基軸通貨ドルの歴史

経済

 

基軸通貨

外国為替の世界で重要となるのが基軸通貨である。国際間の貿易や資本取引の決済に多く用いられ、諸外国で対外準備資産として用意される通貨で、その時代にもっとも影響力が強い通貨が事実上の基軸通貨となる。

19世紀にはイギリスのポンドが、基軸通貨の地位にあった。産業革命を果たしたイギリスが「世界の工場」とも「世界の金融の中心地」とも呼ばれた頃の話。しかし第2次大戦後は、その大きな経済力と政治力を背景に、米国ドルが基軸通貨の役割を担ってきた。

単に「ドル」と呼んだ場合、アメリカ合衆国ドル(USドル、米ドル)を指すことが多い。これはアメリカ合衆国ドルが石油取引など国際決済通貨として世界で最も多く利用されているためである。世界地図を見渡してみれば、USドルが国の通貨として扱われている国や地域が多いことに気づく。その地域は、グアム(アメリカ領)、北マリアナ諸島(アメリカ領)、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、東ティモール、パラオ、エクアドル、エルサルバドルなど、東南アジア、アフリカにまで及んでいる。ちなみに返還前の沖縄では、当然のことながらUSドルが通貨となっていた。

実は「ドル」と呼ばれる通貨を使っている国はざっと数えただけで22もある。

(1)オーストラリア・ドル (2)バルバドス・ドル (3)バハマ・ドル (4)ベリーズ ・ドル (5)バミューダ・ドル (6)ブルネイ・ドル (7)カナダ ・ドル (8)カイマン諸島ドル (9)東カリブ・ドル (10)フィジー・ドル (11)ガイアナ・ドル (12)香港ドル (13)ジャマイカ・ドル (14)リベリア・ドル (15)ナミビア・ドル(16)ニュージーランド・ドル (17)シンガポール・ドル (18)ソロモン諸島ドル(19)スリナム・ドル (20)ニュー台湾ドル (21)トリニダード・トバゴ・ドル、(22)ジンバブエ・ドル

ドル(ダラー)という名前は、ドイツで使われた歴史的通貨のターラー (Thaler) に由来すると言われている。ターラーは、16世紀にボヘミアで鋳造された銀貨の名前の短縮形で、品質の高さで知られた銀貨を指す。これが広く流通し、自国の通貨を「ドル」と呼ぶようになったのである。アメリカ合衆国の建国は1776年なので、USドル自体の歴史はまだ新しいと言える。

たとえば18世紀、スペインはメキシコやペルーで優良な銀山を発見し、大量の銀貨を発行した。母国では「8レアル(Real)」銀貨と呼ばれるものを、諸外国は「スペイン・ドル(Spanish Daler)」や「メキシコ・ドル」と呼び、アジアではこのメキシコ・ドルが貿易通貨として広く利用されていた。では、イギリスとフランスの植民地であった頃のアメリカの通貨の単位は何だったのだろうか? ポンド(Pound)である。ポンドは重さの単位でもあるが、本来は1ポンドの重さの銀に相当する価値を表していたのである。

アメリカ合衆国の建国は1787年に建国だが、米国ドルが誕生したのは6年後の1793年である。その後、イギリス(1816年)、ドイツ(1871年)に続き、1873年に米国、1876年にフランスが、金銀複本位制や銀本位制などから金本位制へと移行した。この時点ではまだイギリスのポンドが基軸通貨であった。

第一次世界大戦で欧州各国の経済が弱体化したのに反して、アメリカは戦争特需で経済が急成長したため、基軸通貨が機能面で英ポンドから米ドルへ移った。第二次世界大戦後、新秩序の取り決めのひとつとして、国際通貨体制の枠組みを話し合う「ブレントンウッズ会議」が開催され、主要通貨の固定レートが定められた。アメリカがIMF体制の下で各国中央銀行に対して米ドルの金兌換を約束したことや、アメリカの経済力を背景に米ドルが名実ともに基軸通貨となった。ちなみに、固定レートにより、日本円は1949年4月から1ドル=360円に決められ、この時代は20年以上続くことになる。

USドルの歴史はアメリカの歴史と重なる。1971815日まで、ドルの価値は金によって保証されていた。1944年、アメリカのニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで国際通貨基金協定などが結ばれ、その中で、IMF(国際通貨基金)が発足した。金だけを国際通貨とする金本位制を採用せず、ドルを基軸通貨として、金と並ぶ国際通貨とする制度をつくったのである。しかし、1971815日その日以降、世界の為替のしくみは一変した。

日本が高度経済成長を続けた1960年代後半、アメリカは国際収支の赤字で悩んでいた。その対応として1971815日、当時のニクソン大統領が突如、ドルと金との交換停止を含む新経済対策を発表。これによって戦後長く続いたIMF体制は崩壊、ここにブレトン・ウッズ体制は終了した。この大統領声明は「ニクソン・ショック」と呼ばれ、世界に大きな影響を与えた。ドルは急激に下落し、その対応策として、主要国会議で全面的な為替レートの修正(スミソニアン体制)が行われ、日本では1ドル=360円時代が終了し、1ドル=308円となった。しかしドルの下落はおさまらず、まずイギリスが固定レートを放棄し、変動相場制へ移行。他国もこれにならい、日本も1973年2月に変動相場制へと移行した。

「ニクソン・ショック」

ニクソン・ショックの背後には、第二次世界大戦の敗戦国であった日本とドイツの経済成長の影響がある。アメリカの経済力は相対的に低下し、当時景気過熱で経常収支が悪化していたため、やがて固定レートを変更し、ドルを切り下げるであろうと予測された。このため経常黒字国であった日本の円やドイツのマルクに対して1969年頃から投機が殺到するようになる。固定相場制度においては中央銀行が無限の為替を保証するため、日本銀行やブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)はドルを買い支えることになった。つまり市中に円やマルクが放出されるということになる。マネーサプライが増えるため金利は抑制され、日本やドイツの経済も過熱気味になる。

ドイツは、戦前にハイパーインフレーションで経済を疲弊させた記憶があるため、ブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)はインフレーションを未然に防ごうとしたのである。また、日本も高度経済成長末期において巨大プロジェクトが目白押しであったため、アメリカの過剰輸入・資本輸出によるインフレーションは厄介であった。このため、元凶であるアメリカの過剰財政支出への非難が強まったのである。ニクソンは、そういった経済成長国の流れを鑑みて、ドルと金との交換停止を含む新経済対策を決断したのである。

変動相場制

第二次世界大戦後のUSドルの歴史は、変動相場制の歴史でもある。1971年に決定したスミソニアン体制下において、ドルの切り下げと為替変動額の拡大(上下各1%から上下各2.25%)が行われたが、米国の国際収支の悪化は続き、19726月に英国がこの体制を放棄し、変動相場制に移行すると、19733月までには主要国はすべて変動相場制に移行した。

19761月、ジャマイカのキングストンでIMFの暫定委員会が開かれ、変動相場制の正式承認を含む、IMFの第2次協定改正が決定。ここで金の廃貨が決まった。この制度は197841日に発効となり、決定された決め事は「キングストン合意」と呼ばれている。ここに現在まで続く国際通貨体制が確立されたのである。

1977年にはIMF理事会で、中央銀行の為替政策のガイドラインが決定。「加盟国は不公正な競争上の優位を守るために為替相場を操作しないこと」「輸出を伸ばすために意図的に為替相場を操作(為替介入)してはいけないこと」「介入は短期的に乱高下し秩序が保てないときのみ認められること」といった約束事が示された。 

1978年当時のアメリカは貿易収支の大幅な赤字によって経常収支が赤字に転落し、インフレが加速していた。このアメリカのファンダメンタルの悪化を背景に、米ドルは主要通貨に対して急落した。半年で55円のドル安円高である。

そこで、当時のカーター米大統領は、日本、当時の西ドイツ、スイスの中央銀行とのスワップ枠拡大等による「為替市場への協調介入の強化」、「300億ドルの介入資金調達」、「公定歩合の引上げ(8.5%→9.5%)」、「預金準備率の引き上げ」などからなるドル防衛総合対策を発表した。 

次の大きな節目は、1985年の「プラザ合意」によるドル高是正である。レーガン大統領の時代のアメリカは、財政赤字と貿易赤字(双子の赤字)が構造的に定着し、第一次世界大戦後初めて純債務国へと転落した。そこでドル安によって米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減らすことを主目的として、19859月、過度なドル高の対策を課題に掲げ、アメリカの呼びかけでニューヨークのプラザホテルに先進国5カ国(日・米・英・独・仏=G5)の大蔵大臣(米国は財務長官)と中央銀行総裁が集まり、会議が開催された。この会議で決められたのは以下の内容である。

為替レートの調整によって対外不均衡の是正が可能であり、また有効である。 

為替レートは各国のファンダメンタルを反映すべきである。

為替レートの調整は主要通貨の対ドルレートの上昇によって行なわれ、各国が直ちに介入によってこれを実現する。 

第二次世界大戦後のUSドルの歴史は、世界的にドルの保有高が増大した歴史でもある。金本位制だった1949年から1969年までの20年間には約1.5倍にしかならなかったが、金本位制からドルを自由に刷れる「ドル本位制」に以降した1971年から現在までの36年あまりの間に20倍になったとされている。そして今日に至るドルの歴史は「マネー経済」の歴史とも重なる。1980年代ぐらいまでは、お金のやりとりのほとんどは実物経済だった。それがマネー経済に転じたのが、1980年代なのである。

1985年の「プラザ合意」後、為替は外債投資規制の緩和などによって、いったんドル高・円安傾向になった。日銀はプラザ合意の要請に従ってドル安になるよう協調介入を行い、外国為替相場をコントロールした。18872月には「プラザ合意」以降のドル安進行を止めるために通貨安定に向け協調介入を行うことを決定(ルーブル合意)。しかしその後もドル安は止まらなかった。

同年10月にはニューヨーク株式市場で史上最大の暴落が起きた。世に言う「ブラック・マンデー」である。原因はアメリカの貿易赤字と財政赤字の拡大やドル安に伴うインフレ懸念だと言われている。投資家たちが日本やドイツが公定歩合を引き上げることを予想し、アメリカ市場から資金を流出させたことによって記録的な株価暴落を招いたという分析だが、一方ではコンピュータによる「プログラム売買」の損切りの連鎖反応が下落を加速させたという見方もある。

大口投資家は投資している株式の銘柄をコンピュータで管理しているが、万一どれかの銘柄が一定の幅を超えて価格が下落した場合、損失を最小限に抑える(損切りする)ため、その銘柄を売りに出すというシステムを組んでいる。ところが、みんながそういうシステムを使っていると、いったん株価が下がり出すと、全員が一斉に自動的にすべての株を売り始めることになり、売りが殺到して株価の下げが加速し、一気に大暴落を起こしてしまうという構造だ。さらに株価が下がり出した場合、投機筋がまだ株価が高いうちに空売りをして、下がり切ったところで買い戻して利益を得ようとするので、暴落に拍車を掛けてしまう。まさに「マネー経済」の幕開けを象徴する事件であった。

1981から1989年まで2期8年、大統領を務めたロナルド・レーガンは、軍事支出の増加と並行して減税を行った。在任中にイラン-イラク戦争、アフガン戦争に莫大な軍事費を投じ、その結果、巨額の財政赤字と累積債務の劇的な増加に結びついた。その負債はレーガンの就任時と、彼の後継者ジョージ・HW・ブッシュ(パパ・ブッシュ)の就任時を比べると、およそ200%増加している。貿易赤字と財政赤字が並存することを「双子の赤字」と呼ぶが、レーガン政権下がまさにこの状態であった。

米国の貿易収支は、かつて外為市場で最も影響力の大きい経済統計だった。しかしそれは1980年代後半までのことだ。当時の為替相場は、1985年の「プラザ合意」を受けてドル急落の大相場が展開していた。ドルの大幅切り下げ策の背景となったのが、巨額にふくれあがった米国の貿易赤字であり、それを要因とした国際的な貿易不均衡の拡大だった。外国為替市場の参加者は、毎月発表される貿易収支、特に米国の貿易収支の結果が市場の予想に比べて「多いか・少ないか」の観点から、「ドル売り」「ドル買い」を決定したのである。

しかし、「米国の貿易赤字がドル安につながる」という考え方は、果たして正しいかったのだろうか? 一方では、「ドル安が進むと貿易赤字は縮小し、ドル高が進むと貿易赤字が拡大する」という理論がある。1999年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者ロバート・A・マンデルは、変動相場制のもとでは「金融緩和は国内金利を引き下げ、所得を増大させて自国通貨安となり、財政支出拡大は金利を引き上げ、自国通貨高をもたらす」「外国での金利の上昇は自国通貨安になる」「輸出入の促進策が経営収支に与える影響は、為替レートの変化により相殺される」といった説を展開した。これによると、為替が貿易収支に対して先行するという解釈になる。

1990年代に入ると、ドル安の大相場は終わる。連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン議長の助言もあり、クリントン政権下で均衡財政が進められ、巨額の財政赤字は解消。2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。クリントン大統領は後期に「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。

駆け足でドルの歴史を見てきたが、ようやく現代にたどりついた。近年のドルの歴史を語るうえで忘れてはいけないのが1989年の「ベルリンの壁」の崩壊である。冷戦の終結は1991年のソビエト連邦の解体へとつながり、翌年、欧州連合の統一通過「ユーロ」の導入が定められる。当時のアメリカはIT産業の急成長などによって「双子の赤字」を解消。世界が米ソの二極状態から、米国を中心とした一極世界へ向かうものと想像された。

そして2001年。9.11の同時多発テロ事件が発生。2003年、米国がイラク攻撃を開始。以降、投資家の間では「地政学的リスク」という言葉がクローズアップされるようになる。これは当時の連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン議長が使ったことで世界的に有名になったものだ。同時多発テロ事件以降、中東情勢に緊張が走る度に米ドルは売られた。そこで「地政学的リスク」が「ドル安」につながるという理論が注目されたのである。それは米国のイラク攻撃によって、世界経済がスローダウンする、そのリスクとして「ドル安」が進行するという考え方だ。つまり、イラク攻撃→中東産の原油価格の上昇→インフレに対する懸念→金利の上昇→世界的な景気の後退、という流れを想像したのである。

当時の多くの評論家、経済学者が「地政学的リスクによって日本も大きな影響を受ける」と指摘したのは、次のような文脈からだった。

「原油価格の高騰は、エネルギー価格や原材料価格の上昇をもたらす。これが日本企業の設備投資意欲をさらに抑制する。原材料価格が上昇すれば、紙・パルプ製品、繊維、化学製品、プラスチック製品など、多くの商品の卸売価格の上昇をもたらし、結果的には私たちの生活に直接影響を与える消費者物価にも反映されていく」

「また、イラク情勢の不透明感から株価はバブル後の最安値を更新。株安は日本経済の最大の懸案である不良債権処理をさらに遅らせる。加えてイラク情勢の緊迫度が増す中、米国経済への悪影響懸念からドル安が進む。結果としての円高が長期化すれば、比較的好調な日本の輸出は失速する。こうして『地政学的リスク』はドル安、原油高、株安、円高という厳しい状況を日本にもたらす」

こういった予測が主流を占めた。では、米軍のイラク攻撃によって日本及び世界経済の景気は後退しただろうか? 原油価格の急激な変動はしばらく続いたが、世界経済に及ぼすマイナスの影響はそれほど大きくなかった。ドル安の進行は続いたが、世界的な「ドル暴落」は起こらなかった。

当時アメリカ経済に対する先行き不安から、行き場を失った投機資金が一気に石油市場に流れ込んだ。ひとつの市場に急激に莫大な資金が流入すれば、価格は簡単に急騰する。だが、こうした急騰はまたあっさり下落もする。高値が高値を呼んで利潤率が低下すれば、大量の投機資金はより有利な利率を求めて移転するからである。こうして現代へとつながっていく。

トリニダード・トバゴ・ドル(TTD

西インド諸島で唯一、豊かな石油と天然ガスが産出する島国がある。トリニダード・トバゴだ。輸出・輸入ともアメリカがトップというこの国の通貨はトリニダード・トバゴ・ドル(TTD)。人種はアフリカ系とインド系だが、公用語は英語である。日本には馴染みが薄い国だが、日本は同国の主な援助国である。

イギリスから独立した1962年以降、石油、石油化学部門が輸出収入、政府歳入の大半を占めている。しかし1980年代半ばには、石油価格の急落という外的要因によって深刻な経済危機に見舞われ、1980年代後半、輸出振興、規制緩和、民営化推進等経済の構造調整を余儀なくされた。1993年以降、エネルギー部門の拡大とともに、構造調整政策の効果が現れはじめ、成長はプラスに転じ、現在は比較的安定している。2005年以降もエネルギー産業の拡大、建設業の好調、製造業及び農業の好転が予想され、政府は2006年~2008年の実質GDP成長率7%を見込んでいる。カリブ海の国の中で最も豊かで生活水準の高い国であることからトリニダード・トバゴ・ドルに注目する投資家は少なくない。

NZドル

西太平洋に浮かぶ島国に「ドル」と呼ばれる通貨を使っている国がある。ニュージーランドだ。通貨はニュージーランド・ドル(NZD)で、NZドルとも呼ばれる。「キウイ」や「キウイ・ダラー」という愛称もある。フルーツのキウイは中国生まれだが、1904年にニュージーランドに持ち込まれ、国鳥「キウイバード」に似ていることから「キウイ・フルーツ」と名づけられた。現在ではニュージーランドを代表する果物として世界に輸出され、「キウイ」は「ニュージーランド」の代名詞として使われているのだ。

輸出国・輸入国とも、1位:オーストラリア、2位:アメリカ、3位:日本の順番。地理的条件からオーストラリアへの依存度が高いことはわかるが、輸出・輸入国の両方にアメリカがランクされていることに注目して欲しい。オーストラリアの貿易は、輸出国が日本、中国、韓国の順、輸入国がアメリカ、中国、日本の順であることを比較すると、ニュージーランドは貿易面でアメリカの影響を受けていることが見えてくる。

ニュージーランドの主な産業は畜産物の加工だ。世界第3位の羊皮生産(10万トン、世界シェア約6%)、第4位のバター(47万トン、5.7%)、第5位の羊肉(51万トン、4.1%)、第6位の毛糸(2.2万トン、2.1%)などが有名だ。ほかにチーズ、牛肉、製材も大きな産業になっている。これらの産業は安定し、日本はニュージーランドの「お得意さん」でもあるのだ。

NZドルの円相場は「豪ドル円相場」と似たような値動きをするので、為替の動向はオーストラリアとセットで考えると、わかりやすい。オーストラリア同様、ニュージーランドの政策金利は高水準となっており、NZドル建て債券や外貨預金も近年注目を集めている。GDPは世界43位と決して高くはないが、NZドルは無視できない存在である。

バミューダ・ドル

USドル以外の「世界のドル」の中には、USドルと等価のものがある。北大西洋のバミューダ諸島で使われるバミューダ・ドルである。両者間の為替レートは、1バミューダ・ドル=1 USドルで固定されている。島内ではUSドル紙幣で買い物をすることも可能だ。国としてのバミューダは、イギリスの海外領土に属し、イギリス女王を国家元首とする独立国である。

この島を有名にした制度が「タックス・ヘイブン」だ。小さな島国など、産業の発達しない国が国際物流の拠点となることを促進するために作った制度で、税金が免除されたり、低い税率が適応されたりする。貿易の拠点となれば定期的に寄港する船乗りなどが外貨を消費するため、海洋国家にとっては有利な方法だと考えられてきた。イギリスとアメリカ両国の領であるヴァージン諸島、ケイマン諸島、マン島も「タックス・ヘイブン」の島である。

しかし、「タックス・ヘイブン」だからと言って物価が安いとは限らない。バミューダを訪れた者は総じて「物価がとても高い」と語る。安普請のホテルでも東京都心の超高級ホテル並みの宿泊料。レストランで食事をすれば100ドルを超えると聞く。バミューダでは、企業の利益や個人の所得、財産・資産、相続、配当などなどに税金が一切かからないから、会社を設立したり、不動産を購入したりした者は恩恵をこうむる。また、金融機関口座は個人資産家からは「オフショア金融センター」として人気が高いが、観光客は本国イギリス並みの物価に戸惑うことになりそうだ。

カナダ・ドル(CAD

5カナダドル札の肖像画ウィルフレッド・ローリエはフランス系カナダ人。10カナダドルに印刷されている肖像画ジョン・A・マクドナルドは、スコットランド生まれで、カナダに移住後に首相を務めた人物。20カナダ・ドルの肖像画は、英国エリザベス2世女王だ。これらの紙幣は、カナダの歴史を物語っている。

かつてフランス領であったカナダは、1759年に結ばれたパリ条約によって、全植民地が100年以上に渡って英国の支配下に置かれた。1867年、4州の統合でカナダ自治領が成立し、時を経て1982年カナダ自主憲法が成立。イギリスへの法的従属性を解消。カナダの女王でもあるエリザベス女王は「君臨すれども統治せず」の姿勢で、その権限をカナダ総督に委任している。カナダはG7(先進7ヵ国蔵相会議)の一員で、カナダ・ドルはG7通貨のひとつ。

