牛肉はいつから食べられるようになったか?

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食肉をタブー視する日本の風潮は、文明開化の新時代に入っても続いていました。

今でこそ、お肉、牛肉は当たり前のように食べていますが、江戸時代、幕末までは、獣肉は食べられていなかった。そのタブーを最初に破ったのが明治天皇であり、一大決心のもとに勧めたのが、大久保利道でした。

明治維新の西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」の一人。明治天皇に勧めたのは、牛肉は栄養に富み健康上大事だと考えたことからです。明治天皇は明治4年11月から、まず牛乳を1日2度飲むようにして、翌年から牛肉を口にするようになった。天皇自ら率先して食肉のタブーを破る事で国民に牛肉を食べるように促しました。その後、牛肉は大流行した。文化開花した代表的な料理は牛肉鍋です。

明治4年12月17日はある意味、近代と前近代の境目です。この日、古代以来の禁断であった、天皇の肉食が解禁されました。牛・羊は平常、豚・鹿・猪・兎の肉は時々、食事に出されることになりました。それまで天皇は、人々の肉食を禁止する立場にありましたし、なにより肉食によって天皇の身体が穢(けが)されることなど思いもよらないことです。

天皇に仕える公家衆は皇居を穢さぬような細心の注意が必要で、親族で死者が出れば服暇をとり、また自宅の軒下で犬が死んでいたり、犬が出産するなど偶発的な事件であっても、穢に触れたとして宮中へ参上しません。ずる休みの口実にもなります。

それがこの日、180度転換し「朕も食べるので君等も食え」となったのですから驚きです。しかもその理由は「其いわれなきを以て」だそうで、つまり肉を食べない「理由がなかったから」というのでは笑うしかないでしょう。ほんの数年前までの禁令はなんだったのでしょうか。

もちろん、これは明治維新の開化政策の一環であり、西洋文化を天皇自身が受入れ、臣民の開化を促進するためのパフォーマンスでした。同日、宮中への参上には靴を用いることが命じられます。つい先日までは、平安時代以来の装束に身を固めて参上していたのに・・・・。千年以上も続いた儀礼国家が消滅する瞬間です。

徳川時代には牛肉を「黒牡丹」と称して薬にするものがあり、又、売薬としての「牛肉丸」等というものはありましたが、一般には食されていませんでした。それが外国との交通が開けかけた幕末には、外国人の肉食に始まり、横浜・神戸の日本人に伝わり、屠牛が行われ、さらには牛肉販売店も現われ、明治維新後には西洋かぶれの新人類達が牛肉を食するようになります。

とくに「牛鍋」は牛肉に野菜・豆腐などをとりあわせて、醤油味の汁で煮た鍋料理で、1871年(明治4年)頃には文明開化を象徴する食物として流行し、仮名垣魯文の「安愚楽鍋(あぐらなべ)」にその状況が描かれいます。

明治政府も日本人の体格向上のために肉食を推進します。殊に明治天皇が牛肉を召上られたことが報道されると、民衆も次第に牛肉を食するようになります。なお、明治初年には東京府下で屠牛された牛は一日1頭半か2頭に過ぎなかったのが、明治5年頃には一日20頭を屠るようになりました。

明治8年の末には東京市内に中川、三河屋、野田安、釜屋等の牛肉店が70余軒も出来る程盛況となり、牛鍋を「開化鍋」と称します。(写真は明治村にある大井牛肉店)然し、地方ではなお忌み嫌って食さない者が多かったので、県によっては県令を発して牛肉を食するように奨励を行います。昭和初め、東京四谷見付外の老舗三河屋の廃業がこの業種の終焉といわれます。

1872年1月24日は、「明治天皇が初めて牛肉を試食された日」

1872年(明治5)のこの日、明治天皇が初めて牛肉を試食された。明治初期の東京の新聞『新聞雑誌』には、「我が朝にては、中古以来肉食を禁ぜられしに、恐れ多くも天皇謂(いはれ)なき儀に思召し、自今肉食を遊ばさるる旨、宮内にて御定めこれあたりたり」とあるそうです。

よく世間では、日本人は草食人種だなどと言われるが、古来、人間の食生活は肉食から始まったといわれており、日本でも縄文時代の貝塚には貝殻に混じって熊や鹿、猪、兎、狸などの骨が出土している。

稲作が盛んになっても、動物の肉を食べていたが、675(白雉26)年、仏教信仰に熱心だった天武天皇が「殺生禁断の詔」を出したものが、元正天皇、聖武天皇の時代にも受け継がれ、肉食の禁忌は宮中から始まり、次第に上流の貴族階級に浸透、時と共に一般庶民の食生活にも大きな影響を及ぼしていった。

さらに1687年(貞享4年)徳川綱吉の「生類憐みの令」により、以降、千数百年にわたって肉食が忌避され続けてきたのである。

このような、仏教の殺生戎の影響による肉食禁忌は、一種の迷信化して長く日本人の食生活を縛っていたが、幕末の開国と共に来日した外国人が居留地などで肉食をするようになり、肉食は一挙に公然化した。

そして、牛肉屋と屠殺場が慶応の頃、江戸とその周辺でも見られるようになり、明治元年(1868)の神仏分離令の公布により、肉食が解禁される。

そして、天皇は、文明国の取るべき態度として断髪の上、洋装にして、和食をフランス料理に変え、1872(明治5)年1月24日には、1200年に渡る肉食の禁を破り、牛肉の試食をされ、この年より西洋料理が宮中に採り入れられるようにもなった。

天皇の名の下に肉食が公認されると、国民も肉食に対する偏見を改め、肉食は欧米文化に欠かせないものとして、今度は進んで肉食をするようになっていく。しかし、このような明治維新になり、肉食が解禁され、積極的に食べるような状況が作られていった裏には、新政府の「富国強兵」策があったようである。

まず、初期の牛鍋屋は、肉を食べることで勇気を誇示したい輩や、大阪では緒方洪庵の塾、江戸では福沢諭吉の塾などに出入りをする洋学を学ぶ書生たちによって食され、これら、知識人による肉食の啓蒙が、肉食の普及に大きく頁献したといわれる。

戯作者仮名垣魯文(かながきろぶん)が、1871年(明治4年)に著した『牛店雑談安愚楽鍋(うしやぞうだんあぐらなべ)』には「士農工商、老若男女、賢愚貧富おしなべて牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」とあるように、肉食を賛辞している。このようなことから、文明開化にあこがれる人々は、牛肉食をあたかも欧米文化の象徴のように信じて、進んで肉食をするようになっていく。

この頃食べられていた「牛鍋」は、肉を調理する技術を持たない日本人が、作り出した独特な料理法であり、この牛肉とネギなどの野菜を味噌や醤油を使って煮る日本の伝統的料理技術を応用した調理方法は、その後すき焼きにと引き継がれていく。

ちなみにすき焼きは、文字通り農具の鋤(すき)の上で焼いたのが始まりだと言われ、関西ではこれの名残で、肉を焼いてから砂糖を振りかけ、醤油を加えていくが、牛鍋の影響により関東では最初から焼かずにすぐに割り下を注ぐようだ。今のように、一般人がステーキなどを食べるようになったのは戦後のことである。

 

 

 

 

 

 

 

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