バブル崩壊による金融破綻 経営学履修ノート。

経済

 

 

オールコーポレーション

不動産担保ローンを中心に扱っている独立系ノンバンク、店頭管理銘柄オールコーポレーションは、973月末をめどに東京地裁に特別清算を申し立てる方針を固めた。主力銀行の東海銀行の主動で経営再建に務めてきたが、累積損失がふくらみ、再建は困難と判断した。負債総額3400億円。オールコーポの96年度9月末の債務超過額は1954億円。借入残高は2745億円で、主な借入先は、東海銀行603億円、さくら264億円、中央信託93億円など。3月までに臨時株主総会を開き特別清算を決議する。オールコーポは77年の設立、85年頃から不動産担保融資を拡大し、不動産業者向けの大口融資を積極的に手がけてきた。89年10月には株式を店頭登録した。しかし、バブル崩壊による不動産不況で、破産申し立てを受けた末野興産向けなどの貸付金の多くが不良債権化し、業績は急速に悪化した。97/1/16

預金保険機構の資金援助

92/04東邦相互銀行

伊予銀行が吸収合併 80億

92/10東洋信用金庫

三和銀行が吸収合併 200億

93/10釜石信用銀行

岩手銀行に事業譲渡 260億

95/03東京協和、安全の両信用組合

東京共同銀行に事業譲渡 400億

95/03信用組合岐阜商銀

信用組合関西興銀が吸収合併 25億

95/07友愛信用組合

神奈川県労働金庫に事業譲渡 28億

96/01兵庫銀行 

みどり銀行に事業譲渡 4730億

96/03コスモ信用組合

東京共同銀行に事業譲渡 1250億

96/08福井県第一信用組合

福井銀行に事業譲渡 5億

96/09太平洋銀行

わかしお銀行に事業譲渡 1170億

96/11山陽、けんみん大和信用組合

淡陽信用組合 237億

97/01大阪信用組合

東海銀行に事業譲渡 1697億

97/02木津信用組合

整理回収銀行(旧東京共同銀行)事業譲渡 10340億

 アポロリース破綻

巨額の不良債権を抱え経営難の独立系大手ノンバンクに対し、主力銀行が再建計画への協力を拒否。こんな構図になったアポロリースとさくら銀行がにらみ合いに入り、問題の出口が見えなくなっている。異例の支援打ち切りの背景には「これ以上問題を先送りすれば、市場の信頼を失う」との危機感がある。不良債権問題から銀行株が急落しており、銀行は遅れいるノンバンクの処理を迫られている。

バブル時代に不動産向け融資を急拡大させたアポロリースは、地価価格下落で巨額の不良債権を抱え、93年1月、さくら銀行の主動で再建計画が始まった。3年間強だった第一次計画は、借入先の金融機関に金利棚上げを要求したが、債権回収が進まず中断。94年4月には、金利減免を求める第二次計画が作られた。債権期間を10年間延長した点が「問題先送り」との批判を浴び、金融機関30社以上が受け入れを拒否した。

さらに昨年9月、金融機関に約5年間で段階的に債権放棄を求める第三次計画をアポロ側が作った。昨年3月末の借入残高約4900億円のうち、半分の2450億円を放棄してもらえば、1950億円を回収して返済し、借入金500億円を圧縮する、という内容。これに対し、さくら銀行は1月「回収不能額はもっと多い。見通しが甘く現実は不可能」と断定した。アポロに自主再建をあきらめ、商法に基づく特別清算などの法的整理を促している。しかし、アポロ側はあくまで自主再建をめざすと主張して、溝が深まっている。97/2/13

日産生命『迷走する日産生命処理策』(97/4破綻)

生命保険で戦後初の破綻となった日産生命保険の処理策が、迷走している。大蔵省は日立・日産グループに支援を求める考えだが、グループ側は「株主の理解が得られる支援理由はない」と拒否の姿勢を崩していない。住宅金融専門会社(住專)や信用組合、銀行の破綻処理と違い、大蔵省は「金融秩序の維持」という錦の御旗を持ち出せず、グループへの働きかけも説得力を欠く。経済界でも同グループに理解を示す声が高い。

日産生命の管財人にあたる生命保険協会は、日立、日産グループ各社に、日産生命の契約を引き継ぐ受け皿会社への出資などの協力と営業支援を要請。大蔵省や生命保険会社協会がグループに固執しているのは、日産生命の債務超過額が3000億前後に膨らみ、生保各社が出し合う「保険契約者保護基金」を上限2000億まで拠出しても、約1000億足りないから。不足額1000億円を関係者に広く負担させようというのが大蔵省の意向。具体的には、保険契約者には保険料の引き上げなどで将来発生する損失への負担を求め、生保業界や保険加入者に融資した銀行業界、日立・日産グループには、それぞれ数100億円規模の資金援助を仰ぎたい。

グループ内で唯一、大蔵省の監督下にある日産火災海上保険を説き伏せて子会社化し、経営の中核を担わせる考えもある。しかし、生保業界内にさえ「信用もなく、再建中は配当もできな新会社の経営を、グループだからと数100億も出させて、押しつけのは難しい」との異論を呼んでおり、生保協会の今回の協力要請でも具体的な提案はできそうもない。これまでの破綻処理では、監督下の金融業界に対して「力でねじ伏せて枠組みを作ってきた」大蔵省だが、日立製作所や日産自動車は監督外だけに、金融秩序の維持を名目にした「奉加帳」方式は、通りにくくなっている。『グループの一員というだけでは、(資金協力)要請に応じる根拠にはならない』日立製作所が顧問弁護士や法務、財務、労務担当者を総動員した結果をまとめた内部文書は、こう断言する。文書は「日産生命は、日立と支配関係はなく「他人会社」である」とし、根拠のない資金支援は、「取締役の忠実義務違犯となり、株主代表訴訟の恐れがある」と結論づけた。

日産自動車も「資本関係はなく、経営上、深い関係にあるわけでもない」として、資金負担を否定している。とはいえ、両社と日産生命の関係はある意味深い。両社は戦前に傘下企業150社余り誇った「日産コンツェルン」の中核会社だった。日産生命の保険契約に占めるグループ企業の比率は団体で7割、個人で1/4に達しているほか、日立、日産両社は厚生年金基金の5%程度を日産生命で運用、日立で400億にのぼる。

日産生命の損失額は保険契約者保護基金でカバーできる範囲を超えているとみられ、破産となると両社にある程度の損失が及ぶ。このため、両社とも「全く支援しないとは言っていない。株主に説明できる妥当な処理策なら、それなりに応じることもある」と含みを残す。日立・日産グループが資金協力に慎重なのは、日産生命の傷が大蔵省などが言っているより深いのでは、と疑っていることもある。仮に日産生命の損失額を4000億とすると、総資産の2割に相当する。単純に計算すると、処理策が実施されずに日産生命が破産する場合、日立の厚生年金400億は80億の損失を出すことになる。同社にとっては、このあたりが支援の上限になるのではないか、と見られている。

日産生命の処理策に財界や企業トップも関心を寄せる。「拒否すべきだ」から「ある程度の負担はやむをえない」意見はわかれているが、日立・日産グループが処理の全面に出るべきだという声は聞かれない。「博覧会グループ出展ではあるまいし、グループだからといって負担を分担する必要はない」「時代が変ったのだから、経済原則にのっとって処理したほうがいい。私なら金は出さない」とクールな反応が目立つ。出資すべきだとしても株主にどう説明するか、曖昧な理由では株主代表訴訟を起こされてしまう、という懸念を口にだす経営者は多い。日産や日立の場合は、金融秩序の維持を出資目的にするのは難しい、ましてや単にグループだからというのは通らない。97/5/28

三洋証券『三洋証券倒産』(97/11破綻)

経営難に陥っていた証券準大手の三洋証券は3日、自力再建は困難と判断し、会社更正法の適用を東京地裁に申請した。負債総額は3736億円。証券会社が会社更正法の適用申請で倒産するのは始めて。大蔵省は同日夜、新規の売買取引を休止させる業務停止命令を出した。三洋証券は4日以降、顧客から与っている株の返還や、中期国債ファンドの換金などに限って営業を続け、他社への営業譲渡を検討する。三塚博蔵相は記者会見で「顧客の資産保護のに万全を期す」と述べた。三洋証券の破綻は、証券会社も淘汰される時代になったことを示すとともに、最後まで救済策を探ってきた大蔵省の金融・証券行政が限界に達したことを鮮明にした。

大蔵省は当初、三洋証券を国際証券と合併させ、国際証券ともども三和銀行グループ入させる方向で救済策を練っていたが、関係者の利害が一致しなかった。一方で、三洋証券が生命保険各社に要請していた総額200億円の劣後ローンの返済期限延長について、生保側が同証券の再建の見通しがはっきりとしないとして拒否したため、経営が一気に行き詰まった。三洋証券は、主力3行の緊急融資などで、資金繰りをつないできたが、先週、取引の解約や預り金の返還などの申込が殺到して連休明けの11月4日以降、資金繰りメドが立たないことが10月31日深夜になって判明。

大蔵省や日銀を含め、一気に会社更正法を適用する動きが強まった。三洋証券は、系列ノンバンク4社がバブル期の不動産融資の失敗で約800億の不良債権を抱え、うち462億円を本体が債務保証していたことから経営不安に陥った。94年に主力行と野村証券、生保各社による再建計画がスタートしたが、株式市場の低迷で本業の業績が急速に悪化。97年3月期で6期連続の赤字となり、人員削減などのリストラ策を打ち出したものの再建の見通しが立たない状態になっていた。三洋証券ー1971年10月に日東証券、江口証券、大一呉証券の3社が合併し、73年に社名を三洋証券に改称した。準大手証券会社の一角を占める。バブル時代の過剰投資の影響で、18億の経常赤字になった97年3月期決算まで6期連続の赤字。今年の9月中間決算も42億円の赤字。今年9月現在の従業員数は2646人。資本金397億6400万円。97/11/4

『競争なきものは去る』 本格的な金融淘汰の時代が始まった。相継いでいた金融機関の破綻に、また一つ三洋証券の名前が加わった。証券会社としては始めての会社更正法の適用申請となる。大蔵省の長年の護送船団行政のもとでは、競争力を失った金融機関も一緒に守られてきた。だが、破綻に備えて個人投資家を保護する『安全装置』が未整備な状況にもかかわらず、膨大な不良債権の重圧と金融行政の行き詰まりは、『競争力のない企業は市場から退場する』という市場経済の原則によってしか、金融機関の経営問題に終止符を打てないことを示している。

『4大証券は総会屋問題でひどい状態だし、それに次ぐ大きな会社がつぶれるなんて。これからどこで取り引きすればいいのでしょうか。』4日朝、開店を待ちかねたように三洋証券の支店にやってきた都内の男性はそう話し、戸惑いの表情を見せた。三洋証券の倒産で衝撃を受けたのは、こうした経営の実情を知る機会に乏しい個人投資家だけではなかった。膨大な情報が行き交い、たいていのことを誰かが知り、予測してしまう証券業界の関係者も同じだった。『三洋の経営が行き詰まる土壇場で大蔵省が助け船を出す』という読みが完全に外れた。これを反映して、4日の東京市場で準大手証券株が軒並み売られた。

山種、勧角、コスモ、第一、太平洋などの株価が100円前後の銘柄も続出している。銀行株も一緒。リストラ合併の交渉がうまくいかずに延期に追い込まれている北海道拓殖銀行が77円、北海道銀行が113円、再建中の日本債券信用銀行は143円と、東京証券市場に上場しいている大手企業の銘柄としては超安値になっている。株価の低迷は、金融機関への投資家の信用が著しく低下していることを反映している。以前なら、経営危機の兆候でも出れば、大蔵省が業界に奉加帳を回したり、関係の深い金融機関に面倒を見させたりして収めた。大蔵省が1995年以来4回にわたって、返済順位の低い劣後ローンの供与や延長を生命保険会社に求め、支えてきた三洋証券がその典型例。しかし、金融機関の姿勢は変わった。いくら大蔵の要請があっても、自らが不良債権で余裕はないし、株主代表訴訟が歯止め担って株主に説明のつかない資金拠出は今やとてものめない。三洋の倒産は、そんな変化を物語っている。

『保険契約者保護基金を増額するのは、第二の日産生命が出そうだからではありません』10月中旬、生命保険協会の午さん会に招かれた大蔵省の福田誠・保険部長は、生保各社の首脳陣に漂う不安を取り除くのに躍起だった。その直前に、大蔵が旧日産生命保険への資金援助で使い切った基金の積み増しを業界に求めたところ、『大蔵が破綻準備を始めた』との噂が広がっていた。生保業界は、大蔵省の要請で三洋証券に供給してきた劣後ローンが『紙屑』になった。資本増強のために生保各社が出している劣後ローンを株式に転換することを求めている拓銀の再建にも、影響が出てきた。

三洋証券が、無担保コール市場で始めて債務不履行となり、『危ないといわれる金融機関が資金を調達しようと思っても、ノーというところがこれかも出てくる』と市場関係者は見る。経営破綻した三洋証券の顧客の資産保護は、資産変換を肩代わりする寄託証券補償基金の拠出の上限を外すなど異例ずくめ。大蔵省の庇護(ひご)のもと『つぶれない証券会社』と前提にした投資家保護の仕組が、淘汰が加速するのに追いつかないところまできた。『三洋証券に限った特例』というが、破綻がこれで終わりという補償はない。証券界には基金への公的資金の導入を求める声も出ており、基金の充実策をめぐる議論が高まりそうだ。

『ささやかでも基金があるのが証券市場の安心感につながっている。その額が減るのは市場の信頼を落とすことになる』破綻証券会社の顧客の資産を補償する寄託証券補償基金の理事は、証券会社で作るこの基金は、残高が9月末で359億円。一社あたりの補償限度額は20億円で、いずれも『雀の涙』。1969年の発足後今年初めて、破綻した小川、越後両証券の顧客に適用されることになった。三洋クラスの破綻がもう一度あり、補償の上限が外されれば、残高が底をつきかねない。

証券各社は経営悪化などを理由に94年以降、基金への拠出をやめていた。日本証券業協会の行平次雄・会長代行(当時)は今年5月、基金への公的資金の導入を求める考えを表明した。しかし、大蔵省は住宅金融専門会社の処理に公的資金を使ったのが、厳しい批判を浴びたこともあり、消極的。投資家の自己責任でリスクをかぶるべきだという風潮が高まる中で、安易に公的資金に依存するのは避けるべきだという声も強い。97/11/5この時はまだ、拓銀・山一はまだつぶれていない。三洋の突然死がきっかけとして連鎖することになる。

『幻の「三洋・国際合併」の顛末』
経営難に陥った三洋証券を国際証券と合併させ、大手都銀の資本を入れて救済する。大蔵省証券局がそんな構想を練り始めたのは、今年の夏のことだった。6月末には両証券の首脳が懇談し、合併を見当する方向で一致。同じ頃、大蔵省から打診に三和銀行が名乗りを上げた。同行幹部はこう語った。『合併で強い証券会社ができる。

うちのバックがあれば、大手4社にもすぐ追いつくだろう。これで証券戦略は完成だ。業界は野村証券との2社体制になる』。構想は一気に進むかに見えたが、三洋が抱える系列ノンバンクの不良債権問題が壁になり、9月にずれ込む。三洋本体が計460億円の債務保証を予約していた。大蔵省の小手川大助・証券業務課長らが9月25日、東京三菱、大和、日本債権信用の主力3行を手分けして回り、債務保証を三洋の株式に振り返ることでようやく決着した。

この間、国際の大株主である野村が、国際株1000億円分を三和に売却する根回しも進んだ。構想の全体像は、三洋証券も知らされていなかった。両証券と三和、主力3行、野村。7人の登場人物。『7つの円が一致するのは、ほんの一点。綱渡りのスキームだった』と、小手川課長はのちに振り返った。大蔵省の恐れは、翌26日に現実になる。『三洋が国際に営業譲渡、三和の子会社に』と一部報道されたためだ。『もうダメだ。なかったことにさせてもらいます』。電話で迫る国際幹部に、小手川課長はこう忠告した。『営業譲渡も子会社も事実と違う。完全否定でいきましょう』

この日の部店長会議で、国際の松谷嘉隆社長は忠告どおりに強く報道を否定。三和も否定し、野村は沈黙を守った。カヤの外に置かれたいた三洋も、当然の事ながら否定のコメントを発表。これが以後行動を縛ることになる。最大の問題は、国際の社内事情だった。『なぜ三洋を引き受けるのか』『都銀子会社になる必要はない』。突き上げられた松谷社長は身動きがとれなくなり、以後、大蔵省との接触を避けるようになった。三洋の資金繰りはますます悪化した。

10月6日には、主力3行が計88億円のつなぎ融資を実行してしのいだ。『大蔵省から要請された。けさ、ペーペーが課長が来たよ』(主力銀行中堅幹部)。情報は金融市場をめぐり、報道機関にも伝わった。証券局は大臣官房から事情を聴かれた。『新聞に大蔵省の要請と書いてある。業者行政をまだやっているのか』。金融と財政の分離が焦点になっている行政改革議論を刺激したくない、との配慮だった。大蔵省と金融界に相互不信が芽生え始めた。この直後、長野証券局長は若手の課長補佐を呼び、会社更正法の適用を見当するよう指示した。

焦点は、来年10月末に返済期限を迎える生保各社の200億円の劣後ローンの延長交渉に移った。返済期限が残り1年を切ると、劣後ローンを自己資本に参入できなくなり、三洋証券の自己資本規制比率は一気に低下してしまう。

『三洋が抜本的な再建策を示せない限り、延長には応じない』と生保各社は何度も強調していたが、最終期限の31日、大手生保の首脳はこう打ち明けた。『頑迷固陋(がんめいころう)ではない。大蔵省が何か案を出せば話しは別だ』。しかし、長野証券局長は『大蔵は一切動かない。生保が自己判断で決めればいい』と突き放した。

すでに課長補佐から『会社更正法でいけます』と報告が上がっていた。大蔵省は1994年の再建計画から何度も救済策を練ってきた。生保首脳はこう話す。『三洋となんの関係もなかった生保が、大蔵省の要請で劣後ローンを提供させられた。大蔵省は最後まで責任を持つべきだった』。だが、金融界の暗黙の了解事項だった。『大蔵頼み』はすでに崩れ去っていた。97/11/5

大蔵から調子のいい準大手や中堅(大きくなれる)に打診があった。国際証券にとっては、大蔵と仲良くしておいて損はないし、大手にのし上がれるチャンスでもあった。どんな否定しても、もはや致命的に計画は頓挫してしまった。三洋と国際の合併計画がマスコミにすっぱ抜かれ、否定のしようがなくなった。必ずしも真実ではなかったのであるが、動きを封じ込める余波があった。事務次官は証券局局長を呼び出し然りとばした。『不透明な業者行政をやっては困る』。

行革による省庁再編で、大蔵省は分轄案を出されていた。合併を促すことで収拾を図ろうとしていただけにマスコミの記事、情報漏れで頓挫する。「マスコミに漏れたら、なかったことに」という約束があったらしい。こんな流れを受け、山一の救済は自主廃業の方向へと向かった。『事前説明に言葉を失った』(山一社長・野沢氏)。大蔵省の対応は、破綻が前提であった。山一側は大蔵省が助け船を出してくれるだろう、と甘い観測があったが、少なくとも外資との提携を模索しており、自主再建・合併による活路を見い出そうとしていた。

『三洋処理・残る裁量行政』~追加負担恐れる業界~

金融機関として始めて会社更正法適用申請した三洋証券の破綻について、大蔵省は「透明性が高い」と自慢する。しかし、実際には、大蔵省の要請で、証券業界や銀行業界が500億円規模の融資や贈与という負担をすることになった。いずれも「真の法的処理」なら不要な負担。

投資家保護システムが不備なことや、不健全金融機関を生き存えさせてきた大蔵行政のつけを回された形。大蔵省はようやく証券会社の倒産の際に投資家を保護する制度の改善に乗り出しているが、新制度が万全なものかどうか、はっきりしない。今後、淘汰される証券会社処理のために負担が膨らむ恐れがあり、金融界には不満と不安が広がっている。三洋証券が倒産を発表した3日午前。大蔵省と日本銀行幹部が、都内のホテルに三洋の大株主である野村証券と、東京三菱、大和、日本債券信用の主力3銀行の担当役員を呼び出した。「三洋は倒産する。投資家保護のために協力して欲しい」

証券業界が投資家保護のために設けている「寄託証券補償基金」が今出せる金額は320億円。三洋が投資家からの預り金で200億円を超える損失を発生させるために、この穴埋めをすると寄金は著しく減少する。野村証券は、他の大手証券と伴に基金を補填するように求められた。一方、主力銀行は、基金はすぐに現金を用意できないため、当座の資金を用立てることが要請された。「野村に100億、残る大手3社で計100億」。

翌4日には、早くも大蔵省が金額を示しながら証券業界に「強い要請」をしてきた。4社は了承したが、損失額が確定していない段階で「奉加帳」を回す大蔵省に不満が募っている。「今後、損失が膨らめば、さらに追加負担を求められるのではないか」という懸念も消えていない。「100億の上限に拠出する」と決めた野村証券は、その発表文に「蔵相から支援・協力をするように指示があった」と、あえて明記した。損失が出て株主代表訴訟を起こされても「大蔵省の指示だから」と抗弁するため。基金への拠出に応じながらも「本当は筋が通らない」というわだかまりが残っている。

主力3行も抵抗した。大蔵省や日銀は、多数の投資家が預り金などの返却を求めて三洋証券に殺到すればパニックになる、として「余裕を持って出して欲しい」と要請したが、ようやく6日になって、「基金の返済余力の範囲までなら」と300億を上限に融資することで決着した。今後、三洋からの預り資産が大量に流出すれば、メーカーなどと違って営業を続ける基盤に乏しい証券会社の自主再建は厳しく、営業譲渡も難しくなる。そのとき金融当局が新たな奉加帳を回したり、健全金融機関に救済を押し付けたりすれば、今までの裁量行政による破綻処理と何ら変らない。97/11/7

『劣後ローン30億「紙屑」に』
「大蔵省の恨むのは、自分の無能さを公言するようなもの。貸した時に再建の可能性を徹底して詰めておくべきだった」。倒産した三洋証券に貸していた劣後ローン30億が「紙屑」になってしまった住友生命保険の吉田紘一社長は反省しきり。同社を含めて生命保険9社が計200億の劣後ローンを貸し出したのは、大蔵省の強い要請によるものだった。このため生命保険業界からは不満が噴出している。「今後見通しのない貸付はしない。誰かの裏書きはあてにせず、自分の責任で行動するということです」という。北海道拓殖銀行から劣後ローンの一部を株式に変えるように求められていることについても「きちんとした銀行になる確信が得られることが条件になる」と慎重。劣後ローンは旧兵庫銀行(現ミドリ銀行)向けの一部放棄を大蔵省から強いられてからは、新規の提供をやめている。

北海道拓殖銀破綻『北海道の営業権・北洋銀に譲渡』

巨額な不良債権を抱え、経営不振に陥っていた都市銀行の北海道拓殖銀行は17日午前、事実上経営が破綻し、北海道内の営業権を第二地方銀行の北洋銀行に譲渡する発表した。また63店ある本州内の店舗網については、今後、受入先を探す。当面の資金繰りは日銀が無担保、無制限の特別融資することで補い、預金は全額保護する。拓銀の不良債権処理のために、預金保険機構が資金を拠出する。拓銀の経営陣は責任をとって、頭取以下取締役全員が辞任する。

都市銀行クラスの破綻は史上初めて、格下の第二地銀に飲み込まれる形で処理されることは、金融界の淘汰が本格し始めたことを象徴する。拓銀は今年4月、地方銀行の北海道銀行との合併を発表したが、道銀側が拓銀の不良債権に懸念を抱いたことなど、合併交渉は不調に終わり、9月に延期を発表した。一方で、大蔵省は拓銀への検査を10月からしている途中だった。債務超過状態の可能性が強いと見られている。この間に、首都圏を始めとする本州地区を中心に預金の流出が大幅に進んだ。拓銀の預金残高は、この5年間では94年3月期の8兆7000億がピークだったが、今年に入って預金の解約が進み、9月末には5兆9000億円と6兆円を割り込んだ。経営不安を反映して、拓銀の株価は先週、一時59円と額面50円割れ寸前の水準まで落ち込んだ。こうしたことに信用低下で、金融市場での資金調達も急速に悪化、他行に比べ高利の調達を余儀なくされ、経営体力の弱体化が加速していた。97/11/17

この日(97/11/17)の朝刊はもちろんこの記事が一面トップであったが、ワールドカップ出場をかけた日本代表とイラン戦(11/16夜)があった。延長で末、劇的な快挙の明るい話題に沸き上がった。前回の予選は「ドーハの悲劇」といわれ、もう少しで手が届くところまでいったゆえに「今度こそ」という期待は高かったのだが、前半戦は苦戦が続いた。韓国戦で逆転負けをして、カザフスタン戦では終了後、加茂監督が更迭されるなど、何度も自力出場が消えた。それだけに奇跡ともいえる終盤の快進撃であった。拓銀、破綻というニュースは大きな出来事だけに報道されたが、明るい話題にかき消される形になった。

1900年(明治33年)に設立された拓銀が100周年を目前に経営が破綻し、その歴史を閉じることになった。多額の不良債権の重荷に都市銀行の一角さえ崩れたことは、「大手20行はつぶさない」とした大蔵省の国際公約が頓挫し、「護送船団行政」が名実ともに崩れたことを意味する。拓銀の北海道での受け皿となる北洋銀行は第二地銀で、預金量は拓銀の3割ほどしかない。損失処理の財源としてあてにしている預金保険機構の財政状況も厳しい状況にあり、破綻処理の手段も行き詰まっている。

「護送船団行政」は、戦後の高度成長期に産業界への効率的な資金供給を促しつつ預金者や投資家を保護すること名目に「一行(一社)たりともつぶさない」を前提にした行政手法だった。

大蔵省は通達や口頭で、金融商品や店舗展開に競争制限的な規制をかけ、個々の金融機関の経営内容にまで立ち入る細かな行政指導をしてきた。金融機関は横並び体質に染まり、かごのなかで競争に明け暮れた。バブル経済期に一斉に不動産融資などにどっぷりと使ったのも、こうした体質があったから。大蔵省はバブル崩壊前、競争から脱落した金融機関を有力金融機関に吸収合併させる穏便な手法をとってきた。だが、バブル崩壊後の不良債権の重荷はそれを通用させなくした。

94年の東京協和、安全の2信用組合の破綻で日銀特融を発動して以来、コスモ信組、木津信組、兵庫銀行、阪和銀行と破綻が続いた。今年に入ってからは日産生命保険、三洋証券と生命保険、証券業界でも破綻が起きた。共通点は、余りの損失の大きさに、業界内で引き受けてが見つからなかったこと。拓銀もいったんは、大蔵省の支援の下で北海道銀行との合併方針が決められたが、多額の不良債権をめぐり道銀が難色を示した結果、合併延期に追い込まれた。その後も大蔵省と日銀は合併実現に側面支援を続けたが、市場では拓銀への経営不安が増幅していった。

大蔵省銀行局長は記者会見で、これまでひた隠していた情報である、拓銀が債務超過に陥っていた可能性があることを認めた。そうした銀行を合併で救済する構想自体に無理があったといえる。事業譲渡先は道銀ではなく、道内3位の北洋銀行。北洋側は大蔵省の強い要請で引き受けたことを明らかにしている。道銀も不良債権が重くのしかかっていることや合併交渉のこじれが残っているために、当局は北洋銀行を「受け皿」にせざるを得なかったとみられる。小が大を引き受ける処理策で、今後、北洋の増資問題が浮上しそう。97/11/17

メンツで倒れた拓銀・都銀の看板、本州店舗に固執

都市銀行として始めて経営破綻した北海道拓殖銀行。道内の営業権は北洋銀行に譲渡され、解体、精算される。北海道銀行との合併交渉が暗証に乗り上げた今年夏以降、預金の流出が加速、株価も低迷するなか、最後まで拓銀に資金援助をしていた山一証券が自らの信用不安で資金を出せなくなったことが、生き残りの道を断った。身を切るような合理化を避け、「都銀」の面子にこだわって、銀行の「命」ともいうべき預金の流出が続いても経営再建に強い指導力を発揮できなかった非力さが指摘できる。

拓銀の経営破綻が発表された17日、低迷を続けていた東京証券取引所第一部の平均株価は1994年1月以来3年10ヵ月ぶりに1000円を超える上げ幅となり、16000円台を回復した。「拓銀の経営破綻で信頼が回復された、といわんばかりだ」。昨年夏には370円近かった拓銀の株価は今年2月には一時、138円まで下げた。3月始め、全国ネットのテレビ番組が、拓銀を類推させる表現で「危ない銀行」を取り上げた。翌日から預金の解約が集中、3月に流出した預金は3000億円を超した。

拓銀の経営不安は、4月に発表した道銀との合併計画でいったんは歯止めがかかった。だが、それも束の間、道銀は拓銀が開示している不良債権に強い疑念を抱き始め、合併交渉は頓座。再び預金流出が活発化し、8、9月とも2300億前後の金が抜けた。結局、2月以降に流出した預金の総額は1兆円に達した。そこに三洋証券の会社更正法申請。金融機関の短期資金過不足を調整するコール市場で国内初のデフォルト(債務不履行)が発生し、拓銀の信用も一段と低下した。追い打ちをかけたのは、山一証券の経営不安説が金融市場に流れ込んだ。内外の金融機関から見放された拓銀に、コール市場を通じて最後まで融通していたのは、主幹事でもある山一であった。その山一の資金繰りの悪化で、資金調達の道は跡絶えた。14日には日銀準備預金の積立もできなくなった。

河谷禎昌・頭取はこの日の午後、急きょ上京した。大蔵省幹部が提示したのは道銀への営業権譲渡だったが、拓銀が拒否し、北洋銀に白羽が立った。拓銀には「経営破綻へと進んだのは、道銀が合併に反対したからだ」という思いがわだかまっていた。意地を見せた最後の局面でだったが「トップの決断はあまりに遅かった」との指摘が行内からも漏れてくる。道銀内部に合併反対論がくすぶりはじめると、道銀の藤田恒郎・頭取は単独で記者会見や懇談会を繰り返し開いて、拓銀の姿勢に疑問を投げかけた。「いい銀行を作れるめどがたたなければ、合併しても意味がない」「合併すればよいというのはいかがなもの」と。河谷頭取は「自分が反論すれば泥仕合」と口をつぐんだが、預金者や市場は「拓銀は道銀側の指摘が正しいから反論しないのだ。合併は困難で、拓銀の再建も危うい」と受け止めた。9月に合併延期を発表したとき、生命保険などを引き受け手とする1500億円の増資策を公表したが、生保側の反応は厳しかった。

拓銀はバブル期に不動産開発、建設のカブトデコムとのグループ向けに多額の融資を続けた。総額は2000億円を超すともいわれるが、バブル崩壊のとき、拓銀は融資総額がどのくらいか、実態すらつかんでいなかった。その一方で、「都市銀行」の看板へのこだわりは強かった。拓銀はバブル崩壊後も本州店舗に固執し続けた。合併交渉で道銀が再三、「本州から撤退しリストラを」と求めても、「本州で粗利益を4割を稼いでいる。撤退はできない」と繰り返した。しかし、流失した預金の大半は本州。「本州からの撤退すれば地銀と同じ」とメンツにこだわった。「道内だけなら預金高が貸出高を上回り、地銀と同じ財務体質。道内への回帰を積極的に進めていればコール市場への依存も減り、資金繰りに行き詰まることもなかったかもしれない。」と道内の金融関係者は指摘する。北海道開発の資金供給を目的に作られた拓銀。「親方日の丸」の漫然とした体質は、都銀という「民」への転換した後も行風となって続いた。97年の歴史を持つ「拓銀」も、グローバルなマーケットでは最後は「不良債権」の代名詞でしかなかった。そのギャップを意識の上でも埋め切れなかった経営陣や行員らが、この銀行を消滅に導いた。

1997年の動き4/01北海道銀行と984月をめどに合併と発表。 6/16英国・バークレーズ・グループと提携を発表。 6月下旬 不良債権の認識をめぐり北海道銀行との不協和音が表面化。

7/04拓銀がメーンバンクの中堅ゼネコンの東海興業がが会社更正法の適用申請。 9/02合併延期を正式発表。 11/17拓銀が経営破綻、道内の営業権を北洋銀行に譲渡発表。

北海道拓殖銀行の破綻解体

北海道拓殖銀行が、解体されることになった。北海道内の支店を、札幌に本店のある北洋銀行に譲渡するとともに、北海道以外の支店も順次売却し、最終的には拓銀はなくなる予定。都銀が経営破綻によってつぶれるのは初めてのことだ。

銀行の解体は、普通の会社ならば倒産にあたるが、銀行の場合、預金の取り付け騒ぎなど、経済全体への悪影響が大きいので、倒産という形はとらず、預金と貸出し債権を引き取ってくれる他の金融機関を探した上で、消えるという形をとる。拓銀の場合、営業の中心である北海道内の支店は北洋銀行に吸収されることになったものの、首都圏など他の地域の支店をどの銀行が引き取るか、まだ決まっていない。

拓銀の経営が破綻したのは、金融市場での信用が失われ、拓銀にお金を貸しても良いと考える金融機関が減ってしまったからだった。銀行は、日々の営業に必要な資金で足りない部分を、金融機関の間で短期的にお金を貸し借りする短期金融市場で調達している。だが、1980年代後半のバブル経済の時に急拡大した不動産担保融資が約1兆円も焦げついている拓銀は、市場での信用が失われてしまった。拓銀の資金調達難は今年3月にも発生したが、この時は北海道銀行との合併を発表することで回避した。その後、この合併話が破談になった9月にも資金調達が難しくなり、比較的高利の大口定期預金を集めることなどで何とかしのいでいたが、11月に入って三洋証券の倒産や株安の影響で、ついに行き詰まった。

以前なら、金融界における大蔵省や日銀によるコントロールが強かったので、いったんは資金調達が難しくなっても、大蔵省の指導により、他の金融機関などから金を貸してもらうこともできた。いわゆる「護送船団方式」の銀行経営である。だが、ここ数年間に急速に進んだ金融の国際化は、すでにそのようなやり方を許さなくなった。市場原則を貫けば潰れてしまうような金融機関を、お上の意向で存続させるのは不健全なことだという考え方が世界の主流となっている。それを無視していると、日本の金融界全体が不健全だと思われてしまうのである。

「ジャパンプレミアム」も背景に。拓銀の解体が発表される前の週、1114日にかけて、日本の銀行が資金調達する際の金利が、欧米の銀行よりもおしなべて高くなる「ジャパンプレミアム」が発生した。日本に対する信用がそれだけ失われているということで、日本の金融当局は、信用回復措置を取らねばならなくなった。10月末に香港の株価が急落して以来、日本を含む東アジア経済の成長が、欧米から疑問視されるようになった。その中で、金融機関の不良債権処理が進まず、景気が好転しない日本経済に対する不信感も強まった。1114日には東京の平均株価が約2年半ぶりに15000円を割り込んだ。

また、ドイツやアメリカの政府金融当局者が、日本の金融に対する懸念を表明したこともマイナスとなった。そうした中、日本の金融不安の象徴とされたのが拓銀だった。拓銀は今年9月、北海道銀行との合併計画が破談になって以来、経営を立て直すことは非常に難しいくなっていた。拓銀が中途半端な状態で存続している限り、ジャパンプレミアムはなくならない、との見方が強くなり、大蔵省と日銀が動くに至った。大蔵省と日銀は発表2日前の1115日、拓銀の再建問題に見切りをつけた。拓銀の経営陣に対して、銀行としての存続をあきらめさせるとともに、拓銀と同じ北海道を地盤とする道内第3位の銀行、北洋銀行に対して、拓銀の支店譲渡を引き受けるよう、強く求めた。こうして、北海道開拓が始まって以来100年の歴史を持つ伝統ある拓銀は、消えることになった。

「なにわ金融道」に負けた「道産子」。拓銀が破綻した最大の原因は、バブル経済の1980年代後半に、東京や大阪、札幌などの土地を担保に、不動産業者に対して巨額の資金を貸出し、それが焦げ付いてしまったことである。当時の不動産融資の乱脈ぶりは、拓銀だけのことではないが、拓銀の場合、バブルの恩恵が比較的少なかった北海道に本店を持っていたことが不幸だった。住友銀行をはじめとする他の都銀各行が、どんどん高くなる東京や大阪の不動産を担保に高金利の金を貸し込み、大幅な利益を上げているのを尻目に、拓銀の経営者は自分たちも「内地」に渡って一旗挙げねば、と思ったに違いない。

拓銀も1985年あたりから、東京や大阪の支店を通じて、不動産融資にのめり込んだ。当時、すでに首都圏の商業地の地価はピークとなっていた半面、関西の地価はまだ上昇を続けていた。そのため、拓銀は首都圏だけでなく、関西の不動産関連業者にもさかんに融資した。だが、通常の銀行業務なら、土地の評価額の7割程度しか貸さないのだが、バブル期は今後の地価高騰も見越して、その時の評価額の1.2-1.3倍もの金を貸していた。当時の金融機関の多くが同様の融資形態を取っていたのだが、拓銀の場合、東京や大阪に進出したのが後発だったため、融資の際、他の金融機関がすでに担保としている土地に、2番手、3番手の担保権を設定する形が多くなった。担保の順位が後になるほど、借り手の不動産会社が破綻した際、回収できる部分が減ってしまう。

1990年代に入り、バブル経済が崩壊すると、拓銀の不良債権も急速にふくらみ、未発表分を含めると1兆円を超えるようになった。拓銀は北海道では最大の銀行として殿様商売を続けてきただけに、金を返せない東京や関西の不動産業者から上手に取りたてるワザを持ち合わせていなかった。特に関西では、いわくつきの巨額の案件が焦げ付いた。「道産子」は、「なにわ金融道」に負けたのである。(当時、筆者は大阪で金融担当記者をしており、拓銀関係者の苦悩やため息を何回か聞いている)

「拓銀は傲慢」の不評がアダに。拓銀はもともと、北海道開発の資金を調達するため、政府系の特殊銀行として明治33年に設立された。当然、体質は関西系の都銀などと比べ、お役所的で、事業が失敗した際の建て直しは不得意だった。北海道では「拓銀は傲慢だ」という不評もあった。たとえば、札幌の不動産会社カブトデコムに対しては、バブルのころは自社の不動産部門のような扱いで1200億円を超す融資を行い、急成長させたが、バブルが崩壊するや、1993年には強引な資金回収へと態度を急変させ、カブトデコムの社長との資産争奪戦の結果、相手の社長を札幌地検に逮捕させてしまった。北海道全体のことを考えるべき拓銀が、こうした身勝手な対応をしたことが批判の対象となった。

今年3月、拓銀は貸出金総額に対する不良債権の割合が13.4%と、都銀の中で飛びぬけて多いことが分かり、経営不安説が広がった。都銀と長信銀はつぶさない、との方針を持っていた大蔵省は、拓銀を、北海道第2の銀行である北海道銀行と合併させる方針をとった。北海道銀行もバブル崩壊で経営が苦しかった上、北海道銀行の頭取が大蔵省出身だった。このため話は早く、3月末には合併の計画が発表された。拓銀が存続会社になり、来年4月に合併し、「新北海道銀行」と名乗るはずだった。だが、北海道銀行の行員たちは、合併に強く反対した。

バブルに乗って経営に失敗し、しかも「傲慢」との不評がある拓銀の経営陣が、そのまま自分たちの銀行を経営しにやってくるなどごめんだ、という理由だった。来年4月に合併するためには、合併に向けた具体策が今年9月末までに固まっている必要があったが、結局、両行の対立が解けぬまま、9月中旬、合併計画は無期延期となった。

合併延期によって再び拓銀の経営不安が広がり、拓銀はインターバンク市場での資金調達が難しくなった。株価も倒産警戒水準といわれる100円を割ってしまった。そしてその2ヶ月後、経営危機に陥っている拓銀を放置することは、日本の金融界全体にとってマイナスだとの声が強まり、拓銀はついに引導を渡されることになった。

金融機関の淘汰は長期的にはいい。拓銀の解体決定は、最近の三洋証券倒産や、山一証券の危機説などと合間って、非常に暗いニュースとされている。だが、不良債権を抱えたまま、自力での経営再建ができない体質の金融機関が多い以上、倒産や解体によって金融機関の淘汰が進むことは、結局は日本全体にとっては好ましいことになるはずだ。社債などを使った資金調達が盛んな欧米に比べ、企業の資金調達が銀行貸出し中心になっている日本では、昨今のような銀行の萎縮状況が続けば、いつまでも日本経済は回復しない。銀行の本来の大切な業務は、将来性がありそうな企業に対して融資することにより、経済を活性化させるということである。だが戦後、大蔵省の強力な規制の下にあった日本の銀行は、お上の言う通りに金を貸すことのみを求められ、企業が計画する事業の将来性を判断する鑑定能力が育成されなかった。

金を貸す基準は、担保の不動産だけだった。こうした不動産担保偏重の体制が、バブル経済を生み出すことになった。バブル崩壊後、企業に対する鑑定力が足りないままの銀行は、資金貸出しの際の基準を失ってしまった。そのため、将来性があるベンチャー企業でも、銀行からは融資を断られてしまう。経営が厳しくなった会社には、銀行はアドバイスするどころか、一刻も早く資金を回収しようと圧力をかける。(これを「貸し渋り」という)

多くの銀行が後ろ向きの経営を続ける限り、日本経済は救われない。しかも大蔵省と日銀は、金融機関が抱える不良債権の金利負担を少なくするために、金利を史上最低に抑えているから、預金者の金利は悲しくなるほどに低いままだ。拓銀の解体は、こうした悪循環を終わらせるきっかけとなりうる。金融市場はすでに、世界的に一体化しており、日本国内だけ世界と別のルールにしても回らなくなっている。金融が正常な姿になれば、日本経済も再び活性化する可能性が大きくなることは間違いない。971117

山一証券の自主廃業

老舗の看板もありトップの座にいたこともある。かつては王様だった。損失は会社が負担、手数料に依存。バブル崩壊後リストラも怠った。田中角栄・蔵相の時も危機があったが、急場をしのいで右肩上がりの急成長を遂げる。法人と馴れ合い、最近ではすっかり成長が終った産業が主な顧客だった。『飛ばし』を使い、損失を見せないようにぐるぐる回していた。お客の資産の目減りをごま隠すために、飛ばして負債がたまる。損失補填、大口顧客だけを大事にしていた。

『飛ばし』は、顧客企業の保有株に株価の下落で評価損が発生した場合、決算対策のため、値下がり前の価格で別の企業に一時的に買い取ってもらい、評価損を抱えた顧客の損失の表面化を防ぐ方法。転売を繰り返す間に株価が回復すれば問題は表にでないが、下落した場合は証券会社が引き取らざる得なくなる。「利回り保証」を条件に証券会社が仲介したり、損失補填につながるなどの問題がある。山一証券は、2000億円を超える簿外債務は海外を含む複数の子会社が持つ有価証券の含み損で、これらの有価証券は顧客企業から引き取った可能性が強い。巨額の簿外債務は「飛ばし」行為の結果、発生した。

損失を隠し、経営者は居座った。そして結局つぶれてしまった。98年4月1日、日本版ビックバンが始まる。その前日3/31に、4大証券の一角、山一が101年の歴史に幕を閉じる。ビックバンが始まる前に淘汰されてしまった。投資家や株主を軽視する姿勢、法人、行政に強かった山一の終焉は、右肩上がりの日本型経営の終わりを意味する。日本で4位のシェアを誇る証券会社であったが97年11月経営破綻、自主廃業を発表した。山一は創業100周年。日本で最古の証券会社である。3兆円の負債と帳簿外の債務があったといわれれ、戦後最大の超大型倒産である。4大証券のなかでも他の3つに比べて落ちる。それゆえに無理を重ねてきていた。三洋が破綻・貸し渋り・拓銀が破綻する一連の流れに、山一は拓銀に資金を貸していた。“山一が危ない”という情報が市場をめぐり、拓銀は資金調達が困難になり、顧客から一斉に解約が起きた。これではどんなにいい銀行でも潰れてしまう。結果的に拓銀にとどめを刺したのは山一だった。

『2度目の破綻』
金を貸したのだが、借りた相手が一向に返す素振りも見せないままに、ずるずると月日が経過し、一年、二年と過ぎてしまうとこちらから催促するとこもできなくなり、言えばかえってこちらが惨めになり、借りたほうは居直りの姿勢となり、逆に貸したほうの自分が愚かに思え、催促することにかえって罪悪感を覚えるという体験を持って人がいるのではないか。意識が奇妙な逆転をしてしまうのである。ただ、こういった場合、信頼を喪失してしまう。今回の山一証券の経営破綻はこの構図に酷似している。32年前の「山一特融」のテレビのニュース報道。今回の自主廃業と奇妙な一致に気づく。

昭和40年(1965)5月21日の金曜日の夕方だった。今回も3連休に突入寸前の11月21日の金曜日から22日の早朝にかけての発表。21日の金曜日というのが一致している。これは決して偶然ではないだろう。計画された発表である。休みで社員も一般顧客も動きの敏速さを欠く月末と曜日にちゃんと照準が合わされている。以前の場合は田中角栄蔵相の決断で、1週間後には日銀による救済資金の無担保・無制限融資が決まったが、今回は前と同様には進捗(しんちょく)しない。この直後に監督官庁の大蔵省の責任代表者である証券局長がテレビ、新聞で『言葉にならない』という言葉をいった。監督不行き届きの謝罪があってもよさそうなのだが、以前のように日銀特融みたいなのはない、寝耳に水の大芝居発言がこれを物語っている。

以前は日銀特融の後にいざなぎ景気が来た。ボーナスもバブル絶頂期まではたんまり入った。他の企業の比ではなかった。ボーナス(日銀特融)の恩恵に長いこと酔っていたことになる。そのつけが回ってきたと思うしかない。悲惨なのはローンを立てて自社株を買った連中。忠誠心が裏目に出て紙屑である。さらに490名の内定取消、7500人の失業が生じる。

『大蔵省の責任』
大蔵省が潰した”という意見もある。『海外には黒字支店もあり資産があり、一時的な資金繰りをつけてあげれば、なんとかなった。簿外債務は3%に過ぎず、債務超過ではなかった』というものだが、破綻後の処理過程で債務超過だとわかった。すべてを明らかにして健全化を図ろうとするのであれば、経営者の責任追及は避けられない。簿外債務の責任追及されることを恐れた行平は拒否する。記者会見で大泣きをした野沢社長も、会長の座にいた行平を切ることはできなかった。

ハードランディングは望まず、外資(メリルリンチなど)との合併を模索していた。合併をすれば信用が高まり吸収という形になれば、名前は残らないかもしれなかったが生き残る可能性はあった。山一の経営破綻を招いた旧経営陣らの法的責任は大きい。法的責任判定委員会が簿外債務による損失隠しを決めた元取締役らへの損害賠償請求訴訟の提訴を提言した。提訴の対象は、行平次雄、三木淳夫の両社長ら約10人。

山一には消えて欲しい”という大蔵省の意向が通った形になった。日銀特融を発動し“誰も文句をつけられない公的資金へ”という道筋づくりの試に山一は潰された。以前、住專問題で公的資金を使ったことに対して国民からは強い反発を受けた。巨大証券でも潰れる深刻な状況をアピールし、消費者の資産保護を大義名分とし、公的資金を使うことに世論は抵抗を示さない環境づくりに成功をした。むしろ公的資金を使えといった雰囲気まで起こりそうである。

『大蔵行政の破綻』
三洋証券、北海道拓殖銀行、純大手の証券会社、北海道で一番大きい都市銀行が淘汰される年であり、大蔵省の『都市銀行20行は潰さない』といっていた昔ながらの護送船団方式は目に見えて崩壊し、どうしようもなくなってしまった。大蔵省は三洋証券のときは、証券不祥事のなか比較的業績の安定していた国際証券に救済する形での吸収合併を目論んだが、こういったとき条件である、秘密裏に話しを進行することが出来ず、マスコミにすっぱ抜かれてしまった。

国際証券との合併がなくなり、さらに行政改革で、大蔵省事態が金融の分離、国税庁の分離といった解体論が話し合われているなか、すっぱ抜かれた記事は、裏で動いているという印象を与え、証券局は上層部(事務次官に証券局長が呼び出されて一喝された)の圧力に自らも動きを止められてしまった。何も手を打てず、三洋證券が会社申請法の手続きをとることになる。北海道拓殖銀行のときも同様で、北海道銀行(道内2位)と合併が一度は決まったが、北海道銀行が拓殖銀行の不良債権をはっきりさせないところを嫌い、不振を抱き、結局流れてしまった。

『金融機関はつぶれない』という神話は崩壊した。徳用シティ銀行、木津信用金庫(大阪)、阪和銀行、日産生命、小川証券、そして山一というビックネームまでも淘汰されてしまった。それは、1200兆円の貯蓄を持っている国民に強制的な低金利を強いて、国民に帰るべき金を銀行に与えて、不良債権をなくそうとした、この破綻を意味する。

『金融システム転換を』
三洋証券、北海道拓殖銀行、そして山一証券と、銀行、証券の破綻が続いている。拓銀は大蔵省が守ると国際公約していた主要20行の一つであり、山一は4大証券の一角を占める老舗だ。衝撃は大きい。しかし、最近の株価の動き、金融市場での資金調達ぶりの難しさ、格付け機関による降格が引き金になっていることを考えれば、市場はとっくに現在のあることを予測していた。それは、また日銀による救済劇がいかに透明性を欠いていたか、という警告でもあった。戦後、日本経済は驚異的な成長を遂げ、そのシステムは日本型モデルといわれるほど称賛された。

サンフランシスコ講和・独立直後、一人当りの国内総生産(GDP)は180ドル、アメリカの1/10に過ぎなかった。それが今や4万ドルを超え、人口1000万人以上では世界一になったのだから当然かもしれない。しかし、その頂点で実は歪みが始まっていた。いくつかのアラームが鳴っていたことを思い返したい。例えば、1980年代後半、行政の手厚い保護のもとにいる野村証券の法人申告所得がトヨタ自動車を凌駕して、「虚業」がモノづくりの価値を片隅に追いやったと評判になった時、さらに、さしたる理由もなく、株や土地などの資産価格がたった1年間でGDPを上回るほど膨張したにもかかわらず、日本経済のパフォーマンスは世界で一番良好と、うかれてしまったことを……

産業の発展と貿易で成長し、世界から蓄えた富を使うルールと知恵がなかったのだ。「追いつき、追い越せ」の戦後成長の過程では有効だった島国の「ローカルルール」が、頂点を極めた後も成熟した世界市場で有効と錯覚してしまった。

バブル経済崩壊後の90年代始め、大阪の小さな金融機関である東洋信用金庫が破綻したときに、闇の勢力との関係を言われながら、当時の大蔵省銀行局長は「あれを救済しなければ、日本の金融システムはそれほど脆弱なのか、と欧米から見られてしまう」とシステム危機回避を救済の理由に挙げた。それが、今の事態の遠因とも言える。「おかしなものはつぶす」という行政の透明性こそ求められたのだが「村の掟」で、しかも時々の政権の思惑で都合よく変えられる行政手法で処理してしまった。90年代半ばの住宅金融専門会社の破綻処理も、その延長線上にある。

「グローバルスタンダード」。今、金融に限らず、経済のルール再構築にこの言葉が強調されている。それは米国主体のルールとの批判がないわけでもない。しかし、冷戦構造が崩壊し、「対立」から「共有」へと、共通の価値尺度を模索しようと努めているときに、日本だけのローカルルールが通るはずもない。

国際貿易と国際金融市場で生きていく以上、国内のみに通用する処理方法や、総会屋の存在まで許している経営は「法治国家ではない」として、市場から弾劾される。その意味では、今は、危機が明確になっただけ、再生のチャンスをいかせる好機でもある、幸い明日、日本が沈没するわけではない。放置すれば危険性は一挙に増すが、工業を主体にした産業はまだ十分健全だし、競争力が世界トップクラスの企業も多い。踏はいし、質的転換に遅れたシステムは早急に壊し、再構築すべきだ。とはいえ、そのときの摩擦と金融不安が抱える隠された不良債権の巨額さを考えれば、たじろがざるを得ない。しかし、構造改革と日本版ビックバン政策の推進と併せて考えれば、避けて通れない道だ。

明確なルールに基づく恣意(しい)的でない、しっかりした破綻処理の枠組みを早急に作りあげることが緊急の課題だ。そのためには、公的資金の導入も積極的に議論すべきであろう。現在の日本経済の閉塞状況をもたらしているのが、不良債権処理の遅れと金融システム不安、そして市場の暴走の危険性にあり、その解決が大多数の国民の利益につながるとすれば、政府も立法府も臆してはならない。ただ、そのためには少なくとも最低3つの条件が必要だ。第一は不良債権に関するきちんとしたデータを国民の前に明らかにすること。そして、公的資金は存在価値の失われた企業の延命、後ろ向きの温存策には使わず、それを受け取る金融機関は責任をとる。しかも、経営不正があったら、関係機関は法的処理の手続きを公正に行うことが不可欠だ。公的資金入かなる形をとるにしろ、国民の貴重な資産を投入するのだから。同時に、日本人は情報開示が正確になされれば、冷静な分析と判断を下せる人達であることを忘れてはいけない。97/11/23

『メリルリンチの進出』
個人取引(リテール)専門の新証券会社の設立を表明していた米国の証券最大手メリルリンチは、社員の募集を始める見通しになった。新会社は経営破綻した山一証券を母体にして全国で約50店舗、社員約2000人規模で5月から営業を始める。山一はメリルリンチと提携交渉をしていたといわれる。提携することで信用力を増し、生き延びることを模索していたと思われる。結果的にこれがウォール街の鉄則なのであろう“弱っているものを買い叩く”助けるのではなく潰れるのであれば、そこからいい人材だけをピックアップして、使えそうな店舗だけを頂く。山一の社員7000人以上いるなかで採用されるのは2000人足らず。中高年は絶望的である。

『日本型システム』~持たれ合い対質に世界の不信が噴出~
『本部長がきてるぞ』ニューヨークの世界貿易センターにある山一証券の子会社、山一インターナショナル(米国)に本社の国際本部長、小笠原勇常務が昨年11月17日、突然姿を現した。エレベーターに同乗した社員の一言で、社内は騒然となった。海の向こうでは、北海道拓殖銀行の経営破綻が発表されたばかりだった。2週間前の三洋証券の倒産で、『次は山一か』と金融・証券市場の関係者の目が注がれていた。

『外資との提携か合併の交渉で、本部長が来たんじゃないか』『格下げを検討している格付け会社の訪問かな』。憶測が飛び交う社内の同様を抑えるため、本社からの派遣社員が約30人が会議室に集められた。不安げな顔が並ぶなか、常務は繰り返した。『もうすぐいい話しがある。安心して欲しい』社員たちは、外資との合併か提携の交渉が進でいると受け止めた。すがりたい思いと疑心暗鬼が交差した。『外資の傘下にはいれば、むしろ歓迎だけどな』『駄目なら、住み慣れたニューヨークともお別れね』。 

~ウォール街の鉄則~
事態は予測を超えて急展開した。本部長の訪米から数日で、外資との合併の発表もないまま、山一の自主廃業が決まった。『救済合併なんて甘い考えは外資には通じない。弱っているところは徹底的に買い叩く、というのがやはりウォール街のルールだった。』サラリーマン生活が足元から崩れて行くの感じた。外資との資本提携交渉に当たっていた幹部の一人は今、無念そうに振り替える。『最後の最後まで、交渉がまとまると信じていたが、あっとういう間に市場に追い込まれてしまった。』『交渉相手にしても、資産などを点検してからでないと決断できない。だが簿外債務があるなんていえなかった。』米国の格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービス社が昨年4月に山一社債の格下げの検討を発表してから、銀行間市場などで資金調達コストが上がり、借入枠が縮小され始めた。当時の山一格付けは、投資適格の最下位『Baa3』。さらなる引き下げは『くず社債』を意味するジャンク債への転落で、金融市場による死刑宣告も同然だった。実際、『投機的』ランクへの格下げは山一へ弔鐘となった。

日本の金融機関に対する国際金融市場の評価は、1995年秋の大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失事件をきっかけに、厳しくなった。株主や顧客を軽視しつつ、監督当局である大蔵省との『持たれ合い』を基本に運営されてきた日本の金融システムの不透明さに対する不信が、市場に噴き出した。その結果、邦銀がユーロ市場で資金調達するさいの金利が国際水準に上乗せさせる『ジャパン・プレミアム』が顕著になった。

金融破綻が相次いだ昨年11月、日本の金融機関への見方は一段と厳しくなり、ジャパン・プレミアム拡大に苦しむ都銀が増えた。加えて、国内で短期資金を調達するコール市場は需給が逼迫(ひっぱく)。そんな中で、山一が頼みとした富士銀行は、追加支援に二の足を踏んだのだった。『政府が支援に乗り出す可能性が薄らいだ』ことも、山一格下げの理由とされた。大蔵省はすでに救済の意思を欠き、日本型金融システムの行き詰まりは明らかだった。米紙ワシントン・ポストは『さよなら、日本株式会社』と題する社説で書いた。『山一の社長が泣いたのは、日本株式会社それ自体のためだったかもしれない』 

~『まるで粉飾決算』~
米マセチューセッツ工科大のポール・クルーグマン教授は『経済がうまくいかないと、システムの構造的欠陥のせいにしたがる傾向がある』としつつも、『日本型システムが多くの問題を抱えているのは確かだ。もっとも明らかなのは金融システムの欠陥だ』と語った。市場関係者の不信の矛先は日本のマクロ経済政策に向けられるようになった。ムーディーズはこの2日、『経済成長と財政収支改善のための政策合意を形成する日本政府の能力が不確かである』との理由で、日本の国債の格付け見通しを『弱含み』と発表。これをきっかけに市場で円が売られ、株価が乱高下した。

官僚が主導し、不透明かつ一貫性のない経済運営で迷走を続ける日本のありようが批判さらされ、通貨まで翻弄される厳しい時代がやってきた。しかし、『市場の反乱』の恐さや、市場が求める改革の方向について、政府はなお理解できていない。公的資金を投入し、3月期末の株価を強引に引き上げようと試みた。『PKO』(株価維持策)に、政府の無自覚ぶりが表われた。フリー、フェア、グローバル(自由、公正、国際化)という日本版ビックバンの原則を自ら踏みにじる行為だった。モルガン・スタンレー証券東京支店首席エコノミストのロバート・フェルドマン氏は『PKOで成功しても、それは粉飾決算に見える』と指摘。ゴールドマン・サックス証券のキャシー松井さんも『他の先進国なら絶対ありえない』と手厳しい。 

~苦痛と隣り合せ~
冷戦の終結とソ連崩壊以降、市場経済が地球規模に拡大した。通信手段の飛躍的進歩は、マネーや情報が瞬時に世界を動き回るのを可能にした。このグローバリゼーションのもと、各国の経済システムが変容をせまらている。深刻な経済危機に見舞われた韓国、インドネシアなどアジア諸国はもちろん、欧州諸国も、金融システムの改革などにも取り組んでいる。その背後には、世界の経済覇権を再確立しようとする米国政府と、米国系多国籍企業の動きが影を落している。

だが、『日本システム』については、改革の必要がしばしば語られる反面、その方向は混沌としたままだ。一方で我々は、巨大化した市場の『暴走』と呼ぶべき相場の乱高下で経済が大きな打撃を受ける危機に直面している。また、市場原理が競争を通じて経済社会の効率化に役立つとしても、それが倒産やリストラなどの苦痛を伴うほか、市場だけでは解決できない福祉や環境などの領域も大きい。貧富の格差が広がる懸念もある。この意味で『市場』の役割がますます巨大化する時代にこそ、改めて『政府』の機能が問われようとする。98/4/11 

『京華山一・日本参入へ』~旧山一香港・買収の台湾財閥、本社社員を再雇用~
自主廃業する山一証券の香港現地法人を買収した台湾の新興財閥・コア・パシフィック・グループが、日本の証券市場に参入する。同グループの沈慶京・総裁が17日、東京都内で記者会見し、香港の「京華山一国際」の日本現地法人を、東京都内に設立する計画を明らかにした。この「逆参入」によって山一廃業後も、国内の証券市場に「山一」の名前が残ることになる。コア・パシフィック・グループは17日、山一本社に、社員を再雇用する計画を提示した。

3月初めにも、大蔵省に事業免許を申請する予定。免許を取得でき次第、20人程度の証券業務を始めるが、事業の拡大に伴って社員を増やすという。沈・総裁は「将来は数千人単位という規模も考えたい」と述べた。コア・パシフィック・グループは台湾で、石油化学、建設、不動産、流通など幅広い事業を展開して急成長した財閥。傘下に台湾大手の証券会社「京華証券」を抱えたことから、昨年12月、山一の香港現地法人「山一インターナショナル」を買収することで山一側と合意。京華証券の香港法人と合併して、「京華山一国際」としていた。

山一から香港株のアナリストらを多数引き継いだうえ、中国企業株の主幹事を務めてきた実績なども受け継ぎ、アジアの有価証券の売買仲介や引受・募集業務、企業金融などに力をいれる。このため、日本に設立する現地法人でも、アジア市場への進出、投資を目指す日本企業の資金的な支援や、逆に、アジア企業の日本進出を手助けする事業を柱にしたい考え。沈・総裁は「日本では金融ビックバンの一環として、4月から外国為替取引が自由化される。そうなれば、アジアで金融資産を築こうという企業や個人が増えるはずだ」と、日本進出の狙いを述べた。98/2/18

『大昭和製紙の創業者一族・山一系列の茨城証券を3億円で買収』
山一証券系列の地場証券・茨木証券(竜ヶ崎市・資本金7000万円)は17日、山一証券などの山一グループ3社が保有する同社の株式約8万株(発行済み株式の57.8%)を大昭和製紙の創業者一族の元大昭和製紙専務の斉藤四方氏が引受、筆答株主になることが明らかになった。同社3月中旬に実施する第三者割当増資の8万株すべても引き受ける。斉藤氏は総額約3億円を出資し、発行済み株式24万株のうち約16万株(73.1%)を取得する。

斉藤氏は3月2日の臨時株主総会後の取締役会で代表取締役会長に就任する。斉藤氏は大昭和製紙の元社長の故・斉藤了英氏の4男。1995年6月に大昭和製紙の専務を退任した。斉藤氏は昨年夏ごろから、山一証券を通じて資本参加を打診していた。茨城証券は、茨城県内に2営業所を持ち、苅米社長は山一証券出身。従業員は27人。97年3月期決算の経常損益は683万円の赤字だったが、経営の健全性を示す自己資本規制比率は今年1月末で581.4%と高水準を維持している。98/2/18

『メリルリンチの上陸』「株式売買の仲介業を目指すわけではありません」「資産運用のアドバイザー(助言)会社」と自社を定義する。米国証券大手のメリルリンチが、経営破綻した山一証券の店舗と従業員約2000人を雇って今春、日本の個人投資家向けに設立した子会社が展開する。商品は国内外の株式、債券、投資信託など。ファイナンシャル・コンサルタント(営業担当)が顧客の年齢、家族構成、人生設計などを聞き、各々の金融商品の利回りと安全性の度合いを理解してもらった上で、最適のポートフォリオ(金融資産の組み合わせ)を提案する。「個人金融資産の豊富な日本で、まだ馴染みの薄いサービスだけに、拡大の余地は大きい」とロナルド・J・ストラウス社長、「3年以内の黒字転換」に自信を見せる。98/8/22 

『三洋電機も証券業』~旧山一系山源証券を買収~
三洋電機は、旧山一証券系で関西を地盤とする中堅の証券会社、山源証券(本社・大阪市)の株式を55%を山一グループ4社から取得し、証券業に参入したことを明らかにした。三洋の持つ情報家電技術を、証券の分野で展開することを狙っている。山源証券は、山一の経営破綻後、安定株主を探しており、三洋電機と昨年秋ごろから交渉を進めていた。三洋電機が取得した山源証券の株式は山一土地建物、山一エンタープライズ、山一証券研究所、山一情報システムの4社が保有していた461万8000株。山源証券が持つ個人投資家を相手とする小口取り引きの部門で経験を生かしながら、株式や投資信託のインターネットによる取り引きなど、新たな事業展開を進める。

三洋グループの社債などの引受も見当している。経営トップは留任させる考えだが、役員を三洋電機から派遣する方針。山源証券は資本金16億2000万。従業員は88人。預り資産は約370億円。電機業界ではすでにソニーなどが証券分野に進出している。99/4/17

山一證券は1897年に創業された。芙蓉グループ(富士銀行、安田生命、丸紅など)と親密で、日本の四大証券会社(山一の他は野村證券、大和證券、日興證券)の一つであった。特に法人関連業務に強く「法人の山一」と言われ、多くの日本の大企業の幹事証券会社であった。戦前には、日本最大の業績を持つ証券会社だった時期もあったが、1950年代から野村など他社に抜かれ、1965年の日銀特融以降は、四大証券の第4位となった。1997年に自主廃業したが、法人としての山一證券株式会社は、2005年まで存続した。

もともとは、個人顧客を相手にした証券会社だったが、戦後から法人営業に注力し、大口の物件を取る方針をとっていた。不況時には、企業の投資枠縮小に遭って業績不振に繋がった。また、相手が法人であることから、運用利回り保証や損失補償を迫られ、運用上の足枷が大きかった。また、一任勘定で発生した損失を引き取らせる事が困難で、それを山一側で引き受けざるを得ない状況に陥った。これが簿外債務となり、破綻の直接の原因となった。つまり不況による法人の弱体化、それによる株の損失が引き金となって自主廃業に追い込まれたのであり、このような経緯から山一の破綻はいわゆる「平成不況」の象徴的事例としてさまざまな場面で引用されることとなる。

日銀特融の経験
1964年から1965年の証券恐慌に際して、銀行出身者の日高を社長に迎え、リストラを行っていた。これが報道機関や顧客には山一の危機と映り、取り付け騒ぎを起こした。不安を解消するために日銀特融を受けて会社組織の再編を行ったが、その直後にいざなぎ景気が到来し、特融を早期に返済することが出来た。この経験が、あと少し頑張れば自力で再生できたという記憶を残した。バブル崩壊に際しても、しばらく持ちこたえれば日本景気が上向いて業績も回復し、簿外債務、含み損も消せるという期待に繋がり、損失を適正に処理することを躊躇させた。

銀行出身者の排除
銀行出身者の経営陣がリストラを行った事が取り付け騒ぎ、そして特融を受けざるを得ない状況へ追い込まれた原因と見る向きから、社内には銀行出身者を快く思わない風潮が蔓延し、排除する動きに繋がった。これは、山一が破綻に瀕した際に、銀行の積極的な支援を得られない要因ともなった。

法令違反
運用利回りの保証、損失補填、一任勘定については、1980年代末より批判が高まり、1991年に法律で禁じられた。しかし、表向きはこれらの行為が無くなっても、裏では一任勘定が継続され、含み損を抱え込んだ。後にこれらは簿外債務として山一の子会社に移された。これらの債務は決算の度に飛ばしで隠蔽されており、粉飾決算を行っていたことにもなる。また、総会屋を中心とする相手に対する不正な利益供与についての捜査も行われ、証券業界がダーティーな印象を持たれた。粉飾決算の件も含めて違法行為を行ったとみなされたため、特融を受けての再生は認められず、自主廃業を選択せざるを得なかった。

日高輝
19648月に大蔵省は検査の結果山一の危機を知ることとなった。メインバンクの1つであった日本興業銀行頭取の中山素平は、興銀同期入社で日産化学工業の社長をしていた日高輝にを再建のため山一證券社長に送り込んだ。山一の経営状態はマスコミの知るところとなったが、大蔵省が在京大手新聞社に報道自粛を要請したため、報道されなかった。ところが、自粛協定外であった西日本新聞が1965521日朝刊で1面トップ記事を載せた。

他の新聞社も同日付夕刊トップで一斉に追随した。翌22日は土曜日で半日営業であったが、山一各支店には朝から投信、株式、債券の払い戻しを求める客が殺到した。(取り付け騒ぎ)。28日午後1130分、田中蔵相と日銀総裁の宇佐美洵が記者会見し、「1. 証券業界が必要とする資金は日本銀行が無制限・無担保で融資する。2. 山一證券については興銀、富士、三菱の3行を通じて融資を実施する。3. 今後、証券金融について抜本的見直しを行う。」ことを発表した。1972年、日高は社長を辞任して会長となり、後任として植谷久三が就任した。

植谷久三
植谷の社長在任中に山一の預かり資産は10倍に増えている。しかし、他社も活発な市場で山一以上に業績を上げる中で、営業収入シェアは社長就任時の21%から辞任(会長就任)時には18.8%にまで落ち込んでいた。植谷は198012月に横田良男に社長を譲り、自らは会長におさまった。1987年に相談役に退いた。

横田良男
1984年頃から、後に営業特金と呼ばれるものが存在していた。法人の資金を一任勘定という自由に売買して良いという了承の下に預かり、運用するもので、考案者であった永田元雄常務の名前を取って社内では「永田ファンド」と呼ばれていた。横田は19859月に営業の軸足を法人へ移し、一任勘定・営業特金(「永田ファンド」)の獲得を最優先する決定を下した。

横田の次の社長の候補は2人いた。行平次雄と成田芳穂である。ここで、1986年に三菱重工転換社債事件が発生した。三菱重工業の依頼により、値上がり確実な転換社債を総会屋にバラまいたというものである。このバラまき先のリストを投資情報誌『暮らしと利殖』のオーナー生田盛が手に入れ、それを元に山一に揺さぶりを掛けた。困った山一は総会屋の大御所上森子鉄に仲裁を依頼する。上森が示した調停案は、行平を辞めさせるか、成田を社長にしろというものであった。

植谷は悩んだ末、行平を取締役から外し、ロンドンにある現地法人・山一インターナショナルの会長とすることで手打ちとした。誰もが行平社長の目はなくなったと思ったが、逆に植谷と横田は「リストを漏らしたのは成田だ」と信じ込み、成田に一切の情報を流すな」と社内に厳命した。そのため、成田は筆頭副社長でありながら社内失業状態となった。さらに、事件が明るみに出た。植谷自身が酒に酔って経済誌『財界』のインタビューに応えてすべての経緯を話してしまい、それが198612月号の記事となったものが、特捜検事であった田中森一の目に止まったのである。田中が調べたところ、有名な総会屋はほぼ全員転換社債の割り当てを受けており、しかもその資金も三菱銀行から無担保で融資されたことが判明した。

さらに、防衛官僚や政治家にも同様に三菱重工の転換社債が渡っていたという贈収賄疑惑があることもわかった。田中は成田を呼び出し、政官界を含めた転換社債とカネの流れについて取り調べをしようとしたが、成田はその数時間前に首を吊って自殺してしまった。結局、事件そのものも検察上層部の意向によってうやむやのうちに潰された。田中は嫌気がさして検察を辞め、闇人脈とのつながりを強めた。

その後行平次雄は帰国し、19889月に社長の座についた。行平の社長就任と同時に横田が会長に就任した。横田は1991年には健康問題から会長も退任し、20053月に亡くなっている。

行平次雄
山一證券は1987年から1990年にかけて毎年1,000億円以上の経常利益を上げていた。しかし、19895月からの数回にわたり公定歩合引き上げにより、高騰していた株価は198912月の最高値を最後に暴落を重ねるようになった。また、198911月には大和證券を皮切りに損失補填問題が発覚した。バブル崩壊により、「永田ファンド」=営業特金は多額の損失を抱えることとなったが、行平は根本的な処理をすることなく先送りを続けた。19926月、行平は健康問題を理由に三木淳夫に社長を譲った。

三木淳夫
三木が社長に就任した後も、事実上の決裁権限はすべて会長の行平が握っており、山一證券が簿外損失を処理することはなかった。1997325日、野村證券に対して東京地検と証券取引等監視委員会の家宅捜索が入った。容疑は総会屋小池隆一への利益供与であった。428日に発表された山一の19973月期決算は、1,6476,300万円という過去最大の当期損失となった。総会屋利益供与問題の責任を取って811日には行平・三木をはじめとする取締役11人が退任した。後任として社長に野澤正平、会長に五月女正治の両専務が昇格することが発表された。

野澤正平
924日には、前社長の三木が利益供与問題で逮捕された。106日、常務の渡辺と、前副社長の沓澤龍彦が富士銀行を訪れて、簿外債務の存在を明らかにすると共に再建計画を説明し、支援を求めた。1023日は山一の中間決算発表日だった。しかし、当日、東京地検特捜部が昭和リースに対する損失補填容疑で家宅捜索に入った。

記者会見は、27億円の経常赤字の発表と利益供与事件拡大の謝罪で終わった。1111日、富士銀行から最終回答があった。1. 劣後ローンは富士からは250億円程度が限度で、あとは他行から借り入れてほしい、2. 過去に無担保で融資した分について早急に担保を差し入れてほしい、という内容であった。1114日金曜日。野澤は、大蔵省証券局長の長野厖士に対して簿外損失の存在を初めて説明した。翌1115日土曜日、大蔵省証券業務課長の小手川大助は長野の指示を受けて山一の藤橋企画室長から説明を受けた。なおこの日、山一が主幹事を務め最後まで資金供給を行っていた北海道拓殖銀行が経営破綻している。

1119日、野澤は再度大蔵省に証券局長の長野を訪ねた。長野は「感情を交えずに淡々と言います。自主廃業を選択してもらいたい」と通告した。

1122日土曜日午前3時頃、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」という電子ニュース速報を流した。急遽、役員たちが集められ、午前8時から臨時取締役会が開催された。

19971124日は月曜日だったが、振替休日で休業日だった。午前6時から臨時取締役会が開かれ、自主廃業に向けた営業停止が正式に決議された。午前1130分から社長の野澤正平、会長の五月女正治、顧問弁護士の相澤光江が東京証券取引所で記者会見に臨んだ。

自主廃業発表後、顧客保護を理由にあわただしく無担保の日銀特融が実施された。日銀特融はピーク時で12千億円にのぼった。1213日、常務業務監理本部長の嘉本隆正が委員長となって、社内調査委員会が発足した。326日にレポート『社内調査報告書いわゆる簿外債務を中心として』は完成し、416日に一般に公表された。

199834日、行平と三木の元社長2人、ならびに元財務本部長の3人が、最大2,720億円の損失を隠して虚偽の有価証券報告書を作成したという証券取引法違反の容疑で東京地検に逮捕された。行平と三木にはさらに、粉飾決算の容疑がついていた。20003月に、行平と三木に有罪の判決が下された。初審で執行猶予が付いた行平は判決を受け入れたが、実刑判決だった三木は控訴し、控訴審では執行猶予となっている。

自主廃業発表以降事務処理を進めたが、19986月の株主総会で解散決議に必要な株主数を確保できなかったことから自主廃業を断念せざるを得なくなった。そのため破産申立てをすることに方針を転換し、199962日に東京地方裁判所より破産宣告を受けた。破産宣告後の手続は、債権者の多さや、海外資産の整理に手間取ったために長引いたが、最終的に2005126日の債権者集会をもって終了した。同年2月に破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。小池国三による創業から107年あまりが経過しての終焉であった。

山一本社所属の従業員や店舗の大多数は米国の大手金融業メリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。なお、最後の社長野澤正平はIT業界に身を投じた後、再び証券業界へ復帰しセンチュリー証券(20066月より日産センチュリー証券)の代表取締役社長となっていた(2009年退任)。 

丸荘証券が倒産

中堅証券会社の丸荘証券は23日東京地裁に自己破産の申し立てて倒産をした。負債総額は440億円。過去に販売した外国債券に絡む損失を抱えたまま経営を続けるのは難しいと判断した。証券会社の自己破産申請は、1968年に免許制になってからは初めて。証券業界では、三洋、山一に続き今年5社目の破綻。

顧客から預かっている資産のうち現時点で30億円以上が返せないとみられ、寄託証券保証基金が限度額の20億円を超えて全額保証する。丸荘は97年3月期決算で14億7585万円の経常赤字になり、3期連続の経営赤字だった。現在は約80億の債務超過になっているという。バブル崩壊後の相場低迷で、営業収益はピーク時の約146億円から20億前後まで落ち込み、業績不振が続いていた。

この間、買戻条件付きで販売したメキシコ国債を組み込んだ商品が、メキシコ通貨危機で含み損が発生。顧客から買い戻した後、今年に入って顧客離れが進んだために新たな買い手見つからず、現時点で売却損と評価損あわせて約57億円の損失を抱えた。丸荘証券は50年、互興として創立。54年に社名を丸荘証券に解消し、東京証券取引所の正会員になった。社債の引受主幹事などができる「総合証券」ではなく、個人投資家や中小企業を対象にした株式売買中心の営業を展開していた。従業員は150人。

日本長期信用銀行の破綻経緯

『長銀・スイス銀提携』日本長期信用銀行とスイス銀行(SBC)は、両社の提携の柱となる合弁証券会社『長銀ウォーグバーグ』の営業を6月1日から始めると発表した。提携に基づく合弁会社は4月発足の長銀USBブリンソン投資顧問に次2社目。(後に国会で長銀処理策が話し合われているときに、提携は解消された。)

『住友信託の長銀吸収合併』
住友信託銀行は、巨額の不良債権を抱え、抜本的な経営再建を急いでいる日本長期信用銀行を吸収する救済合併を発表した。対等合併にはならず、存続銀行は住友信託銀行になる。これを受けて、金融監督庁は直ちに長銀の検査にはいるが、住友信託は長銀の正常債権だけを引き受ける。長銀の不良債権については、整理回収銀行による買い取りや「受け皿銀行(ブリッジバンク)」への移行の他、長銀の自己資本による穴埋めなどが検討されている。

新銀行には、預金保険機構の資金援助が行われる見通しで、日本銀行は合併を全面支援することを表明した。住友信託銀行は住友グループの中にあるが、住友銀行と余り仲が良くない。ある種の特殊なケースの破綻処理である。長銀関係者にとっては耐え難いこである。日本の戦後産業復興の立て役者であるのが日本長期信用銀行であった。それが普通銀行ではなく信託銀行に吸収される。98/6

(結局、最初から「うまくいのか?」と囁かれていた通りに、住友信託による救済合併案は暗礁に乗り上げた。不良債権を明らかにしない長銀の姿勢に不信感を招いたのであるが、すでに超過債務に陥っていた長銀にとっては隠さずにはいられなかった。)

『巨大銀行の破綻』平成4年不良債権に取り組み出した。経営陣にも把握できないほど脹らんでおり、事業推進部を不良債権のセクションに立ち上げた。関連ノンバンク、バブル期に不動産向け融資など2兆円を超える融資が回収できなくなっていた。90億円をイ・アイ・イ・グループへ融資していた。742億円の本社ビル建設をしていたが、経営が行き詰まる。しかし、それでも長銀は融資を続けてビルを完成させる。完成したビルは受け皿として関連会社に買い取らせる。関連会社には長銀から400億円が融資されている。ビルにはテナントを入れ、テナント収入で利払いをおこなう。

元本は減らなくても、利払いが行われていれば不良債権と見なされることなく正常資産とされる。将来、地価が回復すれば、元本が回収できるという思惑を抱いていた。さらに資金を投じる「事業化」を行うことで、不良債権を表沙汰にすることを回避することができる。横並び意識も強くあり、ソフトランディングの方法をとらざるを得なかった。

平成5年、長銀の新しい本社ビルが完成する。受け皿会社を使った「事業化」が評価され、事業推進部は処理を進めていく。しかし、融資の担保となってビルを受け皿会社に引き取らせる「事業化」の方法は、次第に成果が上がらなくなり、行き詰まりを見せてくる。受け皿に融資をして買い取らせ、利子を事業化によって払わせていたが、事業化が難しい土地が持ち込まれるなど、受け皿会社に赤字を抱えてしまうことになる。次第に目的とは違う不良債権隠しに使われるようになる。

融資を打ち切ると巨額の不良債権が表面化してしまい、不良債権を隠すことだけに融資するようになる。事業化という名目で受け皿に抱えさせていった。事業化による成果が思惑通りにいっていないことは、長銀内部でも伏せられていた。部店長会議でも、事業化による成果が強調されていた。

事業化できない土地を買い取るための表札だけのペーパーカンパニー「軽井沢総合開発」。事業化できないような山林を買いとらせる。しかし、土地もペーパーカンパニーも利益を生まないから、利払いをすることができない。そうすると不良債権となってしまうので、追加融資をおこない不良債権に見せないようにしていた。利払いもできないところに、できているように様に見せるための追加融資が行われていた。受け皿会社を使っての融資は、大蔵省も監督庁も問題にはしなかった。

長銀には“今をしのげば自体が変わる”しかし、思惑は外れ不動産価値は下がり続ける。地価の回復を前提にした事業化は、受け皿会社への融資額を膨らませていった。推進部からも事業化をやめた方がいい、という声が上がる。売れる土地は売ってしまい、損失は出るものの、いくらか回収し、きれいに清算してしまうハードランディングの方法であるが、他の銀行などの横並び意識などから拒否された。回収不能は300社ちかく、2兆円に上った。深刻なのはノンバンクで、長銀の経営に直接跳ね返ってくる問題であった。

部店会が開かれ、事業化による成功例ばかり説明されていたのであるが、8000億円と説明していた不良債権は、2倍の1兆4000億円と発表され部外には洩さないように口止めされた。しかし、これには受け皿会社、ノンバンクは含まれてはいなかった。海外との提携で切り抜けようと大野木頭取は模索していた。独自での処理は不可能なところまで追い詰められていた。平成9年7月、スイス銀行(SBC)との提携。長銀は新しく生まれ変わると胸を張り、行員にも不安が解消されたかに思えた。しかし、不良債権は伏せられたまま、事業化を見直すことなく、推進部の人間でさえ「どうするのかな?」と引っかかっていた。都銀の一角、拓銀が破綻し山一証券が自主廃業した。銀行は潰れないという神話が崩れていた。

提携をしたスイス銀行(SBC)が同じスイスのユニオン銀行(USB)と合併が発表された。これで長銀が提携が見直されると憶測が市場に広まった。株価は7月には700円ついていたが、200円に落ち込む。再建案を発表したのにもかかわらず投資家に信用されず、長銀発行の割引債は売れなくなっていった。

「誰も長銀発行の債券を買ってくれない恐怖心」。これが表沙汰にできない大きな理由であったが、現実のものとなってしまった。思いきったリストラをしないと市場の不信感は拭えない、という行内の声に押され、大野木頭取は、3500人の行員を20%を減らし、不良債権は5000億円の圧縮の再建計画を発表した。圧縮額が少なすぎるという行内の反発もあったが、大野木頭取は、あくまでもソフトランディングの選択をとり事業化に融資を続けた。821日大野木頭取が辞任。鈴木恒夫が就任。鈴木恒夫は推進部の責任者で、状況を理解し旗振り役を務めてきた。

10月には額面割れ50円にまで落ち込む。事業化の名目で隠すこともできなくなっていた。1023日破綻認定。26000円の債務超過であった。バブル崩壊から不良債権は重要課題と認識して取り組んでいたが、事業化は膨らませる結果となってしまった。「先送りできるものは先送りしよう」という日本的な経営と長年大蔵省の護送船団方式によるぬるま湯的な経営が結局は破綻に導いてしまった。

日本債券信用銀行の破綻経緯

日債銀は長銀、興銀と供に債権を特権的な銀行であった。日本の高度成長には潤沢な資金を供給する重要な役目を帯びてきた。しかし、高度成長は過ぎ去り、役目は終えている。米や英の規制緩和に伴い、何でもできる百貨店型の銀行がスタンダードになるなか、発生時から分業化、特化したこの3行は存在を許されなかった。

『融資が出資に「なぜ化ける」、日債銀支援』 生命保険14社は、3日までに、経営再建中の日本債券信用銀行からの要請に応じて、合計1550億を出資する方針を決めた。大蔵省などがまとめた2900億円の増資計画の4割に当たり、再建策の正否がかかっていた。生保業界は、将来の追加支援の要請を懸念して、増資要請を難色を示してきたが、最終的には「金融秩序の安定」を大義名分に受け入れた。「理屈に乏しい奉加帳への参加はこれで最後にさせて欲しい」との不満が高まっている。

生命保険会社の増資額は、各社が日債銀に対して貸し付けている劣後ローン(利子は高いが返済順位の低い融資)の残高に比例して決められた。生保各社は「日債銀の大株主となって再び経営支援を求められる危険性はあっても、今回の再建計画を潰した場合の損も大きい」と、最終的に判断した。だが、「融資」と「出資」という本来は性格のことなる資金提供を強引に結びつけた要請に、「劣後ローンがどうして株式に化けるのか」との不満はなおくすぶっている。

純粋な投資判断でなく、大蔵省などから「陰に陽にお願いされて」日債銀に劣後ローンを融資してきたケースもある。全例になりかねないという警戒感も出ている。これに懲りて、今後、「銀行からの(劣後ローンの)要請に容易の応じない」生保が増えそうだ。

そもそも生保各社が日債銀の増資協力を渋った背景には、米国の大手銀行バンカース・トラストとの業務提携や今回の増資を含む再建計画の経営改善効果に、投資家として納得していない、という基本的な問題がある。再建計画を応諾する条件として、経営破綻した日産生命の処理への銀行業界の支援を取り付けたり、銀行窓口で保険商品の販売の解禁時期を遅らせてもらったりするべき、する意見も業界の一部にあった。市場の原則を離れた半ば押し付け的な「奉加帳」方式は、日債銀問題にとどまらず、多方面に波及しかねない雲行き。97/6/4

『自社株買い支え』~8300万株、関連11社通じ~
日本債券信用銀行が1995年8月から昨年6月にかけて、不良債権受け皿会社「九段開発」などの関連会社11社に、計8300万株の日債銀株を買わせていたことがわかった。自行の株価下落を防ぎ、経営悪化を隠して信用を維持することが狙いだったとみられ、計158億円に上る買取り資金の多くは日債銀が融資していた。

日債銀の内部調査委員会関係者は「日債銀のダミー的存在として取得した可能性が濃厚」と指摘しており、原則として自社株の取得を禁じている商法の手指に反する恐れがある。東京地検特捜部と警視庁捜査二課も経緯を把握し、昨年3月期決算の粉飾につながる事業と見ている模様。

日債銀は昨年12月に破綻し、国有化された。結局、日債銀株は無価値となり、関連会社への融資の焦げ付きは最終的に税金で穴埋めされることになる。関連会社への融資の焦げ付きは最終的に税金で穴埋めされることになる。関係者によると、系列ノンバンクの経営悪化などで、日債銀の経営不安説表面化した92年頃から、取引先の会社や機関投資家の間で、日債銀株を売却する動きが目立ち始めた。

株価を急落すると信用不安を起こす恐れがあった。このため、日債銀は動向の株を買取る受け皿として関連会社を利用する方針を決定。少なくとも95年頃から、大口の売りが出た場合には、すでに融資していた運転資金を流用させたり、新たな融資をしたりして、関連会社に日債銀株を買取らせていたという。日債銀株を買っていたのは、「長浜地所」「シティ開発」「ラピュタ」など、九段開発を中核とするグループ。日債銀や系列ノンバンクの不良債権の担保物件を買取るなどの目的で作られた受け皿会社。多くがペーパー会社。

株の買取りは多数回に及び、3000万株以上を引き受けた会社もあった。特に「クラウン・リーシング」など日債銀の系列ノンバンク3社が破産する直前の97年1月から3月にかけては、集中的に株を引き受けていた。拓銀や山一の破綻をきっかけに金融機関の株が相継いで売られた同年11月から12月にかけては、4000万株以上を買い支えていたことになる。こうした工作は、日債銀の総合企画部や、不良債権処理を担当する事業推進部などが中心になって検討されていた。日債銀の株価は95年当時、400円前後で推移していた。その後、系列ノンバンクが破産した97年4月には、160円台にまで、落ち込んだ。同年11月以降は100割れも記録したが、一時国有化直前の昨年12月11日の終わり値は158円だった。99/7/21

日本債券信用銀行
かつて存在した長期信用銀行3行の一つで、債券発行銀行。19574月、旧朝鮮銀行の残余財産を基に、不動産抵当貸付に主眼を置いた銀行として、長期信用銀行法に基く日本不動産銀行として設立された。1977年に日本債券信用銀行に行名変更。長らく割引金融債「ワリシン」(旧名「ワリフドー」)、利付金融債「リッシン」(旧名「リツキフドー」)、「リッシンワイド」と共に日債銀(にっさいぎん)の愛称で親しまれた。199812月に経営破綻し一時国有化され、2000年に投資グループに売却された。2001年、あおぞら銀行に行名変更。

旧朝鮮銀行の国内残余資産で設立
前身ともいうべき朝鮮銀行は、190911月に韓国銀行の名称で設立され、19118月の朝鮮銀行法の公布によって朝鮮銀行と改称された。以後、36年間にわたり朝鮮および関東州における中央銀行としての機能を果たしたが、第二次世界大戦終結によって閉鎖機関に指定され、いわゆる特殊清算が進められた。

19538月、閉鎖機関令改正によって清算後の国内残余財産による新会社設立の道が開かれた。以後、清算事務と並行して新会社設立構想の具体化が進められた。新会社の構想では、“これ以上、長期信用銀行は不必要”との意見もある中、紆余曲折の末、最終的に「中小企業向けの長期資金の貸付を主要業務とし、不動産を抵当とするものに重点を置く」新銀行を長期信用銀行法に基づいて設立することとなった。

19574月、株式会社日本不動産銀行が資本金10億円で設立され、朝鮮銀行最後の副総裁で清算責任者であった星野喜代治が初代頭取に就任した。

195710月に大阪支店を開設し、以降1964年までに主要経済ブロックに計8支店を開設して全国ネットを整備し、196710月には東京都千代田区九段下に新本店を建設した。またこの間、19649月に東京証券取引所第2部に上場、19662月に同第1部に指定替えとなった。

高度経済成長期
日本不動産銀行設立時における日本の経済は、高度経済成長期に入り始めた頃であり、中小企業などの旺盛な資金需要ともあいまって業績は開業当初から急速に拡大した。195711月から利付金融債(期間5年)、翌195810月から割引金融債(期間1年)発行を開始し、利付金融債は金融機関の引き受けを中心に、割引金融債は個人向け貯蓄手段として、いずれも順調に発行量を拡大した。1960年代に入ると、対象顧客が、それまでの中小企業を重点とした運営から、中堅企業、さらにそれらの親会社を中心とする大企業との取引も次第に拡大し、本来的な長期信用銀行としての基盤確立が進められた。

また、不動産金融については、不動産担保金融にとどまらず、「長期信用銀行としての独自性」を発揮する分野として取り組みが図られた。1964年には「積立フドー」による住宅融資が開始され、また1965年からは建設業・不動産業・私鉄業が「重点3業種」と位置づけられ、事業金融の性格を持つ不動産金融として推進された。

1960年代後半に入ると国債発行開始によって金融債の消化にも少なからぬ影響が生じた。このため、金融機関による消化に加え、割引金融債を中心とした自力消化、証券会社を通じた販売が「債券消化の3本柱」として位置づけられ、組織の強化、店舗の拡充、新商品の開発などが進められた。196910月には第4代頭取として勝田龍夫が就任、翌19708月、経済社会構造の変化や経済の急速な国際化に対処するため、「長期経営計画」(7ヵ年)を策定、同時に大幅な組織改革を実施して、権限の委譲などによる組織運営の効率化が進められた。

1970年代前半は業務の国際化が進展し、外国為替業務をはじめ、シンジケートローン業務などが拡大したほか、197412月にはユーロ市場で初の外債が発行された。海外拠点は、197110月にニューヨークに初の駐在員事務所、19744月にはロンドンに初の海外支店を開設した。また、197412月に初の外債1,500万ドルを発行している。 

石油危機からバブ経済
不動産銀行”という行名からも分かるように不動産融資に注力してきたが、もともと長期信用銀行として最後発であり存立基盤が薄く、また不動産融資が主力業務であることは、日本列島改造論後の不動産不況で多額の不良債権を作り出し、早くも1970年代後半には経営不安がささやかれるようになる。その前身から民族系企業や韓国外換銀行などとの取引が多く、不動産取引を通じて“闇社会”との接点をもち、ダーティーイメージのある金融機関であった。

こうした中、1973年の第1次石油危機に伴う不況の中で、長期経営計画の見直しなどの対応が図られ、経営の効率化が進められた。197710月には創立20周年を機に、行名を株式会社日本債券信用銀行に変更、不動産担保金融より債券発行銀行としての路線転換を強調する狙いも込められた。

1980年代になると、組織改革のほか行内情報処理体制の構築などが積極的に進められ、銀行法の改正などによる金融自由化、国際化の進展などへの長期的対応が図られた。1982年には長期経営計画「PROJECT30」(5ヵ年)が策定され、1985年には環境変化の早さに対応するため、融資・債券・証券・国際業務などあらゆる機能を活用した「総合営業」が推進された。

特に国際業務面では、全業務の国際化と海外営業力の強化が図られ、海外支店・駐在員事務所拡充の他、ロンドン・オーストラリア・スイス・ドイツなどに現地法人が設立された。また、新たに認められた公共債の窓口販売、ディーリング業務についても債券発行銀行としてのノウハウを生かして当初から積極的に取り組みが行われた。1987年以降は、自己資本の充実、ALMなどによる財務・収益構造の改善が進められた。

しかしバブル経済当時、前任の勝田龍夫同様ワンマン体質を引きずる実力者・頴川史郎(19479月東大経卒・興銀を経て1964年入行。総務部長・業務推進部長を経て1970年取締役、1972年常務、1975年副頭取、198211月頭取、198712月会長、19926月相談役)は「暴力団相手だろうが、無担保だろうが、貸して・貸して・貸しまくれ」、「千代田(日債銀破綻の原因の一つとなる系列ノンバンク・千代田ファイナンス、後の日本トータルファイナンス)を見習え。たった2年間で融資残高を1,000億円から4,000億円に増やしている」と積極融資の大号令をかけていたと言われ、結果としてバブル崩壊後に膨大な不良債権を作り上げることになる。

なお、勝田は自ら日債銀設立に関わった後、1969年から18年間、頭取・会長として実権をふるい、19915月に死去するまで名誉会長の座にあった。その強引ゆえに、気に入らない部下は左遷・降格で経営中枢から遠ざけられたという。この結果、”行内で『派閥』がない”=”「事なかれ主義」のイエスマンがはびこっているだけ”の企業風土が形成されたとされる。

一時、本店駐車場を右翼の街宣車に利用させており、また、19843月に発覚した「東北の政商」と呼ばれた小針暦二福島交通会長への過剰融資は、最終的に500億円を超える不良債権として経営を揺さぶることになる。さらに、金丸信を“カマキリ紳士”の符号で無記名金融債口座を管理し、結果として巨額脱税に一役買っており、1993年には当時の松岡誠司頭取が国会に証人喚問されるなど、“政治家の貯金箱”とまで言われていた。なお、この処理に際して、日債銀の不良債権11,212億円を大蔵省が把握していながら、当時の幹部(山口公生銀行局長・中井省銀行局審議官)は各金融機関に対し「日債銀の不良債権は7,000億円」と説明していたとの報道がなされている。

バブル崩壊と経営破綻
1991年以降バブル崩壊によって、ノンバンクや不動産業向け融資が巨額の不良債権となって、経営を圧迫し始めた。保有株式の売却や債権買収機構などを積極活用し、1993年から実施された中期経営計画(3年間)の下で新たな対応が進められた。しかし、日債銀の経営危機はさらに深刻化し、1993年に窪田弘元国税庁長官、1996年には東郷重興元日銀理事をそれぞれ経営首脳に迎え、事実上大蔵省・日銀管理銀行となる。19944月には海外より全面撤退、またクラウン・リーシングなど系列ノンバンク3社を破綻処理し(クラウン・リーシングの負債は約11187億円で、現在でも日本最大の破産である)、19963月期決算は初の赤字決算となる。

こうした中、19973月には自己資本比率が国内基準の4%を割り込む水準まで低下する。再建策として19973月大蔵省が中心となり、全支店の売却および各金融機関および新金融安定化基金(日銀拠出を含む)よりいわゆる奉加帳増資で合計2,900億円を調達している。当時の日債銀・資本勘定の3倍に相当する金額であったが、引受側の各金融機関には東京証券取引所規則により「原則として割当株式の2年間売却凍結」との制限が付いた。これが後々に、日債銀株価の奇妙な安定を裏で支える要因となる。続いて19983月に金融危機管理審査委員会(委員長・佐々波楊子慶大教授)の決定で、600億円の公的資金を注入した。また19984月、バンカース・トラストと業務提携する。

1991年から行われていた不良債権をペーパーカンパニーに付替える、いわゆる「飛ばし」行為による粉飾決算は、1993年に松岡誠司頭取時代以降により本格化する。当時の会計基準では、連結決算が重視されていなかったこともあり「飛ばし」行為は厳密には粉飾決算では無かった。また、日債銀の場合、旧朝鮮銀行時代や来島ドック・福島交通に関する不良債権を「飛ばし」処理することで、景気回復後に適宜償却できた成功体験があった。1995年、こうした不良債権処理は本店事業推進部に一本化されるが、何れにせよ根本的な再建策は採られていなかった。

また、19983月期決算について、279社を格上げ査定し、不良債権の取立不能見込額の過少処理・貸倒引当金の大幅圧縮(後に粉飾決算として刑事立件)を行っている。同時期、外資系金融機関、特にクレディ・スイスグループが販売するデリバティブ取引を組み込んだ金融商品を利用した不良債権隠しも行われていた。ちなみに、この金融商品は、日債銀のほか北海道拓殖銀行・東京相和銀行・足利銀行・中部銀行といった後に経営破綻をする金融機関を中心に少なくとも60社がこれを購入、1992年から5年間で飛ばされた不良債権総額は判明分で約5,700億円、その間、クレディ・スイスが得た手数料は340億円とされている。19995月の金融監督庁検査でクレディ・スイスはこの取引資料を組織的に隠蔽し、当時の支店長が銀行法違反で逮捕され、法人自体も行政処分を受けている。

1998年、マーケットは同じく長期信用銀行で経営危機に陥っていた日本長期信用銀行に関心が集中していた。株価下落と資金繰りに行き詰ったことによりマーケットから退場を迫られた長銀は、同年10月に特別公的管理下・国有化に入った。その後の関心は、小康状態を保っていた日債銀に向かっていたが、同年12月、金融庁検査で実質2,700億円の債務超過が認定され、金融再生法により、特別公的管理下・一時国有化が決定された。

当時、日債銀の株価は低位であるものの安定し資金繰りにも問題がなかったことから、その破綻認定に対してはマーケットの意外感が強かった。また、日債銀も行政訴訟により抵抗する構えを見せていたが、結局は認定を受け入れることになる。

投資グループに売却
2000年 ソフトバンク、オリックス、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)などから成る投資グループに売却され、直後の20009月、次期社長にも内定していた本間忠世頭取(元日銀理事)が不可解な自殺を遂げる。翌年2001年には現社名である「あおぞら銀行」に変更。

この売却にあたり、金融再生委員会と預金保険機構は、日本債券信用銀行の債務超過を穴埋めするため、32,428億円の公的資金投入を行った。この結果、1998年に投入した600億円を含め、実質的国民負担額は、金融機関の負担する預金保険料1,714億円を差し引いた31,314億円に上った(公的資金投入額のうち、一時国有化月時点の不良債権処理費用は31,497億円。国有化後に発生した損失は931億円とされる)。但し、この数字には瑕疵担保条項によって、国による不良債権買い上げによって生じる損失は、考慮されていない。

責任追及
199812月、その後、窪田元会長・東郷元頭取ら旧経営陣3名は、粉飾決算による証券取引法違反容疑で逮捕された。20045月、一審・東京地裁は 3名に対し、有罪判決(窪田元会長は懲役14月、東郷重興元頭取、岩城忠男元副頭取は懲役1年、いずれも執行猶予3年)を言い渡した。20073月、二審・東京高裁は窪田元会長に控訴棄却・有罪を言い渡したが上告を受けた最高裁判所は200912月に二審判決を破棄差し戻し、東京高裁で審理中。

また日債銀破綻後にその不良債権を引継いだ整理回収機構(RCC)は20019月、頴川史郎元会長ら旧経営陣11人に対し、「バブル期の放漫融資に深く関与していて、不良債権の原因を作った経営陣らの民事面での責任追及が可能」として、総額45億円の損害賠償を求める提訴をした。20043月、東京地裁は、恒吉克章元副頭取ら2名に対しRCCの請求通り5億円の支払いを命じる判決を下した。

また、20045月、東京地裁は、RCCの請求を全面的に認め、頴川元会長ら旧経営陣に40億円の支払いを命じる判決を下した。その後、200512月、東京高裁にて合計2億円の賠償支払で和解が成立した。賠償額の内訳は頴川元会長が4,000万円、松岡誠司元頭取ら8人が計16,000万円を連帯して支払う内容となっている(告訴された11名の内、1名が控訴取下げ・1名は200410月に東京高裁で和解が成立していた)。

ちなみに、“日債銀破綻のA級戦犯”と名指しされるも、時効により刑事立件を逃れた頴川史郎の役員退任時の退職金は約6億円といわれる。日債銀は損害賠償とは別に、頴川史郎元会長ら旧経営陣16人に対して総額19億円の退職金の自主的返還も要請した。全員が返還に合意したものの、これまでの返還額は計約25000万円にとどまっている。こうしたなか、200737日、頴川は死去、享年84

なお、窪田元会長・東郷元頭取に対しては、そもそも不良債権を築き上げた当事者ではなく”敗戦処理”に駆り出されたこと、また、日債銀破綻当時は、金融危機の中で、金融行政や企業会計制度が大きく転換する時期であり、こうした中での刑事立件は関係者を中心に同情論も根強い。ちなみに、東郷元頭取は、20006月より受託充填業界大手ダイゾー社長に就任している。

東邦生命の破綻

東邦生命1898年に「微兵保険株式会社」として設立された中堅生命保険。医療保険にい定評があったが、バブル崩壊に伴う多額の不良債権が重荷になって経営が悪化した。1998年4月に米ノンバンク大手の「GEキャピタル」に営業権を譲渡し、合弁会社「GEキャピタル・エジソン生命保険」の営業を始めた。東邦本体は新規保険契約は募集せず、既存契約を管理する契約保全会社なっている。99年3月末の個人保険の保有契約高は16兆3802億。99/6/5

経営が悪化した中堅生命保険会社の東邦生命保険は、自力再建を断念し、金融監督庁に「経営の存続が困難である」と申し出た。不良債権の追加処理などで、約2000億円の超過債務になることが確実なため。これを受けて金融監督庁は、保険業法に基づいて破綻認定し、同社に対して解約などの一部業務を停止し、資産を保全するように命じた。生命保険会社が破綻した場合の既存のセーフティーインターネットである「生命保険契約者保護機構」によって、当面、多くの契約は保護されるが、商品によっては最終的に受け取る保険金が減額されたり、今後支払う保険料が引き上げられたりする可能性がある。生保の破綻は1997年4月の日産生命に続き2件目。東邦生命の破綻で「セイホ不信」が広がれば、体力の弱い生保の経営に悪影響を与えそう。

東邦生命は、99年3月期決算について、会計監査法人「トーマツ」と有価証券の含み損などの評価で意見が食い違い、承認が得られなかった。このため、3日に開いた臨時取締役会で事業継続を断念することを決議した。金融監督庁は保険業法に基づき、保険管理人を選任して同社に派遣する。東邦生命は管理人の下で、同社の保険契約を引き継ぐ受け皿が見つからない場合は、保険業界でつくる生保契約者保護機構が保険契約などを引き継ぐ。受け皿がきまるまでの間、同社は保険の解約などの業務は停止するが、事故や死亡などの伴う保険料の支払い、保険料の受領などの業務はこれまで通り続ける。

2001年3月末までの特別措置として、原則として、保険契約のうち、個人の死亡保険や入院給付金は、当初の契約通り全額が保証される。しかし、個人年金や団体年金などの保険金は減額される見通し。個人年金はこれまで積み立ててきた部分は全額保護される見通しだが、今後積み立てる部分については当初の契約条件を変更し、一定の利回りを保証する「予定利率」が低くなる契約者が出てくる。契約時の予定利率が、現在、新規契約に適用される利率より高い時は、最終的に受け取る年金などは減額される。団体年金なども減額される。生命保険会社には今年4月から、保険金の支払い余力(ソルベンシーマジン)比率の水準に応じて、経営改善の促す「早期是正措置」を導入した。ただし、9月末までの半年間は「経過機関」とし、措置の発動を猶予することになっている。経営不信の生命保険が多いなか、金融当局の対応が遅れた。

東邦生命保険は、昨年米ゼネラル・エレクトリック・グループのノンバンク、GEキャピタル(GEC)に営業網の全面的に移管するという「抜本的な生き残り策」を打ち出してから、わずか1年あまりで破綻に追い込まれた。外資導入により生き残りを図ったが、長引く景気低迷もあって不良債権が重荷になり、既存契約負担も広がり、資産内容は悪化していた。バブル期に契約した5%を超える利回り(予定利率)を保証した顧客を抱え、低金利による運用難から生じる「逆ざや」も経営をじわじわと追い詰めた。

東邦生命は昨年4月、GECと合弁で設立した『GEキャピタル・エジソン生命』に営業網を全面的に移管した。新会社の社長は東邦生命から出したものの、議決権はGECが9割を握り、東邦生命の営業職約7300人の全員と内勤職員約3000人の8割がGEキャピタル・エジソン生命に移った。一方、東邦生命はGE側から営業謙譲との対価として700億円を受け取り、さらにGEエジソン生命が獲得した新契約の3~5割を10年間に渡って東邦生命に再保険に出すことより、GEエジソン生命の収益の一部を東邦側に移転する計画だった。東邦生命側は逆ざやを考慮に入れても、10年間で350億円程度の黒字が見込める、と見通していた。しかし、この時、東邦生命側が示した将来の収支計画は、毎年5%の株上昇を見込み、将来の運用環境の想定など楽観的な前提に基づいていた。

東邦生命が経営難に陥った大きな理由の一つは、有価証券の含み損と、バブル崩壊以降に膨らんだ系列ノンバンク向けなど不良債権だった。不良債権の重荷は営業網売却後の東邦生命の経営も圧迫し続けた。東邦生命の今年3月末の不良債権(第2、3、4分類再建の合計)は、約2600億円に上った。長引く景気の低迷や地価の下落で、貸出資産の悪化に歯止めがかからず、監査法人の厳しい指摘もあって、1999年3月期決算で約2000億円の超過債務に陥った。また、昨年9月末の個人保険の契約高(補償額ベース)は約17兆7400億円で、前年同期比で約20%減少していた。東邦生命の経営の先行きに不安を感じた顧客や満期を迎えた顧客が離れていった。既存契約だけの維持管理会社だったため、保証利回りの低い新規契約の増加で契約全体の平均補償利回りが下がることもなかった。不良債権の巨額な処理負担と歴史的な低金利、保険契約者の不安心理が東邦生命の再建を行き詰まらせた。

1898年    「微兵保険株式会社」として設立。

1947年    戦後の相互会社への転換で「東邦生命保険相互会社」となる。

1994年6月 海外投資で576億円損失し、94年3月期決算で生命保険初の198億円の経常損失を計上。

1995年6月 95年3月期決算で2期連続の経常赤字になり、大田清蔵・社長が責任を取って退任。18年の長期政権にピリオドを打つ。

1998年4月 米大手ノンバンクの「GEキャピタル」との合弁の新会社「GEキャピタル・エジソン生命」が営業を開始。東邦生命から700億円で営業権を買い取る。東邦本体は既存契約の維持管理と資産運用業務に専念する再建策を発表。

1998年5月 創業100周年。

1999年6月4日 金融監督庁、東邦生命に業務停止命令。

阪和銀行破綻

関西圏を中心に展開していた第二地方銀行。和歌山県(本店を含め32店舗)をはじめ、大阪府(19店舗)、兵庫県、東京都(各1店舗)に支店があった。19961121日に経営破綻。破綻前の本店は和歌山市八番丁に存在した。なお、旧阪和銀本店の跡地は、現在、和歌山市消防本部・和歌山市中消防署の合同庁舎となっている。

  • 1925年 紀南無尽株式会社が、和歌山県田辺市において設立される。以後、1926年までに、新宮無尽株式会社・福徳無尽株式会社が順次設立される。

  • 1941年 同年8月までに、上記3社が順次合併を行い、興紀無尽株式会社となる。

  • 195110月 相互銀行法の施行に伴い、相互銀行に業態転換。株式会社興紀相互銀行に商号変更。

  • 19892月 第二地方銀行化。株式会社阪和銀行と商号変更。

  • 1989121日 大阪証券取引所第2部市場に上場(使用していた証券コード:8557)。

  • 199385日 阪和銀行副頭取射殺事件。

  • 19953月 系列のノンバンク会社2社を清算。本体である阪和銀は無配に陥る。

  • 199577日 最後の頭取となる新居 健(しんきょ たけし)が、当時の大蔵省(現在の財務省)から就任し、経営再建を任ぜられる。

  • 19961121日 中間決算の発表が出来ず、そのまま経営破綻。大蔵省より、銀行法第26条に基づき、預金の払戻し以外の業務の停止命令を受ける(日本の銀行としては戦後初めての事態)。

  • 1997222日 上場廃止。

  • 199749日 破綻後、救済金融機関が現れなかったので、阪和銀の預金払戻しのための銀行として株式会社紀伊預金管理銀行(きいよきんかんりぎんこう)を設立。

  • 19971131992年当時の頭取であった橋本竹治ら5人が、不正融資の疑い(商法の特別背任容疑)で逮捕される。

  • 1998126日 紀伊預金管理銀行に阪和銀の営業を譲渡。同日、阪和銀行は解散。

  • 2002331日 紀伊預金管理銀行が解散。払戻し請求の無かった預金は、和歌山地方法務局に供託された。同行は同年627日に清算完了。

  • 2003131日 第5期臨時清算総会により清算完了。(なお、この時点まで阪和銀行株券は名義書換が可能であり、年1回株主総会も開催されていた)

阪和銀行副頭取射殺事件
1993年に起こった殺人事件。20088月、公訴時効を迎えた未解決事件。199385日午前750分頃、阪和銀行副頭取(当時62歳)が和歌山市の自宅から出勤するため、ハイヤーに乗り込んだところを男に拳銃で撃たれ死亡した。犯人の男は年齢40才程度、身長165センチから170センチ、服装はうす緑色の作業服上下を着て、サングラスと白いヘルメットを被っていた。4年後の1997年、阪和銀行が複数の暴力団・右翼団体などの反社会団体に対して不正融資を行ったとして、和歌山県警に特別背任容疑で阪和銀行幹部が逮捕される。

不正融資事件の捜査の結果、警察は阪和銀行が「特殊案件貸し出しリスト」を作成していたことを見つけ、暴力団・右翼団体などの反社会団体に総額145000万円の不正融資をしていたことが発覚した。この不正融資事件には殺害された副頭取も嫌疑にかけられていたが、死亡していたため書類送検止まりで起訴されなかった。警察は不正融資事件と副頭取射殺事件が結ばれているとして捜査を進める。また、犯人は銃の扱いに慣れていること、阪和銀行の不正融資が射殺事件に関連しているとして、暴力団や右翼団体などの闇社会の犯行を視野に捜査を進めるが、物証が少なかったために犯人特定ができなかった。
山口組宅見組関連の融資だけでも1000億円以上で、1500億円とも言われる。実際のところは闇に包まれた。

第二地銀破綻(99年度)

東京相和銀行

昨年9月末時点で、1200億円程度の債務超過状態であったことが明らかになった第二地方銀行の東京相和銀行は、今後大幅な資本増強が迫られることになった。永田庄一会長は4日、「自己資本比率を(国内銀行基準の)4%に戻すため、必要な額を増資する。禁じられた迂回増資のような手法はとうぜんもうしない」と語った。しかし、同行のこれまでの資本増強策の中味は、経営危機に陥った金融機関の同士の「もたれ合い」関係や、不透明な資金の流れが目立っている。大蔵省に提出された株式大量保有報告書によると、1997年の増資を引き受けた系列会社の東総開発は、引き受け資金のうち289億円の借入金で賄っている。特別公的管理(一時国有化)下の日本債券信用銀行や、多額の不良債権を抱え経営が行き詰まっていた福徳銀行(現なみはや銀行)などから借りている。

一方、なみはや銀行が98年12月に実施された増資では、5月に経営破綻した幸福銀行系のハッピークレジットが10億円を引き受けている。幸福銀行も今年3月の東京相和の増資に際して、東京相和系列の東総ビルサービスに50億円を融資し、引受資金を提供した。経営不振に陥った金融機関がお互いに増資を支援し合った形となっている。

大蔵省告示によると、金融機関同士が意図的に株式の持ち合った場合、その額の自己資本から差し引く。増資が難しい金融機関同士が示し合わせて、自己資本をかさ上げすることを防ぐため。しかし、東総開発の様な第三者を間に挟んだ場合については明白な想定はなく、増資が可能だった。99/6/5

なみはや銀、破綻認定

金融再生委員会は、7日、自力再建を断念したなみはや銀行(本店・大阪)を金融再生法8条に基づく破綻銀行と認定し、金融整理管財人を派遣して国の管理下に置くことを正式に決めた。管財人のもとで7日以降も通常通り営業する。預金は全額が保護され、借り手への融資も続けられる。なみはや銀行は旧福徳・なにわ両行が大蔵省の斡旋で合併したが、合併からわずか10ヶ月で破綻について柳沢委員長は、「当局はベストを尽くしたが、こういう結果になって大変申し訳ない」と陳謝した。管財人の派遣による破綻処理は、銀行では4行目。

日本銀行は同日、日銀法38条に基づく無担保、無制限の貸出(日銀特融)を決めた。金融監督庁が7日に公表した検査結果によると、今年3月末時点の不良債権は単体ベースで、なみはや銀行の自己査定と比べ1748億円多いと指摘。適切に処理すると1117億円の債務超過状態だったことが分かった。不良債権が大幅に増えた理由について、金融監督庁は、不良債権を元の債務者からの事業会社などに移して返済させる形の「飛ばし」が多く、新たに第3分類(回収に重大な懸念がある債権)としてきした1985億円の大半を占めたことを明らかにした。なみはや銀行は1998年10月、経営不振銀行同士の再編を促す「特定合併」制度の唯一の適用を受けて誕生した。

その半年前の98年3月末時点の旧福徳・なにわ両行に対して、当時の大蔵省が検査を実施していた。その際、検査の終了を急ぐため不良債権額の特定だけにとどまり、十分な不良債権処理をしてきしていなかったことを再生委などが7日、明らかにした。このため、再生委は当時の両行が債務超過だったかどうかを大蔵省が直接判断できなかった、と説明しているが、この点が今後の焦点になりそう。柳沢委員長は「両行の決算発表時に特定合併すると発表して預金者を安心させる必要があった」と検査を急いだ理由を説明した。「(制度)過渡期ゆえの満足ではない検査になった」と、不十分だったことを認めた。99/8/8

『なみはや銀行破綻、銀行洗い出し一巡』
なみはや銀行の破綻で、金融再生委員会・金融監督庁による問題銀行の洗い出し作業は一巡したといえる。柳沢・金融再生委員長は7日の緊急記者会見で「早期是正措置を受けている銀行も一定の(改善)見通しが出ている。その他すべて健全銀行。これ以上、不幸な事態を抑えないと期待している」と述べた。昨年夏、日本長期信用銀行の経営不安が深刻化したのをきっかけに、金融監督庁検査部は日本銀行考査局の手を借りて、大手銀行、地方銀行、第二地方銀行の合計約140行への一斉検査を初めて着手した。

それも今月4日のなみはや銀行への検査結果の通知で、すべて検査が終了した。それまで3~4年に一度の割合で実施してきた検査では、銀行によって融資先企業の査定の厳しさに大きな開きがあった。それを一斉に実施したのは、堅めの査定に物差しをそろえ「不良債権隠し」をあぶり出す狙いだった。昨年6月に発足した金融監督庁が新しい検査のあり方を示す機械でもあった。今後の焦点は、不良債権の抜本的処理がこれから始まる地方銀行のなかに、資本不足の銀行が出てくると見られること。

金融再生法適用に破綻処理■

決定日      金融機関 処分

98/10/23 日本長期信用銀行 特別公的管理

98/12/13 日本債券信用銀行 特別公的管理

99/ 4/11 国民銀行 管財人派遣

5/14 三重県信用組合 管財人派遣

21 足立総合信用組合 管財人派遣

21 日本信販信用組合 管財人派遣

22 幸福銀行 管財人派遣

6/ 4 信用組合大阪商銀 管財人派遣

12 東京相和銀行 管財人派遣

18 東京都教育信用組合 管財人派遣

8/ 7 なみはや銀行 管財人派遣

 

破綻した第二地銀・受け皿探し正念場

経営破綻した第二地方銀行の国民銀行(本店・東京)、東京相和銀行(本店・東京)、幸福銀行(本店・大阪)の金融整理管財人らが、受け皿探しの前提となる各行の資産査定作業を急いでいる。受け皿探しは、いくつかの金融機関などから、「打診は来ている」ものの、まだ具体的なめどは立たない状態。受け皿探しが遅れれば優良貸出先が離反するなど、資産が劣化していく可能性が高く、管財人は秋口以降、交渉を本格化させる方針。しかし、経営基盤の不安定な銀行を、健全な顧客を守りながら再生させる作業には、難航も予想されている。

国民銀行は今年4月、幸福銀行は5月、東京相和銀行は6月に破綻し、いずれも公認会計士、弁護し、組織としての預金保険機構が金融整理管財人を勤めている。今月上旬に破綻したばかりで、同じく管財人の管理下にある、なみはや銀行(本店・大阪)については、筆答株主で関係の深い大和銀行が受け皿となる検討をすでに始めており、受け皿探しでは一歩進んでいる。

国民、幸福、東京相和の3行の管財人らが、従来の地域金融機関の破綻処理の常道だった大手銀や地元地銀による引受にこだわらず、外資や一般企業などを含めて幅広く交渉する方針。幸福銀行の管財人団は今月上旬の記者会見で、外資系を含む金融機関など10社程度打診があったことを明らかにした。国民、東京相和両行についても、外資系や地元金融機関、金融機関以外の一般企業などが検討の意向を示している模様。

金融ビックバンの進展を睨んで、「店舗など無駄な資産を売却し、現金自動預払出機(ATM)中心の営業網にすれば採算は確保できるはず」などと、銀行業に興味を示す一般企業も増えている。ただ、第二地銀関係者の間では「外資などが受け皿になれば、これまでの中小零細企業への融資は続けられない」との懸念も出ている。各行の管財人らは、破綻から1年以内に受け皿を見つけるのが目標、としている。健全な貸出先への融資を継続し、安定した経営を続けることなどが受け皿の条件となるが、各行とも首都圏や大阪など、競争が激しい地域に基盤があり、経営環境は元々厳しい。また「不透明な融資など数々の疑惑をいかに早く払拭できるかが営業譲渡を左右する」との指摘もある。99/8/1

金融不安の背景に世界的な「市場経済化」の矛盾

三洋証券、北海道拓殖銀行に続き、山一證券も経営破綻に追い込まれ、日本の金融業界は、いよいよ危機的な状況になっている。小売店の売上高なども不振が続いており、日本経済全体が暗さを増している。一方、となりの韓国では、国家的に危機的な状態に陥っている。経済成長に必要な資金をまかなうため、国を挙げて海外から巨額の借り入れをしている韓国は、為替相場の急落により、借金のドル建て金額がふくらんでいる。97年11月25日

「自動車作りすぎの韓国でメーカーのし烈な生存競争」で紹介した起亜自動車のように、財閥系の大企業が次々と倒産し、そこに金を貸していた銀行も経営難に陥っている。このままでは来年には、海外から調達した借入金が返せなくなるとの不安が大きくなり、韓国政府はIMF(国際通貨基金)に対して支援を要請することを決めた。マレーシアやタイ、インドネシアなどの経済情勢も、依然として悪い。ロシアや南アメリカなどでも、株式市場が急落したり、金融機関が経営難になったりしている。こうした世界的な経済危機の裏には、何があるのだろうか。

市場原理導入のプラスとマイナス

いずれのケースにも当てはまるのは、株や為替といった市場が暴落し、それがきっかけで経済全体へと悪影響が広がっていることである。そして、一つの国の市場の崩壊が、すぐに他の国の市場に広がっている。こうしたことからいえるのは、世界経済の「市場化」が進んだことが、経済の脆弱さにつながっているのではないかということだ。現在、世界的に市場原理の導入が進んでいるが、この流れの源となったのは、1980年代初頭にアメリカで政府の財政赤字を減らすため、それまで政府の規制が強かった産業に対して、規制を緩和し、大幅な市場原理を導入したことである。

お役所体質が強かった通信や交通関連などの産業が、競争原理の導入によって活性化し、赤字補填など政府の支出も減らそうとする試みであった。この動きは他の先進国にも広がり、イギリスではビッグバンと呼ばれるロンドン市場の大幅自由化が実施された。日本では国鉄や電電公社の分割民営化が行われた。公的部門への市場原理の導入や規制緩和は、いくつかの副産物を生んだ。一つは、規制緩和に伴って価値が急騰したり、儲けが急拡大するものが出てきたことである。

日本の大都市では、政府が建物の容積率を緩和したため、それまでたとえば4階建てぐらいまでしか建てられなかった土地に、20階建てが建てられるようになったりした。その結果、ビルを建てた場合の利益が急に増えることとなり、地価高騰の原因となった。高騰した土地を売却した企業や個人は、巨額の利益を手にすることとなり、その金は証券市場に流れ込むとともに、高級車などの売り上げ増加に結びついた。また、それまで自動車の輸入を制限していた東南アジアなどの国が、組立工場を作って部品の形で輸入することを、海外の自動車メーカーに許すことになった結果、自動車の販売が世界的に増えることに結びついた。アメリカでは航空業界の新規参入規制が緩められた結果、新しい飛行機がどんどん売れるようになった。

アメリカ外交も一役買った

また各国政府は、それまで公的な資産だったものを売却したり、株式化することで、巨額の資金を手に入れ、財政赤字を減らすことができた。旧国鉄用地の売却や、NTTの株式上場などがそれである。こうした市場経済化は欧米や日本で成功し、東南アジアや中南米にも広がった。中国では機を見るに敏なトウ小平氏がこのやり方をいち早く取り入れることをうたい「社会主義市場経済」の政策を始めた。資本主義国と社会主義国の格差が広がって、ソ連崩壊につながる一因ともなった。

市場の自由化はまた、世界の市場を統合する動きにもつながった。世界の中でアメリカだけが自由化を進めてしまうと、たとえば日本や韓国の自動車メーカーはアメリカでどんどん車を売れるが、アメリカのメーカーは日本や韓国で売れない、ということになってしまう。そうしたことを防ぐため、アメリカは政治的な腕力を使い、世界中の国々から規制を撤廃しようとした。自由化は多くの場合、経済活性化や政府の赤字縮小につながるので、社会主義を続けていた国々も、相次いで市場原理を導入することになった。

世界的な価格破壊が元凶

だが、世界的な経済の自由化は、思わぬ副作用も生み出した。一つは、競争が激化したことによる価格破壊である。顕著な例が、東京や大阪での不動産バブルの崩壊である。業界他社もどんどんビルを建てているということを軽視してビルを建ててしまったため、空室が急増し、テナント料も下がってしまったのである。日本だけでなく、タイや中国でも同様の問題が発生している。自動車や家電製品をはじめ、雑貨などでも似たような現象が起きている。

航空などの運輸業界や通信業界の価格破壊は、世界市場の統一を加速させることに結びついた。運賃が下がったことで人々の行き来が増え、ヨーロッパや東南アジアでは、外国人労働者が増えて労働市場の国際化にもつながった。一方、運賃が下がったことで、航空機メーカーや造船会社も利益を出しにくくなり、アメリカでは政府要人がボーイング社の飛行機を中国などに売りつけるような外交をせねばならなくなった。現在、アジア各国に広がっている経済破綻は、これまであまり目立たなかった市場経済化に伴うこうした矛盾が、為替相場の動揺に伴って、一気に吹き出たことによるものだ、と筆者は考える。

この考え方を前提にすると、昨今の金融不安は、単に金融業界だけの問題にとどまらず、世界の経済全体が突き当たっている矛盾ということになる。日本の一つの証券会社が破綻したことに対して、アメリカ政府当局者があれこれコメントする必要に迫られているのは、そのためだろう。危機的な状態から脱するためには、まだ時間がかかりそうである。

金融大再編(90年代後半の金融破綻による再編)

第一勧業・富士銀・興銀の統合

第一勧業銀行、富士銀行と日本興業銀行の大手3行が、共同の持ち株会社を設立し、事業の統合に向かう見通しとなった。実現すれば、国内でかつてない大きな再編になるばかりか、世界でも最も大規模な金融グループの誕生になる。第一勧業と富士銀掃、各々日本一の預金量を誇ったことがある。

また、興銀は戦前から産業金融の雄として経済界に君臨してきた。その3行が、手を結ぼうとしていることは、国際化や自由化のなかで、日本の銀行の置かれた厳しさを如実に示している。バブル期には、他行と同様に拡大路線をとった。そのとがめが巨額の不良債権となり、今だに処理に手間取っている。さきに大手行に投じられた総額7兆5000億円の公的資金の1/3が、第一勧業、富士銀、興銀に向けられた。3行の傷の深さの反映である。同時にそれは、国民負担の重さを物語る数字であること忘れては困る。

全国に広がる店舗網と幅広い顧客を有する都銀2行に、産業界との間に太いパイプを持つ興銀が加わり、質量ともに優れた金融機関として、きめ細かいサービスを提供して、内外の競争に勝ち残る。3行が描く将来像は、こうしたものだろう。2001年4月には預金元本の保証が1000万円までに限られる「ペイオフ」が解禁される。その時期に近づくほど、預金者の金融機関を選ぶ目も厳しくなる。業種は異なるものの、2年前の山一証券の破綻を見れば、大銀行だからと安泰といえない時代を向かえたのは確か。主要各行は、公的資金の見返りに経営健全化計画を出しているが、競争力の強化は容易ではない。

こうした点から、統合に動いたのは理解できる。多すぎる銀行の数を減らし、日本の金融システムをより強固にするという方向にも沿う動き。海外の金融界では、トラベラーズ・グループとシティコープの米企業同士の合併や独銀行による米バンカース・トラストの買収など再編が激しく進んでいる。これに対抗する狙いもある。ただ、これで金融競争の「勝ち組み」にはいれる。と安心することはできまい。国境を超えた金融競争は、体力勝負であると同時に、知恵比べや経営の腕前比べでもある。

首都圏を中心に重なり合った店舗をどう整理し、合わせて3万5000人に膨れ上った行員の再配分をどう進めるのか。欧米勢に比べて立ち遅れが目立つ金融派生商品(デリバティブ)の開発や證券戦略を、どう進めるのか。こうした課題を一つ一つこなしていかなければならない。「大きなことはいいことだ」という時代は去った。統合の成否は、あくまでもその「実」にある。3行は、独占禁止法の改正で道が開けた持ち株会社を使って、業務の統合など進めようとしている。そうすれば、給与水準などを無理に合わせずに合併並の効果をあげることができるとの判断だろう。ただ、それが特定の地域や分野で独占的な影響力を持つ金融機関の誕生につながるのは好ましくない。公正取引委員会は、3行の動きが金融分野の競争を防げるものでないかを、冷静な目でチェックしなければならない。99/8/20

この統合で一番割を食うのは第一勧業だといわれている。一番、得をすると思われる興銀は、日本の高度経済成長を支えてきたものの、先細りは目に見えて明らかである。すでに長銀、日債銀が姿を消し、このままでは生き残れないのは明らかである。また興銀は、赤坂の料亭女将・尾上縫に2600億円もの損失を出す、お粗末な事件も起こしている。富士銀は、山一の破綻で預金流出が相次でおり、さらに同じグループ安田信託の事実上の破綻がある。

唯一まともなのが第一勧業であるが、それでも総会屋への利益供与事件で信頼は失墜した。また不良債権の処理も遅れ気味である。しかし、銀行業界には歴然としたランク付けがある。昔から東大法学部でもトップクラスは、興銀に入り、開銀、長銀、日債銀であった。 その後に続くのは、都銀でなかでも三菱、住友の上位があり、富士や第一勧業はやや落ちる。特に興銀はエリート意識が強く、この統合発表でも5年間で6000人のリストラ計画が、「興銀は頭脳、富士と第一勧業は手足、ダイエットは、手足がやるべき、頭脳はできない。」とエリート意識丸出しであった。富士銀もプライドが強く、そう簡単にはいかないと思われる。第一勧業は、第一銀行と勧業銀行の合併でできただけに、すでに経験済みから、柔軟に対応できるものと思われる。

『富士銀行と第一観銀の提携』~安田信託。事実上の解体~富士銀行と同じ芙蓉グループである安田信託銀行の救済を目的とした提携と見られている。98年10月くらいから経営不振が流されていたが、事実上、安田信託銀行の解体である。海外業務から撤退し、法人向けのサービスを新しくできる富士と第一勧銀の信託銀行へ売却する。安田信託には売却益が入るほか、公的資金の注入を受ける。国内向けの銀行に生まれ変わり捨て身の生き残り戦略をとらざるを得なく、信託部門に弱い第一勧銀を巻き込むしかなかった。98/10/31

『金融債が波紋・興銀が発行継続要望』~東京三菱は反発・かつて大幅に制限~
第一勧業、富士銀、興銀による3行統合後も「金融債の発行を認めて欲しい」とする行銀の主張が、東京三菱を刺激している。三菱銀行と東京銀行が合併した際、新行が東銀の金融債を継続することに興銀が強く反対、大幅に制限させた経緯があるため。金融債は「もはや時代遅れの債券」との指摘もあるが、3行統合の成功には金融債業務の維持が不可欠でもある。10月の社債発行の解禁や、一時国有化された2つの長銀の売却との絡みもあり、金融債の取り扱いが、今後の焦点の一つに浮上している。

興銀は長期信用銀行法に基づき、預金に変わる資金調達の代替え手段として、金融債の発行が認められてきた。興銀は発行残高は20兆円前後と、金融債券市場の1/3を占める。3行統合により、興銀は持ち株会社のもとで解体・再統合される。興銀の資産・負債も、残り2行の分と統合した上で、再配分される計画だが、金融債券残高が維持できなければ、統合銀行のバランスシートを大きく歪めることになる。このため、興銀の西村正雄・頭取は統合発表後、「金融債券市場は機関投資家の投資手段や個人の貯蓄手段として定着している。統合新銀行の各店舗でも、金融債の発行・販売を認めて欲しい。長信銀法を規制緩和し、普通銀行でも金融債を発行できるようにすればいい」と発言し始めた。

これに対し、東京三菱銀行は「あまりに虫のいい話だ」と反発を隠さない。三菱銀行と東京銀行は1995年に合併を決めた。外国為替専門銀行の特例として、東銀に認められていた債券発行機能を、店舗数が興銀より10倍以上多い新都市銀行が受け継げば、長信銀への影響が大きい、と見た興銀は、当時の大蔵省に規制を強く働きかけた。結局、東京三菱の債券発行業務は合併後の6年間のみ、旧東銀店舗だけの発行に限定され、発行残高を増やすことも暗に制限された。

東京三菱はすでに、システム投資をはじめ、2001年は金融債の発行ができなることを前提にした計画を進めている。この10月には、銀行の普通社債の発行が解禁になる。東京三菱は、5~6兆円の旧東銀債残高を普通社債に振り替える作業を進めている。大蔵省は普通銀行の金融債発行も検討することにしているが、「将来的には社債で代替えが可能だ。どうしても必要というなら東京三菱と同様、期限を限って対応すればいい」との冷めた見方もある。だが、旧東銀債の4倍も流通している興銀債の場合、預金など代替手段への移行は用意でない、という見方もある。第一勧銀や富士を母体に再編されると見られる個人専門の銀行傘下の店舗でも自由に金融債が売れなければ、興銀が「負担」になりかねない懸念もある。99/9/7

金融債 日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、農林中央金庫、商工組合中央金庫、東京三菱銀行、全国信用金庫連合会が発行している債券で、毎年一定の利息が払われる利付金融債と、割引価格で発行され額面で償還する割引金融債がある。大企業の設備投資など、産業育成のための長期貸付の際、安定的な資金を調達する目的で特定の金融機関に認められた。金融債市場は約60兆円で、国際流通市場に次ぐ規模。

富士銀行は、戦前から存続していた安田財閥系の安田銀行が、財閥解体等を経て1948年に商号変更した都市銀行である。芙蓉グループの中核。

安田財閥の創始者・安田善次郎は1864年、江戸日本橋乗物町(現在の東京都中央区堀留)に露天の乾物商兼両替商・安田屋を開業した。2年後の1866年、日本橋小舟町に移り安田商店と改称。発足したばかりでまだ信用力のない明治新政府の不換紙幣や公債を率先して引き受け、その流通に積極的に協力。1870年に正金金札等価通用布告がなされると、これらを額面引き換えし更なる巨万の利益を得ることになる。

この強固な資本を基盤に1876年、川崎八右衛門と共に日本橋小舟町に第三国立銀行を開業。また1880年には、本体の安田商店を合本安田銀行に改組した。こうして資本金20万円、従業員31人、店鋪数3をもって銀行としての歴史が始まった。明治の日本にあって、安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を厚くする。東京市や大阪市もその中に含まれ、その後の富士銀行の本金庫業務(指定金融機関)としての地位、「公金の富士」の名声を築いていくこととなる。

時代が大正に移ると、第一次世界大戦や関東大震災、それに続く不況によって社会情勢は不安定化。資金力・信用力が脆弱な中小の銀行は経営難に陥ったが、安田はこれを援助し、時には吸収・合併を行い預金者の救済にあたった。こうして親密となった11行が1923年に大合同、新・安田銀行となる。資本金15,000万円、預金54,200万円、貸出金52,100万円、店鋪数211、従業員数3,700人などいずれの分野でも国内首位となり、この座は1971年の第一勧業銀行誕生まで不動だった。初代安田銀行末期の店舗網は栃木県から東北方向に伸びていた。

安田銀行は安田家と決別する意味で終戦後の財閥解体とともにその名を変え、1948年、富士銀行と改称。「富士」という新商号は、日本最高峰である富士山にちなんでおり、「国民」「共立」「日本商業」「富士」などの中から京浜地区の行員によるアンケートの結果選ばれたものである。戦前からの強みであった公金分野に加えて、芙蓉グループの結成により一大企業系列の中核となった。

個人向け業務の分野でも「みなさまの富士銀行」を掲げ、創業80周年の1960年には「カラコロ富士へ」(=下駄履きで気軽に入れる銀行)をキャッチコピーに採用。法人・個人の双方に強い名門都銀として、また東京都及び特別区との強いつながりから「東京の地銀」として長らく歩んだ。

紛れもない上位行ではあったものの、1970年代以降は第一勧業銀行が発足して長年君臨していた預金量業界トップの座を奪われるなど、その地位は徐々に低下していた。このため、1970年代後半には同じく都銀上位行であった三和銀行との合併を画策し、業界トップの座の奪回を狙っていた。東京本店の富士と大阪本店の三和は店舗網のバランスでも補完性が非常に高く、経営状態、総資産も両行ほぼ同じで吸収されるリスクも皆無であったため、互いに合併のメリットが大きかった。このため、合併交渉も順調に進み三和とは合意寸前にまで達したが、金融業界全体が護送船団方式にどっぷりつかっていた当時では「メガバンクの誕生は預金の寡占につながり、銀行業界にとって好ましくない」という理由で大蔵省からの認可が下りなかったため、この合併はご破算となってしまった。

1980年代になると、住友銀行が積極的な営業を展開し、これがバブル期に突入するとさらに加速。焦る富士は対抗して営業部隊を投入、白兵戦を繰り広げ「FS戦争」(両社の頭文字から。「富士住友戦争」とも言う)と呼ばれる熾烈な貸出競争に走ったが、バブル崩壊後にはそれらの貸出が不良債権化していった。

1990年代、不良債権問題・金融システム不安の拡大と並行して、富士銀行の経営は悪化の一途を辿る。金融ビッグバンの流れに乗って1994年に富士証券(現・みずほ証券)、1996年に富士信託銀行(現・みずほ信託銀行)を設立するなど業績改善を図ったが、いずれも収益の柱となるには至らなかった。また、1995年に日本興業銀行に合併の打診をしたが、破談になった。しかし、これが第一勧銀・興銀との統合へとつながったことは否めない。

199711月には山一證券が自主廃業、親密だった富士は「山一を支援するだけの余力がなかった」と市場からみなされ、株価が暴落する事態になった。19976月に1,860円だった富士銀行株は、翌199810月には252円まで値下がりしている。国内50拠点を統廃合、海外拠点をほぼ半減し、1998年から2000年にかけて行員1,700名のリストラを余儀なくされた。金融早期健全化法に基づく公的資金注入は、都銀の中でも最大規模の1兆円に達した。

1999年には系列の安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)が経営危機に陥り、第三者割当増資を引き受け救済子会社化するが、もはや富士独力での再建は不可能だった。ここで浮上したのが第一勧業銀行との連携であった。2行の傘下にあった富士信託銀行と第一勧業信託銀行を合併し、第一勧業富士信託銀行とした上で、安田信託の中でも比較的高収益だった法人・年金部門を分割譲渡。こうした経緯から第一勧銀との関係が生まれ、みずほフィナンシャルグループ発足へとつながっていった。この連携の素地には1969年にクレジットカード業務を行うために設立した合弁会社であるユニオンクレジットの成功による両行の信頼関係が存在していた。

合併統合を目前にした2001911日、アメリカ同時多発テロ事件で、ハイジャックされたユナイテッド航空175便が世界貿易センタービル南棟78-84階に衝突。当行のニューヨーク支店および現地法人は南棟79-82階に入居していたため直撃を免れず、勤務中の行員12名が犠牲となった。

比較的バブル崩壊の影響を受けておらず不良債権の比率は低かった。富士、興銀の三行合併で貧乏くじを引いた第一勧業銀行だったが、総会屋事件による批判を浴びていた。

1997年には、総会屋への利益供与事件で本店を家宅捜索され、近藤克彦頭取の退任、頭取経験者の多数逮捕や宮崎邦次元会長の自殺という事態を引き起こし、社会的に非難された。この時も、逮捕された元頭取の中には「あれは旧第一銀行の案件で、自分は旧日本勧業銀行出身だから関係ない」などと公判で無責任な証言をした者がおり、いかに旧第一・勧業の関係が悪いものであったかを露呈してしまう結果になった。この不祥事以降、宝くじの広告から「受託 第一勧業銀行」の文字が消え、みずほ銀行となった現在も広告には表示されていない(なお、宝くじ券面には受託銀行の表示がなされているが、これは宝くじの根拠法令である「当せん金付証票法」第9条第3号によって義務付けられているからである)。

1971年(昭和4610株式会社第一銀行と日本勧業銀行が合併し、株式会社第一勧業銀行となる。 2000年(平成12929第一勧業銀行、富士銀行及び日本興業銀行が株式移転により株式会社みずほホールディングスを設立し、3行はその完全子会社となる。 2002年(平成1441第一勧業銀行を存続銀行として株式会社みずほ統合準備銀行(株式会社日本興業銀行のコンシューマーバンキング業務を2002年(平成1441日に分割承継した銀行)と合併し、あわせて富士銀行よりコンシューマーバンキング業務を分割承継して、株式会社みずほ銀行と商号変更。同時にコーポレートバンキング業務を、株式会社みずほコーポレート銀行へ分割承継する。

渋沢栄一が創設し、歴史ある銀行で、非財閥系の銀行として存在感があった。1971年、第一銀行(国内資金量順位6位)とかつての特殊銀行だった日本勧業銀行(同8位、勧銀)が合併し、総資産では富士銀行を抜いて国内第一位の都市銀行として誕生した。都市銀行同士の合併は第二次世界大戦後初であった。この合併には神戸銀行が加わる計画もあったが、同行は離脱、翌年に太陽銀行と合併し太陽神戸銀行が発足する運びとなる。

第一・勧銀はこの合併について「第一の店舗は東京圏中心で、融資先には重化学工業が多い。一方、勧銀の店舗は地方部にも分散しており、融資先には中小製造業及び流通・運輸・小売業が多い。このため補完効果が高いうえ、互いに中位行でかつ非財閥系であり、対等合併が可能である」とその意義を説明した。特に第一側には財閥系銀行との合併にアレルギーを示す人間が多く、勧銀が非財閥系であることは合併相手の選定において極めて重要な要素だった。大蔵省は、「規模の利益を生かし、経営基盤の強化を図り、さらに国民経済の要請に応えることは、金融効率の趣旨にかなうもの」とこれを評価した。

看板には赤地に白のハートのマークを使い「ハートの銀行」と称していた。勧銀の流れを受けて宝くじを取り扱い、その関係から全都道府県に支店を有していた。当初の本店は旧第一銀行の本店(現在のみずほ銀行丸之内支店)に置かれたが、1981年に千代田区内幸町の旧日本勧業銀行本店跡に本店ビルを新築し、移転した。

旧第一銀行は第二次大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの、両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験を持っていた。このため、勧銀との合併以前に浮上した三菱銀行との統合計画は途上で白紙撤回され、非財閥系である勧銀との合併後もいわゆる「たすきがけ人事」や頭取の「順送り(第一・勧銀交互に選出)」が行われ、人事部も旧第一・旧勧銀で別々に置かれた。しかし、こういった人事は旧第一(D)・旧勧銀出身者(K)の対立を生んでしまって両者の融合が進まず、その収益性は富士・住友・三和・三菱などの他の上位都銀に比べると低いものであった。一方、一勧以降の東京三菱銀行まで5件の都市銀行同士の合併と比較すると、いずれも合併コスト増大が資金調達コストの低減を上回っているのに対し、一勧は唯一コスト削減に成功しており、合併が効果的に働いていることがわかる。また、合併から20年を経た19913月期決算では業務純益で都市銀行首位となったこともある。佐高信はバブル景気崩壊以降の都市銀行の不良債権問題に際し、「第一勧銀の不良債権比率が低いのは、旧行出身者による互いのチェック・アンド・バランスが働いているため」と分析しており、合併の評価は一様ではない。

住友銀行とさくら銀行の合併

『単独の合理化限界』 住友銀行とさくら銀行が2002年4月までに合併することで合意したことで、住友と三井の両グループの金融機関が提携や事業投合に動き出す可能性が出てきた。生損保が単独での合理化で価格競争を乗り切るには限度があり、信託銀行は提携や合併で規模の拡大を実現する必要に迫られている。日本興業銀行など「統合3行」と親密な金融機関の再編とあわせ、大手銀の統合が他の金融機関を巻き込みながら、更なる再編を誘発するシナリオが現実味を増してきている。焦点の1つは系列損害保険の動向。住友海上火災保険は今後の対応について「主体的な立場で検討する」とし、直ちに三井海上火災保険との連携に結び付かないと強調。

三井海上は「現時点でさくら銀からの参加の呼びかけはない」としている。ただ住友、三井両グループの核である銀行の合併は、これまで業界3、4位を争うライバル関係にあった両損害保険が手を組む好機になる。損害保険業界は主力で収益源の自動車保険で価格競争が始まり、人員削減などを身を削って保険料を下げる消耗戦に突入している。一方で商品開発で優位に立つには一段のシステム投資が不可欠。合理化と積極投資、引受能力増大という生き残り条件を満たすために、損害保険同士が提携して規模のメリットを追及する必要性が高まっている。

生保でも4月から保険料の割引競争が本格した。相互会社形態の生保が再編の機動的に進めるため株式会社への転換が検討課題になっているが、住友生命保険、三井生命保険のいずれも株式会社化に積極的。生損保ともに最大手が価格競争を主導し、2番手以下に再編がらみの対応を迫る構図が鮮明になっている。三井生命は「さくら銀との協力関係を維持していきたい」と述べるにとどまっているが、それだけで今後の展望が描ける保証はない。住友信託銀行と三井信託銀行は「2行の合併に併せて信託銀行が全面提携するかどうかまったくの白紙」としている。

ただ、来年4月の合併を決めている三井・中央の両信託は「次ぎの再編を積極的に模索する」との方針を打ち出しており、住友信託も以前から合併や提携による規模の拡大を志向していた。年金や証券管理など信託銀の今後の戦略分野は装置産業的な色彩が濃く、巨額な設備投資に耐え切れなければ競争から脱落する。規模の拡大を通してどこまで体力を強化できるかが課題になっているだけに、住友銀とさくら銀の合併を機に両グループの信託が急接近する可能性がある。

三菱グループ金融4社の結集など既存グループの枠内にとどまる提携は、従来の親密な関係の延長にとどまり、大競争時代の勝ち残り策には力不足の面もあった。3行統合や住友銀とさくら銀の合併はこうした局面を一変させ、新たな大金融グループの形成と銀行、信託、保険など各業態の競争力の向上を実現する道を示し、金融再編を最終段階へ導く可能性を秘めている。

リストラ 大きな課題の1つはリストラをどこまで達成できるか。焦点はさくら銀。太陽銀行と神戸銀行が合併してできた太陽神戸銀行に三井銀行が合併した生い立ちを持つ同行は、頭取や役員のたすき掛け人事などを温存。大幅な店舗統廃合や行員の削減を先送りしてきた。2行は行員の削減目標を2004年3月で9300人と掲げる。3月の公的資金による資本投入の際には2003年3月まで3年間に合計1500人を削減する計画だったのを2002年3月までに1年前倒した上、大幅な上乗せを迫られる。

戦略分野 将来の収益源となるリテール(小口金融取引)業務などの戦略分野に共同で取り組む。例えば、さくら銀が日本生命保険などと共同出資で来春にも設立する個人向けローン会社に住銀も資本参加する。インターネット専業銀行も協力して手掛ける見通し。さくら銀は不特定多数の顧客を対象にしたマス・リテールで先行していたが、住銀の資本力が加わることで、投資コストが削減できる効果がある。

事業再編 今回の合併は分社化したビジネスユニットを統合する手法をとる見通しだが、分社化の手法は合併までに調整が必要。さくら銀は中小企業と個人取引を手掛ける全国の支店をリテール業務として一体化して捉えているが、住銀は支店の中で法人と個人取引を完全に分離している。このため、さくら銀は営業拠点で法人取引を分離する必要性に迫られる。一方、さくら銀は不良債権の回収業務を営業と異なる部門が手掛ける。債権回収の効率化が図れるため、住銀の組織作りに踏み切る公算が大きい。

両行の「レベル」すり合せが大変 格付けなど体力的に見れば住友の方がさくらよりも上で、内部体制の改革も住友が進んでいる。両行の「レベル」のすり合せが相当大変だろう。重複支店の整理統合や人員の削減も住友にとってどの程度メリットがあるか分からない。銀行の競争力は資金量ではない。意志決定の速さやトップのマネジメントが隅々まで行き届くかどうかなどの課題もある。住友の高い格付けが引っぱられるリスクがある。合併により、競争関係が整理されれば、利鞘は確保しやすくなる。利益が上がる経営対質を目指す上で、金融機関の淘汰が進む望ましい方向といえる。

3行統合に比べ相互補完が明確 日本興業銀行などの3行統合に比べ、合併で相互補完できる部分が明確で、将来像が描きやすい。合併比率を株価基準に決めるなど市場を重視した姿勢も高く評価できる。住友はリストラのスピードが速いとの定評もあり、合併は円滑に進みやすいと見る。さくら銀は経費率が高いため、リストラ効果で補う必要がある。

持ち株比率、合併で調整も 住友銀行とさくら銀行が合併時に企業の株式を5%超持っている場合には、独占禁止法上の金融機関の株式保有制限に抵触する。銀行は主取引先企業の株式を5%ぎりぎりまで持つ例も多く、両行が主取引先やそれに準じる立場にいるような企業では株式保有率が5%超になる公算が大きい。

こうした場合には合併後、一定期間内に株式を売却する必要が生じる。銀行法で合併後、5年以内に段階的に独占禁止法の株式保有制限の範囲まで持ち株比率を下げるよう定めている。ただ、両行は合併期限まで2年半を残しており、この間に必要な持ち株比率を調整すると見られている。合併という形をとることから持ち株比率調整が必要になるが、日本興業銀などの3行統合では持ち株会社を活用するため、合計の持ち株比率上限は15%になる。持ち株会社方式のほうが持ち株比率調整が緩やかで済むのはこのため。

金融機関の合従連衡

住友————————————さくら

住友信託20024月に合併 三井信託—-中央信託20004月に合併

住友生命          三井生命

住友海上          三井海上

大和証券          山種証券—-神栄石野証券20004月に合併

第一勧業—————富士—————日本興業

第一勧業富士信託

朝日生命     安田信託   新日本証券20004月に合併

富国生命     安田生命   和光証券

日産火災     安田火災

大成火災     日動火災

勧角証券

三和グループ           三菱グループ

三和銀行             東京三菱銀行

東洋信託             三菱信託

大同生命             明治生命

太陽生命             東京海上

興亜火災

ユニバーサル証券など4

東海・あさひ

200010月に持ち株会社

大和銀行

近畿、大阪(第二地銀)

『色あせた旧財閥の呪縛』~住友・三井の合併~

都内を歩くと旧財閥グループ所有の洋風建築や運動施設に出くわす。そこで目にするのは、グループ会社の乗用車やビルであり、集う人達は関連不動産会社の住宅に住んでいたりする。これほどまでに結束の堅い旧財閥農地の2つ、住友、三井の中核金融機関が合併することになった。グループ枠を超えた合従連衡はライバルを迎かえ撃つ体制を整え、「ケイレツ」と揶揄される産業構造を覆すことになるかもしれない。話しは今年の冬にさかのぼる。

富士銀行の幹部が口癖のように繰り返していた。「うちの実力を正しく評価すれば、株価は今の2倍、1000円を突破してもおかしくないのだが….」それから9ヵ月。3行統合で世界最大のメガバンクが誕生することになり、そのメンバーである富士の株価はとっくに1000円を超え、今や1500円に届く勢いだ。この株価の動きを複雑な思いで見つめていたのが、さくら銀行の面々だった。合併で対質強化をはかり、株式市場からも格付け機関からも、そしてなにより取引先から大きな信頼を勝ち得たい。それが実現することになったシナリオは……

二番煎じといえ、世間をアッと驚かせた住友銀行とさくら銀行の合併交渉は、基本合意までのプロセスがほぼ一つの筋書きで語られている。当初は日本興業銀行との事業統合を模索していたさくらが、日本興業銀行と第一勧業銀行、富士による3行統合の合意ではじき出され、焦った揚げ句、関西系で経営地盤が重複せず合併効果が期待できる住友に交渉を持ちかけた…..という構図だ。だが、これは表向きの見方でしかない。明治大学政経学部教授でエコノミストの高木勝氏は言う。

「さくらは、三和銀行もに強力なアタックを仕掛けていたのです。その意味では二股をかけていたわけです。結局は、さくらが経営内容の悪さをどうしてもどう払拭していくかを考え、どっちを選ぶかということになれば住友しかなかった」。関係者の話しを総合すると、さくらは今回の提携先探しの過程で、住友と三和の双方と同時に交渉を進めていた。だが、「土壇場で、三和がさくらに嫌われたんです」(金融アナリスト)というのだ。さくらは、ゼネコンやノンバンクといった経営不振の融資先を多く抱えている。不良債権で身動きがとれず財務対質は上位都銀の中でも最低ランクに落ち込んだ。もはやどの銀行と一緒になっても、事実上は吸収合併され、相手に飲み込まれる運命とされる。そのさくらが、水面下で住友、三和の2行を嫁入り先の候補としてみなし同時に事業統合の交渉を進め、最終的に三和を袖にしたということになる。

さくらが三和でなく住友を選んだことについては、「金融界の誰もが、さくらの相手は三和と見ていた」(高木氏)。ことから、予想外と受け止める向きは多い。「さくらと三和は、大手都銀同士としては仲のいい部類だと見られていたからなんです」と語るのは、今回の合併劇の桟敷席に座る住友グループ中核企業のある幹部だ。さくら、三和の両行はもともと、合弁事業などを通じてもっぱら協力関係を築いてきた。共同出資によるクレジットカード大手のJCBの設立は最大の成果といえる。また、両行はともに、住專最大手、日本住宅金融の母体行でもあった。

こうしたさくらと三和の結びつきの強さに対し、住友は、「イトマン事件のような一連の不祥事で、金融村の嫌われ者に身を落としていた」。という評判の悪さもあり、下馬評は芳ばしくなかった。ところが、実態は全く逆さまといっていいものだった。

JCBといえば、今や日本最大の国際クレジットカード会社に成長した。が、それまでの三和・さくらの関係について金融アナリストは、「この間、三和はさくらの経営体力低下を横目で睨みながら、人事、資本の両面でじわじわとJCBにおける主導権をたぐり寄せ、気が付けば、JCBはすっかり三和の関連会社というイメージが定着してしまった」。“三和のカード会社”のイメージを決定づけたのは、今年7月に合意した非財閥系の金融機関の6社の提携。

提携に参加した三和、興亜火災海上保険、東洋信託銀行、ユニバーサル証券などが6社共通ブランドによる新カード会社を設立し、将来的にはJCBとの統合も視野にいれたカード市場の覇権を目指すというもの。当然、この提携6社の中にさくらは含まれておらず、カヤの外におかれた格好となった。住專の一つ、日住金の問題でも、さくらは三和に振り回され経緯がある。「三和は日住金のメーンバンクだったが、再建案をまとめる段階でひたすら逃げた。おかげで、さくらなど他の母体行との調整が難航を極めたのです」と、当時の母体行のある住專担当者を打ち明ける。「さくらは三和と対等の立場と思っていたにもかかわらず、いつのまにか排除された。そのうえ、美味しいところを取られ、煮え湯を飲まされた相手と合併に、さくらの一部から待ったがかかった」というのが、どうやら真相のようだ。

一方で、住友は不祥事の後、体制を一新し、森川敏男・前頭取と現在の西河善文・頭取が顧客重視の路線を鮮明にしてイメージの回復に務めた。平和相互銀行の買収に代表される乱暴な拡大路線は影を潜め、昨年夏に合意した大和証券との包括的提携など戦略的な動きが金融界でも評価されるようになっていた。もはや「向こう傷は厭わない」を旗印に掲げた嫌われ者ではなくなっていたのだ。

今月14日の合併に向けた記者会見では、さくらの岡田明重・頭取、住友の西川両頭取の個人的な親しさも強調された。この点も、今回の合併合意の伏線となったようだ。「両頭取が知り合ったのは、都銀としての政策を話し合う都銀懇話会のメンバーとしてです。これは、金融当局との均衡の窓口にもなる重要な会合です、また、二人は同い年で頭取就任も同じ97年6月という共通点もあった」。

そこでの付き合いがきっかけで本人たちがいう「ともに尊敬しあえる仲」になったということらしい。三和が結局、さくらに袖にされた遠因に、こうしたトップ同士の信頼関係がなかった店を指摘する。「三和銀行が、前頭取の佐藤伯尚氏が一昨年に初めて全銀協の会長になったことに象徴されるように、都銀でもトップの一角と認められたのはごく最近です。さくらの母体の一つである旧三井銀行や住友銀行など、以前からトップ行の位地を占めていたところからは、やや肌合いが違うという目で見られていたのです。

しかも、三和の現頭取の室町鐘緒氏は、国際畑が長く、他行の経営者との付き合いがあまり深くないことも弱みになった。」今回の合併劇は、旧財閥同士の組み合わせという点で、常識破りが続く昨今の企業再編を象徴するケースとなった。ただ、合併にはトップ同士の意思疎通が欠かせないという基本だけは、今だ不変といえそうだ。 

今回の合併は、8月の富士・第一勧銀・日本興業の3行統合が刺激になったとの想像は難くない。メガバンク立ち上げでは後れを取ったさくらと住友の両行だが、斎藤精一郎・立教大学教授は「絶好の組み合わせで、統合3行を凌駕する可能性は十分」と指摘する。金融再編の行方と課題を聞いた。

「両行の結びつきというのは、互いに相反する、プラスとマイナスがくっついたものだから、うまくいけばその起爆力はすごいと思うんですよ。拠点が東西で違うし、経営手法も住友銀行を「硬」とするとさくら銀行は「軟」。おっとりしているさくらに対し、住友銀行は生き馬の目を抜くというか、非常にドライです。また、住友は安宅産業やイトマン事件の問題などを見ても、向こう傷を厭わないというか、修羅場をくぐり抜けてきた銀行。いわばアングロ・サクソン的な経営です。

日本の土壌には合わないが、今後展開する熾烈なグローバル金融の大競争では、アングロ・サクソンのルールで戦わざるを得ない。日本的経営をしてきたさくらが立ち直るには、そうした住友の力を借りて自らを変革しないといけない。元は「人の三井」。優秀な人材も多いんですが、これまではそれが殺されていた部分がある。そうした人達が生き返る場を住友が与えてくれると考えて、まずは住友の経営にしたがっていけば、うまくいくのではないでしょうか。

一方の3行統合ですが、あっちは仲良しクラブ。お互いに遠慮し合っていて、中心にドシっとした軸がない。日本の金融システムの再生・復活の担い手というのは、正反対の組合せである住友・さくらの方が可能性を秘めている気がしますね。東京三菱にしても統合3行にしても、証券部門に弱みがある。その点住友は、資本市場に強い足場を持ち、しかもリテール(小口取り引き)力もある大和証券と提携している。

さくらも生き残る道として、コンビニに現金自動預け払い機(ATM)を設けたり、富士通とのインターネットバンク、日生と組んで保険販売と、リテール分野では他行より先駆けている。このふたつの戦略をすぐに発動できるメリットは大きい。要は住友の舵取りにさくらが付いてこられるか。さくらは住友を利用して生き返ると強かに考えればいいんです。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というでしょう。」

■■都銀中心の金融再編■■

住友銀行     さくら銀行

・住友信託    ・三井信託ー中央信託(2000年4月に合併)

・住友生命    ・三井生命

・住友海上    ・三井海上

・大和証券    ・山種証券ー神栄石野証券(2000年4月に合併)

東京三菱銀行  三和銀行

・三菱信託    ・東洋信託

・明治生命    ・大同生命ー太陽生命

・東京海上    ・興亜火災・ユニバーサル証券など4社

東海銀行ーあさひ銀行2000年10月に持ち株会社

第一勧業銀行 ー富士銀行 ー日本興業銀行

・第一勧業富士信託(2000年9月に持ち株会社)

・朝日生命  ・安田信託  ・新日本証券ー和光証券(2000年4月に合併)

・富国生命  ・安田生命

・日産火災  ・安田火災

・大成火災  ・日動火災

・勧角証券

さくら銀行は90年に三井・太陽神戸が合併して誕生する。(太陽神戸は73年に太陽・神戸が合併してできる。)
あさひ銀行は、91年に協和、埼玉が合併して誕生する。第一勧業銀行は、71年に第一と勧業が合併して誕生する。東京三菱は、96年に東京と三菱が合併して誕生する。

グループ4000社が挑む「三菱」抱囲網
「アサヒビールを飲んで、NECのパソコンを使って、マツダの車でドライブする」「三越で買った東レの水着を着た彼女を東芝のビデオで激写する」
前者が住友系の企業であり、後者は三井系。住友・三井の名前を関してなくともグループ企業は多い。その数は中小含めると
2000社、合計で4000社を数える。これらの企業の人達が、今回の住友とさくらの合併の行方を注視している。それはグループの中核企業である両銀行を結ぶことがとりもなおさず、グループ企業の再編を促す可能性も濃厚だからだ。さらに「住友」「三井」の看板を背負ったライバル企業が手を結べば、最強の結束力を誇る三菱グループに対抗できる企業連合の誕生の読みがある。

住友、さくら両行の合併合意を目のあたりにして、住友グループの幹部の一人はこうつぶやいた。「物産だけでは、さくらを救えなかったんだな。これは住友系による三井系企業のメーンバンク立て直しだ」。早くも、住友優位の系列企業再編を予感させるような言葉だ。錚錚たる一流企業が名を連ねるさくら=三井系列だが、個々の経営は厳しさを増している。情報化戦略で富士通や住友系のNECに立ち遅れ、993月期に最終赤字に転落した東芝、2年連続の赤字で厳しい人員削減が続く三越のほか、大幅な減益を計上したばかりの東レなど不振組が目立つ。

巨額の最終赤字を出した三井建設は、グループ支援の再建を目指している。こうした企業の立て直しには、強いメーンバンクのバックアップが不可欠だが、ただでさえ不良債権の処理に四苦八苦するさくらには重荷になりすぎた。グループ内の再編に主導する余力さえ、さくらには残っていない。グループ内では数少ない優良財務対質の三井物産による“商社金融”頼みも限界があるというわけだ。しかし、一方の住友系企業も、ぱっとしてものではない。バブルの負の遺産を処理し、身ぎれいになるための損失を計上が原因のケースがあるとはいえ、住友商事、住友金属工業、NECといった赤字企業がひしめいている。つまるところ住友サイドにとっても今回のメーンバンク統合は、三井側と思惑が一致するといわれる。

そんななか、業界再編の嵐として、注目されるのは商社だ。もっとも注目されるのは三井物産、住友商事が統合されれば、売上高20兆円を超える巨大商社が出現する。だが、利益率が極端に低い総合商社の売上規模には、さして意味はない。最大のメリットは、大手商社の中でも群を抜く両社の財務対質が合体することの相乗効果が、共通のライバルの三菱商事への強力な武器になるはず。ゼネコン業界に目を向けると、さらにダイナミック。住友をメーンとする鹿島、熊谷組、さくら系のフジタなどの名前が並ぶ。各々の銀行からの巨額の借入金を残している企業も多く「両行の合併で資金力が安定すると、安心して再編・合理化に踏み切れる環境にはなるでしょう」と、ライバルのゼネコンの声も聞こえてくる。化学では、すでに財閥の垣根を超えて合成樹脂の合弁事業などの提携を結んでいる住友化学工業と三井化学の再編が焦点となりそう。

三井化学は、従来、東レとの合併を模索する「大三井化学」構想が取りざたされて久しいだけに、これらの統合が一気に進んで三菱化学を大きく凌駕する可能性もある。ところで、財閥銀行同士の統合をきっかけとする企業再編で問題になりそうなのが、銀行の力関係と系列企業のそれが逆転している場合の「ねじれ」現象。住友グループの幹部は「住友が、さくらを吸収する形になった場合、各々の業界で住友系より上位にある三井物産、三井建設、三井不動産といった企業が持つ三井のプライドが許すのか。さくらが財閥系でなければ、銀行の力学だけで傘下企業の収まりもつくだろうにね」と話す。

この難題が、スムーズな再編に立ちはだかる可能性は大きい。分かりやすく説明すれば、社名についている伝統と愛着の「住友」なり「三井」の二文字が消える場合、激しい抵抗が容易に予想できる。もっとも、社名などにかまけてはいられない時代かもしれない。業種を問わず、国境を超えて外資の攻勢が激しくなっている以上、面子に囚われた愛憎関係に閉じ篭っていられる段階ではないことは確か。

1万人リストラで「さくら散る」?
合併構想の大見出しが新聞に踊り、テレビが繰り返しこのニュースを伝えると、黙っていられない旧知の金融機関関係者たちから連絡があった。それは「住友とさくらの組合せ」の意外性やら、「旧財閥の壁も崩れることもあるのだ」という驚きであった。しかし、共通していたのが「さくら銀行は大変な事態に追い込まれる」との同情を交えた指摘だった。「さくら銀行は観念したね。合併後の中らしい銀行名はどうなるのか分からないが、実質的には半年で「住友銀行化」しますよ。イケイケどんどんタイプの住友社風にさくらが翻弄されることは確実。その結果、さくらの中で上昇思考の強い連中が冷や飯を食うのは目に見えています」と話す。

「地銀での私の営業経験をもとに話せば、私の銀行が5、6人で取り掛かる取引案件をさくら銀行なら4、5人でまとめてしまうでしょう。それが住友の営業マンにかかったら3人、あるいは2人で仕上げてしまう。まさに“住友パワー”おそるべしです。これに、さくらの行員が付いていけますかね。私は多いに疑問です」。

合併をぶち上げた14日の会見で、住友の西川頭取が唯一、厳しい表情を見せたのが、次の質問が飛んだときだった。「この合併は経営的に弱いと見られているさくら銀行の救済ではないのですか」。これに対し西川頭取は質問者を睨みつけるようにしてこう答えた。

「そのご意見は全く同意できない。無責任なものの言い方には憤りを感じます」。しかし、この回答を額面どおり受け取る向きは極めて少ない。

それだけ、さくらが経営的に追い込まれているのは関係者なら“常識”である。となると、両行で内外183店舗飛9300人の人員を削減する計画に対し、住友、さくらの両行でどう割り振るかが、関係者ならずとも気になるところ。ただ、合併して筋肉質な体に生まれ変わるにしても、問題は、新銀行として発足するまでの両行のあらゆる段階、レベルでの調整であり、合併銀行としてスタートを切った後の融和といわれる。

合併が成功するかどうかは、ひとえにトップの指導力と理念にかかっている。銀行員はゼネラリストとして育てられており、ある一定以上の能力の持ち主のなかには、役員、頭取になりたいと思っている人も多い。それが合併によるリストラでポストが減る。さらに、行風のことなる組織が一つにならなければならない。こうした状況で生じる問題は、人事を含め、部下を説得できるか。合併企業はどこでもそうだが、さまざまな委員会を設け、一つになる作業をする。旧第一と旧勧業銀行の合併に向けた作業のなかで、身近な例には、伝票の色を第一と勧業のどちらの色に合わせるかというものだった。こんなことでも、勝ち負けを競い、O勝O敗と囁きあった。巷間伝えられる住友、さくらの力関係の中で、銀行員にとって大きな関心事である人事をはじめ組織がどう変わるのか今からある程度見透かすことができるのかもしれない。

残された「三和」海の向こうで嫁探し
都市銀行15行が勢揃いしたのが1996年。それから北海道拓殖銀行がつぶれ、5つの大合併が行なわれ、あっと言う間に6つに再編された。銀行の競走の激しさを如実に反映している。日本興業・富士・第一勧業グループ、今回の住友・さくらグループ。東海・あさひグループ、そして残ったのが、東京三菱、三和、大和の3行。前者2グループは巨大合併の流れに乗り、国内の指定席は3つとも4つとも言われるマネー・センター・バンク(国際業務、証券、信託業務などを手広く扱う銀行)の座に大手をかけた。東海・あさひスーパーリージョナルバンクに徹する方向だという。そこで注目されるのは、東京三菱、三和、大和の3行。わけても、さくらの合併相手候補ナンバーワンだったとみなされていた三和の目論見は外れ、これから大きな気道修正を余儀なくされる。

「さくらは個人金融が圧倒的に強い。投資信託の窓口販売の取り扱い実績もトップクラス。もちろん三井グループの超優良企業の存在も大きい。だから、住友と三和という関西系の強面系男性二人の“嫁争い”になった。ただ、さくらは経営内容が悪すぎたので余裕がなかった。結婚後も快適な生活を送るには、ちょっぴりマスクの甘い三和君より、ぶっきらぼうでも生活力のある住友君のほうが、という選択なんでしょう。」まさに恋愛と結婚は別物。“さくら嬢”の冷静な打算は、“三和君”の結婚生活への甘い夢を脆くも打ち砕いたわけである。しかし、恋の傷を癒せるのは新しい恋だけ、ともいう。

三和君は日ならずして新しい嫁さんを探し始めるに違いない。ところが、ここに問題がある「見渡せば花も紅葉もなかりけり」と昔の歌人も詠むとおり、今や株式会社「都市銀行」の独身女性は大和嬢と東京三菱嬢だけになっていた。この際だから、容貌や気立ては目をつぶることにしても、気にかかるのは持参金、総資産15.5兆円の大和嬢より、69.8兆円の東京三菱嬢に気を引かれてもしょうがない。二人の資産をあわせれば117.4兆円。

諦め欠けていたメガバンクの夢もよみがえるというものだ。といって見たところで、東京三菱嬢は旧家の出で、おまけに帰国子女。なかなか気難しいと評判。庶民派の三和君にとって家風の違いも大きな障害になる。楽観的な見方には「まず、大和との合併は規模のメリットはない。常識的に考えて合併・提携先は東京三菱しかない。東京三菱は、最近では住友に株価で抜かれ、焦りはある。案外、公算がある。」これに対して、行風の違いが障害になるとの見方がある。「重厚長大産業を傘下に置く三菱グループと、中小企業、個人金融を柱にするピープルズバンクがルーツの三和ですから関係が離れすぎている。」

最近の合併劇の本質は、ともに独り暮らしの男と女が一緒に暮らし始めるのと同じだそうだ。家賃が半分で済むように、合併は情報関連投資を大きく圧縮する。また、食事を作る手間を一人も二人も大差ないように人件費削減もできる。ところが、96年に三菱銀行が東京銀行と合併したのは“共同生活”を始めるためじゃなかった。弱かった国際部門の強化のため。結果として東京三菱はユニバーサルバンクとして単独でもやっていけるようになった。だから規模拡大のために今、三和と組むのは疑問である。と指摘される。国内で花嫁が見つからないとすれば、グローバルな時代である。

ここは慢性的な嫁不足に悩む農村にならって海外に青い目の花嫁を求めるか?11ヵ月が1つのエリアになかったEUや米国では、大銀行の林立を解消するため、合併は戦争状態といっていい激しさ。その戦線が拡大して日本に及ぶ可能性は十分にある。例えばの話し、米国のJ・P・モルガンとかの大手と合併なり強力な提携をはかるのが三和の活路になるかもしれない。今回、旧財閥同士の垣根が乗り越えられたように、国籍にこだわっていられない。この6月に就任した三和銀行の室町鐘緒・頭取は、23年に及ぶ海外業務経験を持ち、同銀では違例の国際派だという。まさに天の配剤だっと評価される日がくるかもしれない。(99/10/31週間読売) 

『三和と信託、生損保、証券5社』~資産運用軸に広く提携・財閥系に対抗~
三和銀行、大同生命保険、太陽生命保険、興亜火災海上保険、東洋信託銀行、ユニバーサル証券の6社は30日、現金自動預払機(ATM)の共有化のほか、資産運用ビジネス分野を中心とする広範な業務提携で合意したと発表。各社の連携を深めて新たな総合的な金融サービスを開発、提供し、財閥系金融グループに対抗するのが狙い。

今後の金融分野での規制緩和を睨んだもので、銀行、信託、生保、損保、証券まで含めた提携は初めて。6社の業務提携は、異業態のサービスを受けられる金融総合口座の研究開発、店舗・ATM・インターネットを使ったオンラインビジネスなどの共有化、投資信託や来年度中にも導入される確定拠出型年金(日本版401K)の運用など資産運用業務、デリバティブ(金融派生商品)などの高度なコンピュータ技術が必要な新商品開発のための情報テクノロジーの共同研究・開発などが柱。

1社でサービス機能を充実するよりも、投資効率も良く、コスト削減につながる。6社で設置する「提携委員会」で、提携範囲と内容の詳細について詰めるとともに、法制や税制などの整備状況をみながら実現可能なものから実施してゆく。太陽生命以外は三和グループ。太陽生命も今回の広範な提携の参加で、今後三和グループとして、活動してゆく姿勢を鮮明にした。99/7/30

『トラベラーズと日興証券の提携』
これまでに前例のない提携であった。三菱との「婚約解消」という形になる。日興側は三菱との提携し一緒になることを望んでいたが、煮え切らない態度の三菱に見切りをつけトラベラーズとの提携に踏み切った。トラベラーズはシティーコープを吸収合併し世界最大の金融機関である。98/6三菱は独自路線をとった。グループ系の証券会社4社、国際、東京三菱、東京三菱パーソナル、一成が合併し預かり資産が10兆円強と、大手3社に次ぐ規模になる(2002)。日興証券は、シティグループの傘下として、生き残りを図った。2009年のリーマンショックでシティが破綻(公的資金導入されて実質国有化)になり、売却されてしまう。売却先は、住友グループ。この時期に住友は大和証券と関係を深め、生き残りを図った。日興のグループ入りで大和との関係がおかしくなり、住友グループから離脱する。

大和証券と住友銀行による大型提携
大和証券は欧米の現地法人の証券金融部門を、英国バークレイズ銀行傘下のバークレイズ・キャピタルに売却することで合意。競争力のある分野に経営資源を集中させる大和の海外戦略見直しの一環。同部門は、機関投資家向けを中心に株式の貸付けなどを行っており、この分野でのサービス体制強化を狙うバークレイズと思惑が一致した。買収金額は公表されていない。98/7/3

大和証券と住友銀行の大型提携が発表されが、水面下で両社の主導権争いが目立ってきた。その起爆剤は、住銀投資顧問、大和投資顧問、SBIM投信の3社で設立予定の新会社への出資比率である。住銀としては、今年12月の投信の銀行窓販を契機に、この新分野に何とかくさびを打ち込みたいと考えている。

そのためには新会社運営でヘゲモニーを握りたがっている。消息筋は「住銀は当初、大和とこれほど広範囲の提携を考えていなかった。狙いはあくまでも投信分野だったから、大和投信委託との連携を望んでいた」。一方、大和証券は大和投資顧問と大和投信の合併を計画していたが、この合併を大和投信が拒否したため、大和投信が住銀との提携でかやの外になってしまった。そこで仕方なく、大和投資顧問が相手になったというのが真相のようである。だが、大和にも国内証券2位のプライドがあるし、証券業務では住銀に負けないとの自負があり、新会社へのヘゲモニーをそう簡単に住銀に譲るとは考えにくい。どこで譲り合うかが問題となるが、両社ともに、「投信は21世紀の花形ビジネス」との思いがある、折り合うかは極めて微妙な感じである。98/9/4

『証券、厳しい再編圧力』~分離管理、4月から義務づけ~

■■証券会社の廃業、合併、買収■■

営業休止

98年 4月 松彦証券(名古屋市)

5月 大信証券(東京・韓国系)

6月 中村証券(岡山県倉敷市)

7月 日新証券(新潟県長岡市)

LG証券(東京・韓国系)

8月 東宝証券(北海道旭川市)

9月 石塚証券(大阪)

10月 昭和証券(大阪)

山吉証券(東京)

11月 東京フラワー証券(東京)

共済証券(名古屋市)

99年 1月 中井証券(大阪)

和歌山証券(和歌山市)

証券会社同士の合併

98年 4月 アルプス証券(長野県)と長野山田証券(長野県)

              7月 関東証券(東京)と堂島証券(大阪)

           10月 偕成証券(東京)と日本証券(大阪)と山加証券(東京)

99年 4月 菱光証券(東京)と大七証券(東京)

東海丸万証券(名古屋)と内外証券(東京)

ナショナル証券(東京)と明光証券(大阪)

三澤屋証券(東京)と今川証券(大阪)

ワールド証券(東京)と日栄証券(東京)

異業種による買収

98年11月 PCソフト流通のソフトバンクが大沢証券を。

99年 1月 格安航空券販売のHISが協立証券を。

証券会社が自社の資産と顧客資産を分けて管理する「分別管理」が4月から義務づけられることで、中堅・中小証券の経営が一段と厳しさを増してきた。顧客資産を「流用」して自社の運用に回すことが制限されるため、収益の低下を免れない。当面は大半の会社が経営を続ける構えだが、今年末までに株式いたく売買手数料が完全自由化されるという「激震」も待ち構えており、淘汰への圧力は確実に高まっていく。99/2/16

公的資金導入~導入観測・幻に発言に乱高下~

東京株式市場が激しい値動きを続けている。北海道拓殖銀行の破綻を受けた17日には平均株価が1200円上げ、18日にも大幅続伸。「株価低迷の底を打った」との楽観的な見方も出たほどであったが、19日には一転、900円近い急落状態に。こうした乱高下をもたらしたのは「公的資金導入」発言という実体の見えない言葉だけだった。「大手20行はつぶさない」という国際公約すら実現できなくなった北海道拓殖銀行の破綻は17日、思わぬ株価暴騰をもたらした。日銀特融の実施による預金者保護策が、本格的な公的資金導入への道を開く、との連想が市場に広がったため。翌日も橋本首相の幻の「前向き発言」をきかっけに大幅に続伸という予想外の事態となった。

しかし、今年半ばまで、株価を支えてきた外国人投資家の日本売り基調はこの間、まったく変わっていない。こうした背景があるため、「発言」が否定されると、株価はたちまち急落した。金融全体が売られた19日の東京市場の中でも、経営基盤が弱いと見られた銀行や証券株は、徹底的な売り攻撃を受けた。様々なうわさが飛び交い、連日大商が続いている山一証券株は、一時ストップ安まで売り込まれ、終わり値も上場来安値となる65円に。銀行株も、17銘柄で今年最安値となり、日本債券信用銀行株が100円割れしたほか、第二地銀の中には、額面50円を割る銘柄も出た。97/11/20

『追い詰められて介入』政府・日銀が四カ月ぶりに踏み切った円買いドル売り大規模な市場介入は、橋本首相が減税政策を表面したのにタイミングを合わせ、1ドル=130円大の円安は許容しない姿勢を打ち出したもの。

景気の後退が鮮明になる中で、相次いで打ち出した金融システム安定化や景気後退策はいずれも『日本売り』の流れを覆せなかった。主要国7ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)を控えて、日本の経常黒字の拡大をもたらす円安を放置すれば、国際的な批判も招きかねない。介入は、追い詰められた中での選択だった。

松永大蔵大臣、速水日銀総裁は『ニューヨーク市場で3回にわたってかなりの円買い介入を実施した』と発言するなど、当局の意思表示の強さが目立つ。東京市場でも、当初は『効果は小さい』と見ていた市場関係者らが、介入規模が膨らむ中で『甘く見ないほうがいい』と見方を変えてきており、一定の効果はあげたようだ。こうした姿勢の背後には、橋本首相が財政構造改革路線の転換を打ち出したにもかかわらず、円に『失望売り』が浴びせられた状況への危機感がある。日本経済の先行き不安は根強く、4月始めには、米格付け会社のリポートをきっかけで『日本売り』が起きた。

一段の円安が進めば株安との悪循環を起こし、『金融システム不安の再燃を招きかねない』。介入には、政策不信に陥っているマーケットに威信をかけて望まざるをえなかった姿が、透けて見える。一方、ここ数年の円安局面は、内需不信に陥った日本経済に、輸出拡大で一息つく余地を与えてきた。しかし、アジア経済危機がくすぶる中で、日本だけが黒字を拡大させることにも限界が見えてきている。速水総裁就任後『為替水準は市場がきめる』としつつも『このままでは年間の経常黒字は1000億円を超えてしまう』と述べ、円安に疑問が出るのは当然としていた。しかし、円安の流れを止めることはもろ刃の剣でもある。3月に日銀経済観測調査(短観)では中小企業の景況感の悪化が目立っており、輸出に依存する中小企業にとって為替相場の反転は苦境をもたらしかねない。また円高による輸入物価の下落はデフレ傾向に拍車をかける可能性もある。介入が一時的な成功を見せたとしても、景気を回復軌道に乗せる道筋が急に見えてくるわけではない。

『円安是正に冷たい米』円安ドル高に効果的な歯止めをかけようとしている日本政府に対して、米政府の『素っ気なさ』が目についている。従来のドル高政策を基本的に続けたいから。政府・日銀の市場介入でニューヨークの円・ドル相場が一時的とはいえ、一気に4円以上の円高に振れた9日、ルービン米財務長官がタイミングよく日本政府を援護射撃する異例の声明を発表するなど、息のあった強調ぶりを見せつけた。しかし、数時間たつと『米国の為替政策には変更なし』というドル高を容認する財務省高官のコメント市場に流れだし、結局この日はじりじりと円安に戻る展開になった。

『今の米国政府は、おつきあい程度しか円安是正に協力しないだろう。最近のドル高水準が一番、肌にあっているからだ』という見方が広がっている。8年目に入った米景気拡大は、ドル高の後押しがかなり効いている。昨年からのアジア経済危機はドル高に弾みをつけ、原油などの輸入価格を安定させ、加熱気味の米景気を適度に冷やしている。

インフレ懸念は遠ざかっており、金利上昇圧力も今のところ弱く、株式市場は空前の活況だ。市場介入が効きすぎて、ドル安に拍車がかかり始めると、ほどよい景気拡大に冷や水を浴びせかねない。米市場には『米政府が容認できる水準は1ドル=120円くらいまで』との見方がある。この水準を超すドル安になれば、『米経済の先行き不安が募り、悪夢のドル売りが本格化する』というのだ。その一方で、今の水準を大きく上回るドル高も、米政府は避けたいようだ。一層のドル高円安が進めば、政治問題化しやすい米国の対日貿易赤字がさらに悪化するのは必死。

円安でアジア諸国の対日輸出に一段とブレーキがかかり、アジアの不況が長引く懸念もある。すでに米企業はアジアの不振で収益が悪化している。『日本版ビックバンで日本を離脱する円の動きが加速し、円売りドル買い圧力は長期的に高まる。』という見方が広がるなかで、円安に歯止めをかける効果的な方法があるとすれば、『ルービン長官が声明で言及した『日本が景気対策を早急・確実に実現させること』だろう』という見方が大半。98/4/11

『公的資金導入への批判』民間信用機関の帝国データバンクが発表した銀行員の給与動向調査によると、97年度の行員1人あたりの年間給与・手当額は814万円(平均年齢36.9歳)、前年度よりも15万(1.9%)増加している。全産業の大卒男子の平均年収(35歳)が600万円弱というから、まさに銀行員は得である。だったら公的資金なんていらないはずである。だいたい自分の失敗でにっちもさっちもいかなくなったくせに税金で助けてもらい、それなのに困っている中小企業に相変わらず貸し渋り。しかも自分の収入は平均所得者よりはるかに上。ふつう業績が下がったら給料は下がるものである。納税者をバカにしている。

『「出資を!」低頭大手銀行』公的資金の導入に向けて金融再生委員会の審査を受けている大手銀行各行が、一方で、優先出資証券などによる資本調達を急いでいる。公的資金だけに頼っていたのでは、市場から評価されないし、将来政府による経営への介入を招きたくない、との思惑もある。しかし、大手各行が一斉に資本調達に走った結果、出資を求められている民間企業からは「銀行の財務体質向上のために、次々と負担を増やされるのはかない」と、不満の声が高まっている。

「これじゃあ、金貸しでなく『金借り』だ」。大手各国から相次いで、資本協力の要請を受けた大手メーカー首脳は、銀行の態度に苦りきる。一般の企業には、取引銀行から貸し渋りにあっているところも少なくない。そんな状況下で「出資お願いします」と頭を下げて回る銀行に対し、要請を受けた企業側には不満が募る。旧財閥グループのような強力な企業群を親密先として抱えている大手都銀は、比較的、資本調達がしやすい。それでもグループの大手企業幹部は、底無し沼にはまり込んだように不良債権処理に追われる銀行の様子に不安を抱き、「出資を頼みに来た銀行幹部に、もうこれで最後ですよ、と念押しした」という。かつては「床の間を背に商売する」と言われた大手銀行と、融資先企業の立場は逆転している。

今年3月期に普通株や優先株による第三者割り当てや劣後債・劣後ローンなどの発行によって資本調達しようとしている銀行は大手12行。都銀では第一勧業だけが「今、取引先に出資を求める環境ではない」として自力調達を見送り、公的資金申請額を当初予定の5000億円から9000億円程度まで上積みする。政府介入を嫌って公的資金の申請を見送った東京三菱銀行は、優先株、優先出資証券や劣後債の発行で来年度まで約8500億円を調達する。しかし、残る11行は数1000億円規模の公的資金を導入する予定なのに、自力調達が必要となっている。

一つは、「公的資金だけでは格付け会社の評価を得られない」ことがある。健全銀行への公的資金注入は優先株が中心。普通株より配当が高い優先株は社債に近い性格を持ち、資本増強効果が限定的と見られている。また将来に渡って政府が経営介入してくる可能性も排除できない。審査の結果、再生委委員会から公的資金を認められないことを恐れる銀行もある。自力調達で自己資本比率規制を最低限は達成しておき、公的資金はさらに比率を上積み上げるために使いたいとの思惑がある。

東京三菱、住友、さくらなど多くの銀行が資本調達手段の一つとして採用したのが「優先出使用権」。銀行本体が発行するのではなく、ケイマン諸島など「租税回避地」と呼ばれる地域に設けた子会社が優先株を発行して資本調達する。配当が高いのに加えて、こんな複雑な手続きを取ってまで発行するのは、この方法だと、自己資本比率の算出で劣後債などに比べて有利な上、将来、普通株に大量に転換されないようにできるから。転換型優先株のように将来、普通株に転換される可能性がある商品を発行すると、株数の急増を見込んで株価が下落する見込みがある。ただでさえ、株安に悩む大手各行にとっては「それだけは避けたい」という。99/2/6

銀行の優先出資証券 ケイマン諸島などの非課税地域の親企業が100%出資して設立した特別目的会社(SPC)に発行させた優先株のこと。親企業の銀行が、自己資本比率をを計算する上で狭義の自己資本を示す「基本的項目」に算入できる。本体の定款を変えなくともよいので機動性があるほか、普通株への転換権を付けなければ、発行済株式の需給に悪影響与えずに、自己資本を増強できることで、ここ数年邦銀大手が積極的に利用している。

『大和銀・第三者割り当て増資、251社で総額522億円』
大和銀行は10日開いた取締役会で、総額522億円の第三者割り当て増資を今年中に実施することを正式決定した。大株主や関西系の有力企業などを中心に、最終的な引き受け先企業数は251社にのぼる。金融界では、筆頭株主で親密な関係にある野村証券がグループで40億円の増資に応じるのをはじめ、東京生命保険が25億円、富士火災海上保険が20億円を引き受ける。関西系企業では大阪ガスが20億、関西電力とJR西日本がともに15億円引き受けるほか、奥村組、鐘淵化学工業、積水ハウス、シャープ、任天堂、ヤンマーディーゼルなども増資に応じる。増資額の半分を資本金に組み入れる。大和銀の現在の資本金は2350億円で、今回決定した第三者割り当て増資と、近く金融再生委員会に申請する公的資金による資本注入役3000億円によって財務基盤が格段に強化されることになる。
99/2/10

『トヨタに2ー40億要請・東海銀行増資』
東海銀行は、財務基盤を強化のため98年度内に実施する1000億円規模の第三者割り当て増資について、筆頭株主のトヨタ自動車に対し、増資の一部を引き受けるよう要請していることを明らかにした。要請額は20億-40億円程度と見られる。トヨタは昨年、さくら銀行の増資引き受け要請を見送っている経緯があり、東海銀行の要請に応じるかどうか検討に入った。

東海銀行の資本金は3690億円で、トヨタは昨年3月末で5.3%を出資する筆頭株主。一方、東海銀行もトヨタに対し4.8%を出資し、さくら銀行などと並んで2番目の主要株主になっている。東海銀行の増資計画は、公的資金6000億円の注入とは別に、自力での自己資本増強をめざすもので、すでに中部の主要企業を中心に数10社に増資を要請し、中部電力などは基本的に受け入れの方針を固めている。99/2/12

『今後の課題と展開・公的資金注入』
大手銀行など15行に総額7兆延長の公的資金による資本注入されることが固まった。金融再生委員会や金融監督庁は資本注入を機会に、日本版ビックバン時代の生き残り策として、大幅なリストラ、経営の重荷なる海外業務からの撤退、投資銀行業務の強化といった新たな経営戦略づくりを各行に求めた。外資との提携などに乗り出す動きは出ているが、抜本的な経営改革からは程遠いとう見方がある。大手各行は21世紀に向けた確かな経営戦略を、まだ描き切れていない。

「銀行が主役の間接金融市場は、今後、縮小が避けられない。直接金融業務をどう伸ばしていくかが課題なのに、どこも腰が引けている」。金融再生委員会の幹部は不満を隠さない。各行とも、直接金融業務のうち法人取引は100%出資の証券子会社が担い、個人取引は系列の証券会社などに任せる、という基本戦略。しかし、投資銀行業務の中核となる企業向けの総合金融サービスでは、証券化など証券分野の金融ノウハウが欧米に比べ遅れている。また、系列証券は、株式市場の低迷で経営不振に苦しんでおり、むしろ、銀行の「お荷物」になっている。

このため、明確で思いきった将来像が描けている銀行はほとんどない。19社あった金融機関の証券子会社は、「親」の破綻などで、14社に。興銀証券や東京三菱証券、第一勧銀証券など上位の会社は、国債の入札や普通社債の引き受けで証券大手に肉薄する実績を残している。しかし、高度な金融技術を駆使して業容を拡大する分けでもなく、「親銀行の「力」を背景に、既存証券の従来の仕事を奪っているだけ」との見方がある。

証券業界には「銀行の証券子会社は、証券化商品などの品揃えが手薄で、外資系との提携など思いきった決断が必要」との声が多い。しかし、外資の狙いは日本の金融機関が築いてきた企業や個人の顧客網だけに、銀行側には「顧客基盤をさらわれるわけにはいかない」との警戒心が先にたつのが現状。一方、個人取引分野でも、大手各行は明確な方針を示していない。興銀は新日本と和光、東京三菱が菱光と大七、さくらは山種や神栄石野、第一勧銀は勧角などの系列証券を持つが、経営不振の会社が大半。

菱光と大七が合併して「東京三菱パーソナル証券」に衣替えすることを決めたり、勧角は第一勧銀から追加出資を受けるなどテコ入れ策が相次いでいるが、いずれも経営支援色が強く、各行の個人取引分野を担うには力不足の感が強い。また、大手証券各社の帰趨(きすう)もほぼ決着した。富士銀行を中心とする芙蓉グループに近かった山一証券は破綻し、東京三菱銀行と親密だった日興証券は「日本の金融機関とだけ組んでもメリットはない」として米シティグループと提携した。最大手の野村証券は興銀と部分提携したものの、独立路線を崩していない。大和証券と住友銀行が広範な提携に踏み切っただけ。

 公的資金投入の予備審査で、金融再生委員会・金融監督庁は各行の事業分野の採算性、将来性のチェックを重点を置いた。海外業務もその一つ。再生委・監督庁には「国際舞台で活躍するマネー・センター・バンクは2、3行で十分」。力のない銀行が海外に残ることで、信用不安がくすぶれば日本全体のマイナスにつながる。

収益の望めない銀行は、撤退を含め思いきった海外業務の見直しを急ぐべきだ」との思いが強い。邦銀の海外業務は1980年代後半、急拡大した。豊富な資金量を背景にトップの格付けを取得、薄利な運用で欧米銀行を脅かした。だが、こうしたバブル部分を除けば、国内取引先の海外拠点向け業務や、上位行にぶら下がる形での融資にとどまる邦銀がほとんど。債権発行や大型協調融資の幹事業務、企業合併・買収(M&A)、先端金融商品を駆使した市場取引など、海外の主要銀行と競って収益を生み出せるノウハウや人脈、資金力をつけた銀行は少ない。

大手行の相次ぐ破綻で金融システム不安が広がると、格付けは下がり、国際金融市場では「ジャパンプレミアム」により調達コストが急上昇、海外拠点の多くは逆ザヤ状態に陥っている。外貨での資金繰りに窮した大手行は、不採算な海外資産の圧縮に懸命。このため、昨年夏の監督庁による大手行一斉検査以降、公的資金投入に至る経緯のなかで、都銀で下位の大和銀行が、信託銀行で三菱信託銀行、住友信託銀行を除き大手6行中4行が、海外銀行業務の撤退を表明した。しかし、予備審査最終段階で、東海銀行、あさひ銀行は一部に流れた海外完全撤退を否定した。

「中部地区ではトヨタ自動車グループをはじめ海外展開を望む企業が多く、迷惑がかかる」など、打ち消しに躍起。東海銀は海外拠点を半減させる方針だが、海外撤退が国内の顧客離れも引き起こす、との懸念は根強い。上位行になるほど取引先や1件当たりの資金量が大きいことも資産整理を難しくする。邦銀は軒並み体力を落しており、自行グループ企業の維持で手一杯。

「仮に撤廃するので、うちのグループ企業の面倒を頼む」といわれても、引き受ける余力はない、というのが実情。頼みの綱の欧米有力金融機関も、昨夏以降のロシア危機や中南米の経済不安で多額の損失を出すにいたり、慎重姿勢へと転じた。特別公的管理(一時国有化)の元で海外資産の売却を急いでいる日本長期信用銀行ですら、「一括売却下が見つからない。売り急ぐと足元を見られて安値で買い叩かれる。損が出れば、公的資金の負担増につながる」というジレンマに悩んでいる。海外業務の先行きに確信は持てず、かといって海外から引くに引けないまま中途半端な状態の銀行も少なくない。99/2/12

『公的資金導入』
金融再生委員会、金融監督庁と大手銀行との公的資金煮よる資本注入を巡る綱引きが、各行への内定通知で一応、峠を超えた。政府はリストラや合併、提携などの再扁戦略を条件に、資本注入で日本経済回復の足かせとなっている不良債権問題を解決させたいと、銀行側に「決断」を迫った。一方、銀行側の対応は当局からの圧力をしのぐための辻褄あわせの感が拭えない。税金をつぎ込まざるを得ない事態を招いた経営責任を認める弁も、銀行側から聞こえてこない。

12日、三菱信託と住友信託銀行の「合併を視野にいれた全面交渉」が一部で報じられた。報道を受けて三菱信託は「具体的事実はございません」とコメントを発表。一方、住友信託は報道を否定しつつも、「両社で協力できることについては検討してまいりたい」と前向きな姿勢を示した。三菱信託のある幹部はいう。「あちらさんの株価対策ですか。それとも再生委対策ですか。お上は評価するという認識なんでしょうね」。公的資金の申請に当った大手信託銀行幹部は口を揃える。「信託銀行への風当たりは予想以上に強い」。

企業年金や個人の資産管理など信託事業の将来性を強調しても、取引先数、店舗や人的資源などで都市銀行に劣る信託の弱点を指摘された。第一勧業銀行とともに設立する合併会社に、安田信託銀行の法人部門の移管を発表していた富士銀行だが、「残る個人部門の先行きをもっと明確に」と求められ、1月に入って安田信託の子会社化を決めた。三井信託銀行と中央信託銀行は合併構想を打ち上げ、東洋信託銀行は三和銀行と提携し、事実上、三和の傘下入りした。唯一の信託兼営の都銀、大和銀行は海外撤退と関西地銀との提携を表明。にもかかわらず、「三井信託と中央信託の合併が成就する可能性は5割程度」と業界内で噂が飛ぶ。「公的資金にらみの駆けこみ提携がどれだけ実を結ぶか、先々検証する必要がある。と大手生命保険会社首脳は皮肉った。経営再建のために税金をもらうのに、経営者にはその自覚が乏しい。

「不良債権の増加は、バブル経済の崩壊、それに続く景気低迷が背景にある。経営の意志決定に問題があったとは言い切れない」。日本の金融システムが揺らいだ主な原因はバブル崩壊と景気低迷にあり、経営者に責任はない、という。各界から「赤字になり、公的資金も必要になったというのに、銀行経営者からは責任論が出ず、開き直っている。経営モラルの問題」と嘆きが聞こえる。

15行に公的資金

 

 

住友

5000

大和証券と提携強化、米T・ロウ・プライスと資産運用分野で提携。

三和

7000

東洋信託銀行の増資1000億円を引受、筆答株主に。

富士

10000

安田信託の子会社化、一部は分離し第一勧銀と新信託銀を設立

第一勧業

9000

不良債権9700億処理、米J・P・モルガンと投信合弁会社を設立

さくら

8000

年金分野で三井系金融4社の連携強化、証券分野で外資提携を模索

東海

6000

海外拠点を半減、あさひ銀と持ち合い株会社にらみ提携強化

あさひ

5000

地域金融を強化、東海銀と持ち株会社設立を視野に提携

大和

4000

海外撤退、地域密着型銀行への転換で近畿銀、大阪銀と提携

日本興業

6000

第一生命と全面提携、野村証券と年金、金融先端技術分野で合弁

三菱信託

3000

三菱系金融4社での証券子会社統合、投信評価会社設立

住友信託

2000

住友銀などグループ内で年金・信託・証券分野の連携強化を検討

三井信託

3500

中央信託銀と合併、海外撤退、米プルデンシャルと投信分野で合併

東洋信託

2000

三和銀向けに1000億の増資増強、海外融資業務からの撤退

横浜

2000

海外拠点からの全面撤退

金融の提携について
金融業界を調べるにあたって、昨今の複雑な提携関係についてまとめないと、画龍点睛を欠く(分かりやすい表現で言うなら「片手落ち」)ことになりかねないので、ここに記す。表Ⅰ 国内外での営業譲渡・提携関係

営業譲渡

山一證券(証券)→メリルリンチ(外資)

北海道拓殖(都銀)→中央信託(信託)、北洋銀行(地銀)

国有化

長銀(長信銀)

日債銀(長信銀)(※5)

提携

東京三菱(都銀)⇔三菱信託(信託)⇔明治生命(生保)⇔東京海上(損保)

東京三菱(都銀)⇔日本信託(信託)

野村證券(証券)⇔興銀(長信銀)⇔第一生命(生保)

大和證券(証券)⇔住友(都銀)(⇔住友信託全面協力)(※1)

東海(都銀)⇔あさひ(都銀)

日本生命(生保)⇔ドイツ銀行(外資)

日興證券(証券)⇔トラベラーズ(外資)

日債銀(長信銀)(※5)⇔バンカース(外資)

三和(都銀)⇔横浜(地銀)(全面提携)(⇔千葉(地銀)打診中)

三井信託(信託)⇔中央信託(信託)

増資要請

さくら(都銀)⇒三井信託(信託)⇔三井生命(生保)⇔三井海上(損保)

さくら(都銀)⇒三井物産(商社)

さくら(都銀)⇒トヨタ(メーカー)(※2)

富士(都銀)⇒安田信託(信託)⇔安田生命(生保)⇔安田火災(損保)

合併

バンカーズ・トラスト⇒ドイツ銀行

日債銀(長信銀)(※5)⇒中央信託(交渉中)

大同生命(生保)⇔太陽生命(生保)(※6)

提携 &

子会社設立

富士(都銀)⇔第一勧銀(都銀)(※3)

三井信託(信託)⇔プルデンシャル(外資)(※4)

(※1)3社共同出資のもと、投信銀行、デリバティブ会社、資産運用会社を設立。資産運用会社は住友生命・住友海上の資産を活かした共同事業により,各艇拠出型年金のシステムを開発する。

(※2)公的資金導入が決定したため、トヨタは増資拒否。

(※3)提携により、共同出資で子会社を設立、その結果として安田信託銀行の証券代行(年金)業務は富士に、投資信託業務は安田生命に、それぞれ譲渡される。

(※4)プルデンシャル三井トラスト投信。

(※5)一時国有化決定(12/13)。

(※6)株式会社設立へ。

(参考:文藝春秋編『日本の論点’99』)

表Ⅱ 各都市銀行の3月期決算見通し(単位:億円)

銀行名

不良債権額

公的資金要請額

計上損益

リスク管理債

備考

都銀系

 

 

 

 

 

東京三菱

5500

300

18,617

本社売却。

さくら

9100

40006000

6200

15,915

グループ内での自助努力中。

住友

8000

40005000

3700

15,344

 

富士

4500

50007000

5500

10,929

 

第一勧銀

3000

5000

500

9,371

 

三和

8000

6000

5000

9,371

 

あさひ

4000

40005000

2000

6,860

 

東海

6000

30004000

3700

13,860

 

大和

2700

3000

1800

7,044

 

長期信託系

 

 

 

 

 

興銀

6000

50006000

1100

11,429

 

日債銀

7350

表明見送り

6200

11,785

あっというまに国有化

信託系

 

 

 

 

 

三菱信託

3300

2000

150

6,170

 

三井信託

3700

20004000

1300

6,008

中央信託と提携

住友信託

2100

2000

200

6,626

 

安田信託

1300

1500

350

7,805

 

中央信託

800

1300

320

2,802

公的資金額は,北海道拓殖銀行の本州地区営業譲渡に伴うもの。

東洋信託

2900

2000

1620

3,787

 

(※)計上損益の赤字斜体は、つまり、赤字。リスク管理債とは、各銀行の抱えている債権のうち、回収の見込みの薄い債権の総額を指す。

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