カナダ・ドルは長期下落傾向にあったが(70年代:1 CAD1米ドル、2002年:1 CAD0.6368米ドル)、2003年に入ってから対米ドル高傾向(2004年同0.7683米ドル、2005年同0.8253米ドル、2006年同0.8818米ドル)にある。20075月平均の為替レートは1 CAD0.9133米ドルであり、対米ドル高傾向は続いている。

オーストラリア・ドル(AUD)

豪ドル、オージードルなどと呼ばれている。発行はオーストラリアの中央銀行であるオーストラリア準備銀行(RBA)。同行が為替管理を放棄し、変動相場制に移行したのは、80年代である。

オーストラリアの最大の輸出国は、1:日本(19.8%)、2:中国(12.5%)、3:韓国(7.5%)という順位になっている。つまり、貿易は主にアジアの主要国と行っているのである。それだけに2000年までの豪ドルは、輸出、観光で関係の深いアジア諸国が金融危機に陥った際にアジア通貨につられて急落。世界経済がITブームに沸く中で、豪ドルは「オールドエコノミー通貨」として敬遠された。

しかし2001年に入り所得税減税、住宅取得者への補助金支給やRBAによる金融緩和が住宅投資と個人消費を促進。成長路線に回帰し、公定歩合が高さ、経済成長・金利差に着目した米系ヘッジファンドなどが、円やドルで資金調達し、豪ドル買いをするキャリートレードが進行。アジア、中東などの投資家も資金の一部を振り向けるなど、徐々に豪ドル投資の裾野が拡大してきたのである。

香港ドル(HKD)

現在、中国香港特別行政区の通貨だが、中国広東省の一部でも通用する。イギリスの植民地時代から中国に開かれた自由港として金融、流通の中心地であった香港は、通貨においても周囲の地域に大きな影響をもたらしてきたのである。マカオでは、当地の法定通貨であるマカオ・パタカの流通量を超え、香港ドルによる通貨代替が著しいという。マカオもまた中国の中の異国であることを証明する事象である。

香港では額面20ドル以上の紙幣は、香港上海銀行、スタンダードチャータード銀行(イギリス)、中国銀行(香港)の3行により発行されている。発行元の銀行によって図柄はまったく異なるが、それぞれの額面貨幣価値はもちろん同じだ。使用および流通において使い分ける必要はない。また、10ドル紙幣は上記の銀行による発行ではなく、香港特別行政区政府発行の法定紙幣のみ発行されている。つまり、通貨としては統一されているが、発行元が異なる紙幣がいくつも流通しているのである。

1983年以降、USドルに対するペッグ制 (自国の通貨と、米ドルなど特定の通貨との為替レートを一定に保つ制度) を施行しており、発券銀行が香港ドルを発券する際には相応の額のUSドルを預託する必要がある。しかし現在もペッグ制ではあるものの、2005518日より目標相場圏制度が導入されたことにより、1USドル=7.757.85HKDの間の変動が認められている。やはりここでもUSドルの強い影響を受けていることがわかる。中国の一部とはいえ、香港はドルの国。必然的に金融に対する基本的な考え方もグローバルであると言えるだろう。

シンガポール・ドル

100年以上もの間イギリスの植民地であったシンガポールは、東南アジアにあって英語を公用語とする稀有な国である。また、中国系、マレー人、インド人などから成る複合民族国家でもある。東南アジアの国際都市と位置づけることができるだろう。

シンガポールには「中央銀行」と呼ばれる機関はなく、シンガポール通貨金融庁(MASMonetary Authority of Singapore)が広範囲な通貨・金融政策、造幣業務を行っている。

シンガポ-ルドルの最大の特徴は、「バスケット方式」による管理型変動相場制であることだ。通貨バスケット制度とは、主要な貿易相手国・地域の通貨を各国・地域との貿易量で加重平均する制度。シンガポールの場合は、USドル、ユーロ、円などの「複合通貨のペッグ制」である。

通貨バスケットの構成通貨および構成比率については、MAS(通貨金融庁)が適宜見直しているが、詳細については公表されていない。また、経済規模が小さいシンガポールでは、通貨投機などによる為替の乱高下を避け、シンガポール・ドルの安定を図るため、外国通貨取引と自国通貨取引を完全に切り離す政策(シンガポール・ドルの非国際化政策)を実施している。

具体的には、非居住者に対する一定額以上の貸し出し(500Sドル以上)に対するMASの事前承認取得義務、銀行業免許の種類によるシンガポール・ドル取扱業務への参入制限、国内資本市場から調達したシンガポール・ドルの国外使用制限などがある。

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