歳女性)、桐生市の予備校職員(26歳女性)、世田谷区の会社員(24歳男性)の3名が死亡、14名が負傷した。落下した照明装置は楕円形で中央部には何もない形状であったため、落下時に中央にいた来店客は運よく難を逃れた。当時このディスコのフロア内には約200人がおり、プロ野球選手の桑田真澄と当時スポーツメーカーカドヤスポーツの販売促進課長だった中牧昭二、さらにアイドルの栗原冬子がいたと報道される。

昇降動作の頻度は設計上4回/日であったが実際には15〜20回昇降動作させていた。この照明はバリライト呼ばれ、マイケル・ジャクソンのコンサートでも使われた米国製と称し、全世界255個の納入実績(但し保守上、レンタル扱いにしている)を誇り、巨大なロの字型の物体が光り輝きながら上下するという構造がこの店の最大のウリだった。(実はこの落下事件でこれが国産のコピー品・ニセモノとバレてしまった )なお「バリライト」という名称は固有商標だが、すでにこの手の照明の一般名称と化していたようだ。

事故で負傷した一人の21歳学生は障害が残ったものの年金非加入であったことから無年金障害者となり、国民年金未加入を理由に障害基礎年金が支給されないのは憲法違反だとして、国側に不支給処分の取り消しと損害賠償を求め民事訴訟をしている。この事故を受け懸垂物安全指針・同解説が取りまとめられた。

トゥーリアは1987年(昭和62年)5月8日に、東京都港区六本木7-13-7(外苑東通り沿いの当時防衛庁前)に開店した高級ディスコである。総床面積392平方メートル、収容人数約800人。当時高級ディスコブームの代表的存在であった。内装を手がけたのは映画「ブレードランナー」の美術コンセプトを担当したシド・ミード。なお、「トゥリア」とはギリシャ語で数字の「3」という意味である。1988年(昭和63年)1月5日吹き抜けの2F天井から照明が落下し死亡者3名、負傷者14名を出す事故を起こし、閉店した。

社会考察
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました